第6話 教室

 呆然としたまま、だ。

 チャイムが鳴り終わって数秒が経った。

 

 その間、ずっと沈黙していたきらなは、やっとのこと、覚醒する。

 教室へ早く向かわなければ、と思い出し、慌てて階段を駆け上がった。


 辿り着いてから一息つく間もなく、扉をがらら、と音を立てて開ける。

 廊下と教室の境界線を勢い良く飛んで越える。

 中に入り、まず目に飛び込んできたのは『入学おめでとうございます』というお祝いの言葉だった。意外にも黒板がよく見える。どうやら担任の先生はまだ、時間を過ぎているが来ていないようだ――。助かった、と安堵の息を吐く。まだ遅刻ではない、と言ってもいいのでは?


 視線を黒板から、教室全体へ。自分の席を探す。

 そこで、

 クラスメイト、総勢三十二人の生徒たちに見つめられていることに今更ながら気づいて、びくっ!? と体を震わせた。


 注目を浴びてしまっている……遅刻者を糾弾するような視線――ではなかった。

 クラスメイトたちは、違反者を咎めるのではなく、単純な興味があるのだろう。


 きらなが、まるで小学生のような体型をしているから、目を引くのだ。

 珍しいものを見たとなれば、視線もなかなか外れない。

 小っちゃくて可愛い、という視線が大半を占めていたが。


 きらなからすれば戸惑うばかりである。

 嫌悪でないだけマシだが、ここまで好意の視線を浴びるのも、それはそれで今まで体験したことがなかったのだ。やがて、戸惑いを越えて軽いパニックになってしまった……。

 このパニックをどうにかして落ち着かせたい。そこで、方法としてはまず、ゆっくりと腰をつけたい――さて自分の席はどこだろうとあらためて視線を回すと……あれ、ない?

 え、どうして、席がない!? 早速いじめに遭っている!? と、さらにパニックがエスカレートしていくきらなは、席がない簡単なトリックに気づけていなかった。


 出席番号【一番】。

 黒板側、そして廊下側の入口から入ってきたきらな――彼女の席は、真下だ。


 灯台下暗し。

 冷静になると、冷や汗が引いていく。

 自分の席を見つけたきらなは、腰を椅子につけ、ふう、と一息つく。


 そこで、自分の席の真後ろ。そこにはれいれがいると、遅れて気づく。

 先ほど、良くない別れ方をしたのだ。正直、後ろを向くのがきまずかった。

 声をかけるべき、かけないべきか。迷った挙句、きらなが取った行動は、結局は声をかけることだった。あのまま、ぎくしゃくしたままこれからの生活を過ごしたくはない。


 だからこそ、とりあえずは話を振ろう。

 内容はなんでもいい。好きなものでも昨日のことでも。天気の話でもいいだろう……とにかくなんでもいいから会話を交わすことが重要だ。よし、ときらなが振り向こうとした時だ。


 がらら、と音を立てて、タイミング悪く、担任の先生? らしき人物が教室の扉を開ける。


「はいはーい、みなさん、おはようございますねー」


 教室に入ってきた、黒いスーツの――まるで社長秘書にも見える雰囲気を纏う、若い女教師が教卓の前に立った。


 彼女のあいさつに一瞬の沈黙が生まれたが、しかしすぐに「おはようございます」と女教師の言葉を繰り返すように、一年一組、一同が声を揃えて返す。


「はーい、みなさん、元気があってなによりですね。

 ――それじゃあ、まずは自己紹介からいきましょうか、と言ってみたもののですね……。

 これからすぐに入学式なんですよね。

 だから、そうですね……、一応、私の名前は覚えてもらえたらいいかなー、なんて思っているので、自己紹介、しましょうかね」


 女教師がチョークを持ち、黒板の真ん中に自分の名前を書いていく。

 かりかり、かりかり、と規則的な音が静寂に包まれる教室内に響く。

 黙々と、だった。


 そして十秒ほどで音がやみ、女教師がくるりと踵を返す。

 書いた文字を、チョークで黒板を指しながら、


気識きしきほまれ――と言います」



 女教師――、あらため、気識は、表情を見せつけるようにニッコリと笑った。

 優しそうで、若くて、そして美人な先生だった。これがきらなが抱いた第一印象である。


「これから三年間、よろしくお願いしますね」


 ぺこり、頭を下げてから、気識は右手首につけている腕時計をちらりと見る。

 そして、「んにゃ」と教師らしからぬ声を出した。

 不意に出たようだが、彼女は自覚がないらしい。


 それよりも時間を確認し、すぐに一年一組、一同に伝える。


「それじゃあ、時間を過ぎているのですぐに体育館へ向かいましょうか」

 そう、少しだけ焦りながらだが、言った。


 不安そうな顔である。その表情は、生徒からすれば彼女以上の不安を抱く。


 時間を過ぎている……、と気識が言ったが、遅れてきたのは先生なのでは?

 彼女が早く教室へ来ていれば、今頃はもう、教室を出発していただろう。


「焦っていませんよ? まったくもって、全然、焦っていないです。

 ほら、入学式に遅刻するなんて、大した問題にはなりません、ですからね」


 慌てながら言う気識の言葉は、説得力の欠片もなかった。


 クラス一同の感想が一致する。今日初めて出会い、まだ自己紹介すらしていない関係だったが、それでも全員が同じことを、担任の教師――彼女へ抱く。


『この先生、面白いけど、心配で心配で仕方がない』


「だ、大丈夫。うん、大丈夫……、すぐに、ほらすぐに行きますよっ!」


 気識は、分かりにくいが、それでもぷるぷると震えている。恐らく、この失態の尻拭いのことでも考えているのだろう……、彼女も、もしかしたら新米なのかもしれない。

 怒られる。今から想像して震えているのだろうか。


 秘書みたいな雰囲気でも、彼女自身は小動物のような気の小ささだ。

 彼女の自業自得だし、そうでなくとも注意されるのは仕方のないことだろう。なんとかしてあげたい、と思うが、生徒が首を突っ込むことはできない。できないことはないが、それだけだ。

 解決まではいけない。だから可哀そう、としか思うことができなかった。


「い、いきましょう……あはは……はぁ」


 心の中で、頑張れ、と応援しておいた。

 彼女よりも自分が頑張らないといけないことを、今だけは棚に上げておいて。

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