第4話 雨谷れいれ その1

「え、と――」


 きらなは口の中で言葉をころころと転がす。

 言いたいこと、言うべきことは分かっているのに……、

 喉が絞まってしまったように苦しくなってしまう。


 頑張って開きそうだった口は、だけど、すぐに閉じてしまいそうになる。


 だが、手を差し伸べてくれた彼女の意識が、他の、きらなではないなにかに移動しそうな気配を感じ取ると、きらなは、ここで声をかけないわけにはいかなかった。


「――待って! ……えと、助けてくれて、ありがとう」


「助けてないわよ。助けるというのは、あなたがあの集団に突っ込んで行くのを止めることを指すから。突っ込んで、押し返されて、地面に倒されて――、その状態のあなたに手を差し伸べたところで、私はあなたを助けたことにならないわよ」


「そんなことないよ。

 もしそうだとしてもね、わたしにとっては助けてくれたことと同じだよ」


 きらなの言葉に、少女は「むう」と困ったような顔をする。


 彼女としては、これで会話を切ろうと思っていたのかもしれない。

 これ以上、関わる気がないと言った様子だった。

 だからきらながそう返事をしたことに戸惑ったのかもしれない。


「わたしは朝日宮きらな。あなたのお名前は?」


「……雨谷あまがい、れいれ」


 少女――、れいれは名乗ってから、すぐにきらなから視線を外した。


 足を踏み出し、きらなから距離を離そうとする――。


 しかし、きらなはれいれの行動を予感していたように、素早い動作でれいれの腕を取って引き止める。


「なに?」


 そうれいれに言われて、きらなは言葉に詰まってしまう。

 なぜこんなことをしたのか、自分でも分かっていなかった。


 どうして体が勝手に動いて、れいれを引き止めたのか。

 れいれの腕を掴んだまま、ぴたりと止まってしまう。

 ……きらなは本能的に分かっていた。


 きらなは、れいれが遠くに行ってしまうのを嫌だと感じたのだ。

 彼女と、もっともっと一緒にいたいと思い、

 それが、結局のところ引き止めた最大の理由なのだ。


 それは世間で言う、男性が女性に抱くものだろうけど、しかし、女性が女性に抱かないと言われているわけでもない。だから間違いではない感情だ。


 一目惚れ、というやつなのかもしれなかった。


「れいれ、れいれ……かあ」

「なによ、人の名前をぶつぶつぶつぶつ――、お経みたいに呟かないでくれる?」


 そう、きらなの呟きに反応してしまってから、れいれは、しまった――とでも言いたそうな、苦虫を噛み潰したような顔をする。


 会話を終わりにしたかったのに声をかけてしまったことに後悔でもしているのだろうか。


 だけどきらながれいれの腕を掴んでいるので、会話をせずに会話を切るということは不可能とも言えることだった。そんなことは、れいれの頭の中にはなかったようだ。

 それよりも目の前にあるきらなの、にやりと笑った表情を見てから――、


 れいれは、


「な、なによ?」


 と、裏返った声を出す。


「れいれちゃんだね」

「はぁ!?」


「れいれちゃん、れいれちゃんっ。

 ふふっ、ちゃん付けで呼んだ友達はれいれちゃんが初めてだよっ!」


「ちょっと――待ちなさいよ!」


 きらなの無邪気な言葉にれいれは怒声をあげて、きらなの言葉を押し潰す。


 その様子に何事かと、掲示板の周りに集まっていた女生徒たちがなんだなんだと振り返った。

 ただ、振り向いて見えた光景は二人の女生徒がいるだけだった、ということを理解してか、振り返った女生徒たちはすぐに自分の目的に意識を戻す。

 事件や事故でなければ、注目度なんてそんなものだ。

 痴話喧嘩なら尚更、じっくりとは見ないだろう。


「誰が、友達だって?」

「わたしと、れいれちゃんだけど……」


「違うわよ。友達だなんて、そんな関係じゃないわ。私とあなたは今、ここで偶然出会っただけの赤の他人でしかない。それだけの関係なの――。分かったら私を二度と友達と呼ばないで」


