第10話 先生
「みなさん、入学式、お疲れさまでした」
遅れて教室に戻ってきた気識はどっと疲れていた……遅刻に関して怒られていたのだろう。
つんと尖った唇から分かる、子供っぽく拗ねた感じが分かりやすい。
きらなにとっては退屈な入学式だったが、気識からすれば勉強だったようだ。
「私もお疲れでしたけどね……と、まあそれは置いておいて。
先生らしく最後の言葉を言って、今日はみなさんとお別れ、という形になりますね」
さすが、私情を挟まない、先生らしい切り替えだった。
(教室に入る前にするべき、とも言えたが……)
彼女は落とした肩を持ち上げ、背筋をぴんと伸ばす。
そして、こほん、と一拍入れてから、気識が言った。
「この高校一年生というのは、少女から女になる――そんな時期の気がするんです。
一番楽しくて、でも一番大変で……一番大事な時です。先生もこの時期に、色々と――それはもう色々と大事なことを学んで、感じましたから。
今の私があるのはこの時期に頑張ったから――というのが一番ですね。だからって、と言うわけじゃないですよ? 私がそうだからって、みなさんに強制するわけじゃないですけど、先生側からすれば、やっぱり言いたいわけなんです。
今、頑張ろうって。
過去なんて関係なく、生きているのは今なのだから――だから【今】を楽しむべきだって」
クラス一同が聞き入っていた。
内容が、全員に刺さっているのだ。
きらなも、民美も、れいれも。
「未来を見るのもいいです。未来のために、いま大変な思いをするのもいいです。
それは個人の勝手ですから、私はなにも言いません――と言うより、なにも言えません。
お好きにどうぞ、って感じです」
気識は、でも――と言葉を続けた。
「大変だな、で済む程度に収めてください。苦しい、まではいかないでください。
そんな生徒たちを、私は見たくなんてないですから」
そう言って、気識が微笑む。
それから両手を合わせるように、勢い良く叩いた。
ぱぁん、と静寂を突き破る音が教室内に響いた。
聞き入っていた一同の意識が、その音で現実世界へ戻ってくる。
【今】を楽しむ。
じゃないともったいないよ、と。
「――それじゃあ、帰りましょうか」
気識が初日のホームルームを、そう締めた。
今日から始まった高校生活。
これから、三年間、ここで過ごすことになる。
その初日としては、及第点以上の、得られるものがあった。
「明日また、会うために。帰りましょうか」
誰かが、起立、と言った。
きらな含め、クラス全員が自然とその声に従って立ち上がる。
言ったのは民美だ。誰もその声に疑問を抱かない。
彼女なら言うだろうというキャラクター性が認知されていたからだ。
クラスでの立ち位置。
民美は既に受け入れられていた。
いいなあ、ときらなは思う。
でも、そう思っているきらなも(良し悪しは置いておいて)クラスのマスコットキャラクターとして定着しつつある。それは民美からすれば、いいなあ、なのだ。
隣の芝生は青く見える。
人が持っているものは欲しくなる。
たとえ、それが自分に合わないものだとしても。
そして、礼、と、今日一日の学校生活に幕を下ろす一言があった。
「はい、みなさん、さようなら――ですね」
気識が言って、教室を出ていく。少し足運びが軽そうだったのは、生徒と同じようにこれで帰れるから、なのかもしれない。感覚が似ているのか? だからみんなに受け入れられている……それにしても、優しいけど、嵐のような先生だったと、きらなは彼女を評価する。
きらなだけではない、クラス一同の評価だった。
気識がいなくなり、教室内がざわざわとし出した。これからどうするのか、仲良し同士で話し合いでもしているのだろう。中学からの友人、席が隣で仲良くなった生徒もちらほらいる。きらなはどうしようか迷いながら鞄を机の上に置いたところで、目の前を横切る人物に気づいた。
慌てて立ち上がり、彼女を追う。
廊下を見れば彼女の姿はもう遠くにある。
後ろからきらなを呼ぶ声が聞こえたが、その声に返事をしている暇はない。
彼女を追いかける、これだけは譲れなかった。
ここで追いかけ、解決をしなければ、明日も明後日も、関係は壊れたままだ。そんな気がする……だから、
きらなは階段の途中、踊り場にいる彼女の肩に手を伸ばす。
触れた。引き止めることができた。
奇しくも同じ場所だ。
――関係が悪化した、あの場所だった。
彼女が振り向く。
きらなが名を呼んだ。
「待ってよ、れいれちゃんっ!!」
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