第2話 朝日宮きらな その2
リビングには、お腹が思わず鳴ってしまいそうなほどに美味しそうな匂いが充満していた。
きらなはすぐにキッチンへ飛び込む。
「おはよう」
キッチンで朝ごはんの用意をしている母親にあいさつをする。
すると母親も、
「ん、おはようきらな。朝ごはんどうする?
食べる? 食べない? 食べるなら、いま作ってるこれあげるけど」
母親が、作っていたトーストにハムを乗せて、マヨネーズをかけるだけのお手軽で簡単にできる手間がかかっていない料理を差し出してくる。……、料理、か?
とは言え、お手軽で手間のかからない、料理としては曖昧な一品だとしても、母親が手間ではない手間を使っていることは確実だ。
なので、きらなは母親の厚意を無視することはせず、差し出されたトーストを受け取った。
「いただきます」
キッチンから出て、テーブルに腰を下ろした。
トーストを一口かじる。
家を出る予定の時刻は大幅に過ぎていた。
しかし、急いで食べることはしない。
(というよりは、大食いなど、きらなが苦手なのだ)
時間を気にしながら、ギリギリ間に合いそうな時間に調節しながら、トーストをゆっくりと味わって食べる。
キッチンから母親の、なんの曲なのか分からない鼻歌が聞こえてきた。
鼻歌は下手なのではなく、母親は上手いと言えるだろう。
だけどなんの曲名か分からないということは、
きらながただ単に母親が歌っている曲を知らないだけである。
メジャーな曲であればだいたい分かるきらなだ。
そうでない、ということはマイナーな曲なのだろう、と思いながら食事を続けていると、
いつの間にか、体感では一分も経っていない内に、トーストを食べ終わっていた。
食事を終え、時間もギリギリに調節できたので、
きらなは鞄を持ってリビングから出ようとする。
「じゃあお母さん、行ってくるね。学校に行く時間を大幅に過ぎてるけど、全然、間に合うような時間だから、心配しなくていいよ」
はぁーい、と、母親は鼻歌混じりに返事をする。
ただ、鼻歌混じりなので内容は分からない……なんて言ったのだろう。
まあ、返事を必要としない答えだったようだ。母親からの「きらなー?」という返事を催促する声がなかったのだ。別に、聞こえなくとも問題ないものだったのかもしれない。
ただの相槌、内容のない、メールのスタンプのようなものか?
そういうことをする母親だ、というのが分かっているので、きらなも安心してリビングを出ようとする――そこで、
きらなの足が止まる……止められた。
「きらな」
今度は鼻歌混じりではない。真剣な眼差しだった。
だから、胸に強く響いた。
「今度はきちんと、友達、作ってくるんだよ」
「お母さん……」
きらなは声を震わせる。
――が、声が震えているのは、感動したわけではない。
母親の言葉に、少しだけカチンときたためだった。
「それ、普通言う? 子供に向かって、しかも高校生にもなって、母親から子供に向かって友達を作ってこいって、普通は言わないよ。言う方も言われる方も、恥ずかしいよ」
「そう? お母さんは全然、恥ずかしくないし、恥ずかしいとも思っていないよ。言えばきらなが恥ずかしがるかなーって思って、言っただけ。
お母さんはチャレンジ精神ってのを大事にしてるのよ。普通は言わないことを、ならば、あえて言ってやろうじゃないかってね。
押したらダメなスイッチがあったら、なんの疑いも持たずに思いきりそのスイッチを押してしまうみたいな――、お母さんはそういう人格を持っているのです」
「性格悪っ!」
「あら、あららら。性格悪いとか、きらながそれを言っちゃうの? きらなだってお母さんの血を引いているんだから、お母さんの特徴をきちんと受け継いでいるのよ? 性格が悪いのはきらなだって一緒なんだよ?