 突き放すような言い方と視線と迫力に、少しだけ後じさるきらなだった。


 しかし、それだけで退いて逃げる行動に移すほど、きらなは物分りが良い方ではない。


 れいれは友達という単語に敏感に反応していて、友達を作ろうとしていない。

 そこにはなにか、重大な理由でもあるのだろうか。


 恐らくは、あるのだろう。


 理由もなく、あんなにも【友達】に対して嫌う感情なんて見せないだろう。


 友達を嫌うほどの理由があるということが分かった……が。

 それがきらなの行動を妨げる障害になっている……でも。


 それは、きらなの意志を押し潰すほどのものではなかった。


 それに、これくらいで諦めるほど、きらなは諦めの良い方ではない。


「れいれちゃん」


 きらなは突き放されてから数秒も経たない内に、れいれに声をかける。


 れいれが「友達と呼ばないで」と言うのならば、

 その通りに、友達と呼ばなければいいだけのことであって、簡単なことなのだ。


 ……いや、そう簡単なことではないのだが、と心の奥底では分かってはいるが。


 それでも今は、簡単なことだときらなは思う。


「一緒のクラスになれたらいいね」

「―――まだ……っ」


 れいれはなにかを言いかけて、しかし途中で止めた。

 言おうと思っていた言葉を切り替えた。


 そして出てきた言葉は、れいれにしては冷たくなく、突き放すような言い方ではない。

 諦めた彼女が出したのは、皮肉にも友達のような言葉だった。


「……まあ、なる可能性は低くはないけど。

 だけど、そう都合良くはいかないと思うわよ」


「そうかな、案外、ここで会えたのも偶然なわけだし、偶然が起きた後はまた偶然が起きるとも言うし、なんだかんだ言って、一緒になるかもしれないよ?」


「そう何度も何度も偶然が起こるとは思えないけどね」


 れいれがそう言っていると、いつの間にか掲示板の前に群がっていた生徒たちが次々とその場から離れて行っていた。


 どうやらやっとのこと、『見る』、『確認する』、『移動する』の循環が上手く流れるようになったらしい。


「……時間も時間だし、このタイミングで空くというのは必然なのかな」


「あ、空いたね。じゃあれいれちゃん、一緒に見に行こうよっ」


 きらなはれいれの白くて綺麗な手を掴んで引っ張り、ぐんぐんと生徒たちを追い抜いて、掲示板の目の前に辿り着いた。

 それから掲示板の内容を見て――、


「あ、クラスって五つもあるんだね」


 と、きらなが感想を呟いた。


 きらなの言う通りに、掲示板には五つのクラス【一組】から【五組】までが書いてあった。


 きらなは、自分は一体どこのクラスなのか、ドキドキワクワクしながら注目する。


 まずは一組から見ていこうと視線を移動させた。

 クラスチェックの行動をし始めて、

 早くも一発目のところで、きらなは自分の名前を見つけた。


 見慣れていて間違えるはずのない、忘れるはずもない自分の名前を見つけた。


 それは運が良いのか、悪いのか……。

 恐らくは悪いのだろうなあと思って、きらなはがっくりと肩を落とす。


 どこのクラスでどこの位置にいるのかワクワクドキドキが出来なかったというガッカリ感もあるが、それよりも、一組の【一番】というのがきらなとしては嫌だった。


 一組の一番ということは、学年で一番最初ということであり、だからと言って、なにかがあるというわけではないのだが――、しかし、きらなはなんだか嫌だったのだ。


 まだ二組や三組での一番なら許せたのだが、中でも一組というのは、どこでもいいと思っていたきらなでも嫌だと感じるところだ。


 きらなはその一番嫌なところを譲り受けてしまったということである。


 自分の名前が「あ」だから――。


【朝日宮きらな】なのだから、最初の位置にいるだろうとは覚悟していたが、まさか本当に、嫌な場所になるとは。

 やはり運が悪い。

 きらなの高校生活初日は、そんな気持ちで始まった。


 一気に沈んでしまった気持ちを無理やりに起き上がらせる。

【一番】になってしまったのは仕方のないことで、もう決まっていることだ。


 変更などできないのだから、もう認めてしまった方が楽である。

 きらなは気持ちを切り替えて、れいれの方を見た。


 せめてれいれとは同じクラスがいい、と微かな希望にかけて声をかけた。


「れいれちゃんはどこのクラスだったの?」


「後ろよ」

 とれいれは言った。


 その言葉はしっかりときらなに届いているはずなのだが、しかし、きらなはまるで理解できないとでも言いたそうな表情のまま、固まっていた。


 じっと、ずっと、れいれのことを見つめていた。


 すると、れいれは鬱陶しそうに、


「だから後ろだってば――あなたの後ろの、一組の【二番】」


 きらなはれいれの言葉を何度も頭の中で繰り返し、確認して、理解して――、

 すぐに掲示板の方へ振り向いた。


 もう一度、一組のクラス表を見る。


 自分の名前は変わらずそこに存在している。

 そして同じように【朝日宮きらな】の真下には【雨谷れいれ】と、書かれてあった。


 嘘ではなく、勘違いでも間違いでもなく、

 本物であって、本当だった……?


 きらなは疑ってはいなかったが、少し時間がかかってから、れいれと同じクラスになったということを信じ、すぐに後ろを振り向いてれいれの両手を取った。


「――やったやったっ! れいれちゃんっ、一緒のクラスになれたよっ!」


「え、ええ、そうね。まあ、可能性として充分にあり得る可能性だし、そこまで必死になって喜ばなくてもいいような可能性だし……。

 いやでも本当にこうなるとは思ってもみなかったって言うか、これは――」


 彼女は、口では冷静さを装っているが、しかし段々とボロが出始めてきていた。


 信じられないような表情を隠し切れておらず、れいれはまったく予想外という感情を表情の全面に押し出していた。


 きらなが嬉しさのせいなのか、れいれの表情、感情に気づくことなく、握ったれいれの手を上下に振っているだけで済んでいるのが、れいれからすれば良かった、と安堵する。


 鈍いそのきらなの対応には助かった。

 しかし、じゃれつかれるという点を見れば、れいれとしては全然【良かった】ではなかった。


「ちょ、そろそろ離して――それに、もう教室に行かないと、時間に間に合わな」


 と、れいれがきらなにそう言ったところで、

 校舎に取り付けられているスピーカーから音が出る。


 初めは、きーん、と耳に突き刺さるような甲高い音が数秒続き、

 その後に、音がやっと安定した。


 やがて、最も聞き取りやすい音質に切り替わり、

 音がすぅっと、優しく、耳の中にある鼓膜に届く。


 れいれときらなは放送を聞いて、すぐに掲示板の前から動き出した。


 校舎の中へ向かって行って、そして自分の教室【一年一組】を目指す。

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