もうっ、忘れたの? きらなはお母さんのお腹を嫌らしく地味に長時間も痛めつけながら出て来たこと、もう忘れてるの?」
「覚えてるわけないでしょ!? お腹の外に出てからの出来事ならまだしも、お腹の中にいた真っ暗な空間での思い出なんて、覚えてるわけないよっ!」
ここまで言い返してから、母親のニヤリ、と不気味に歪ませている口元に気づく。
母親が言わんとしている、きらなに話しかけた意図に気づく――。
きらなも会話に夢中になっていたため、気づけなかったが、学校に出る予定の時間は、大幅に過ぎている。
しかもギリギリ間に合う時間に調節したのにもかかわらず、こうして母親との楽しい会話をしているとなると、今度こそ間違いなく、遅刻してしまうだろう。
母親はそれを狙っていたのだ。
そのために、わざわざ出て行こうとしていたきらなに声をかけ、会話をして。
会話の中に少しの冗談を混ぜながら、きらなを話に引き込み、足を引き止めた。
悪質ないたずらで、嫌がらせにしては優しい嫌がらせだった。
だが、母親の方も、きらなにただ、いじわるをしているわけではない。
そこにはきちんと、目的があったのだ。
「きらな、遅刻をすれば注目されるから、友達も作りやすいと思うよ」
「その逆の可能性もあるということをきちんと考えなかったのかな?
体を張り過ぎのアピールだよ、それはっ!」
友達へのアピールとしてなら、良い結果を残せそうな気もするが(そうとも限らないが)。
しかし問題は教師に向けてのアピールなら、だ。
その場合、完全にダメな方向へ進むことになる。
入学初日から遅刻というのは悪目立ちのし過ぎだ。
担任からではなく、その他の教師からも目をつけられることになる。
それだけは避けたい。
避けるためには、一刻も早く家を出るしかない。
でも今から家を出たとして、もう間に合うであろう時間は過ぎているために、遅刻をするのは決まったようなものだ。
遅れるのならば五分も一時間も変わらないという思考をできるきらなではない。
すぐさま母親との会話を打ち切って、きらなは玄関に跳ぶように駆けた。
玄関に辿り着き、買ったばかりの新品の靴を履いて、とんとん、とつま先で地面を叩いて足と靴のフィット感を調節する。
三打目でちょうど良い、気持ち悪くない程度にフィットしたので、足裏を両方とも地面につけて、玄関の扉を開けようとした――ところで、またもや後ろから母親の足音がした。
振り向けばまた会話が始まり、長い長い物語のような会話をしてしまうのか、と思った。
だけど意外にもそんなことはなく、今回の母親は、母親らしいことを言った。
「そんなに慌てなくても大丈夫よ、きらな」
ぱぁんっ! と力強く背中を叩かれて、
二、三度、咳き込み、半泣きの状態のまま、きらなは母親を見上げた。
「間に合わない間に合わないと思っているから間に合わないのよ。間に合うと思っていれば、きっと間に合うわよ。ネガティブを捨てて、ポジティブを生み出す。
これはお母さんの心に刻んでいるルールみたいなものでね、これを守っていれば、どんなことでもきっと上手くいくのよ。お母さんはそうだった。この長い年月の人生を過ごして、これを守っていたから進んでこれたの。
だから明るく楽しく元気にハッピーに!
暗い顔なんてだめだめ。不幸な顔には不幸しかやってこないのよ!」
きらなは母親の言葉を聞いて、表情を笑顔に変えた。
元々を言えば、母親が余計なことをしなければ、きらなは走ることなく早歩き程度で家を出て進み、余裕で学校に辿り着けたはずなのだ。
ネガティブで暗い顔をしている原因は、だから母親なのだ……。
――とは、この場面では思っていても口には出さずに、きらなは、
「うん、いってきます」
言ってから、玄関の扉を開けて、外に出る。
外は家の中とは違い、風があって、日があって、そして外の力というものがあった。
その力にきらなは家に押し戻されそうになるが、だけど耐えて、耐えて、きらなは足を踏み出し、地を踏みしめて、家の外へ。
道路へ、踏み込んだ。
一歩、家から学校までの、記念すべき一歩である。
その時、風が吹き、きらなの全身を叩くように、吹き抜けていった。
洗礼だった。
でも、歓迎しているような。
そんな、朝だと感じるような、気持ちの良い風であった。
もっともっと、心の底から浴びていたいと願うような風とも言えた。
きらなは一歩のあと、二歩目、三歩目を踏み出し、踏み続ける。
するともう一度、風が吹いて、きらなはまた、風を全身で浴びる。
その風は、今までに感じたことがないほどに、気持ちの良い風だった。
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