h19.07.18. 雨往一期




 雨音が続いている。

 ずっと聴いていると、つまりは雨の声なんだろうと思う。

 風で雲からこぼれた雨の、土へと帰る「ただいま。」って声。

 読んでいた本から目を離し、窓の外を見る。

 まだらに薄墨うすずみ色の空と、ここ数日を休み休み降り続いてる雨と、道路を挟んでお向かいさん。あとは頬杖ついた私の顔も、うっすらと映っている。

 なんだか今日の雨粒は、如雨露じょうろから注がれてるように丸っこい。だからかこの雨は、この町の植物に水をあげるために降ってるようにも見える。

「……。」

 とりとめのない思考を終わらせ、読書に戻ることにする。

 音楽を流す趣味を持たない私の部屋では、そっと絹が擦れるような雨音と、ページをめくる音だけが聞こえる。

「……。」

 手元の本に注意を向けていても、雨の声は、呼びかけるように私へ届く。

 とうとう、ページにつづられた縦書きの文章さえ、滴る雨粒の筋に見えてしまった。ついしおりも挟まずに、本を閉じる。

「……ふう。」

 座ったまま後ろに体をる。椅子の前足が浮かぶ。

 どうして今日の雨は、こんなにも当てつけがましく聴こえてしまうのだろう。「ただいま。」に応えて貰えなくて、甘えているみたいだ。

 机に置いていたマグカップを取って傾ける。何の味もしない。あれ、と思って覗くと、もう空っぽだった。

 底に残った微量の苺ミルクが数滴流れて、ようやく私の口に届いた。ぬるくて甘い。

 また作るか。私はマグカップを手に部屋から出て、木で組まれた急傾斜な階段をとんとんと下りる。




 うちの一階は駄菓子屋だ。祖母が始めた小さな店で、元々土間どまだった場所に、お菓子の棚を並べている。

 まずは台所でやかんを火にかけて、それからスリッパを履いて売り場に下りる。

 苺ミルクの粉末を置いている棚に向かおうとしたとき、店の出入り口の、閉じられたガラス戸の向こうに男の子が一人立っていることに気づいた。

「……。」

 うちの軒下で雨宿りしているらしい。隣に自転車を停めて、こっちに背を向けて、降り注ぐ雨を見上げている。

 見覚えのある人だ。この辺をよく通っているみたいだし、うちの軒先に設置してある自販機を使ってる所なんかも、窓から見た事がある。

 高校生らしい制服姿だけど、一目でずぶ濡れとわかる。足元の学生靴も、びちゃびちゃ。でもそんな彼の後ろ姿からは、「困ったなあ。」と、どこか他人事のような、あまり深刻でない雰囲気が感じられる。

 とはいえ、さすがに無視する気になれない。私は苺ミルクともう一つ、ショウガ味のくず湯を棚から取って、出入り口に近づいた。

 ガラス戸をノックする。ノックって、外から内に呼びかけるものとばかり思ってたけど、逆もあるらしい。

 こんこんと叩くけど、雨音のせいか彼はそれに気づかなかった。少し憮然ぶぜんとした気持ちで開錠し、ガラス戸を開ける。

「あの。」

 ずっと黙ってたせいか、喉が思いのほか張り切って大きな声が出た。男の子が驚いて、こっちに振り返る。

「はい……?」

「よかったら、雨宿りしていきませんか。」

「あ。もう、させてもらってますけど……。」

「いえ、中でどうぞ。上がってもらって結構ですから。」

 言うだけ言って、私は引っ込んだ。親切心の割には愛想がないと、自分でも思う。

 男の子はしばらく迷って、開けっ放しのガラス戸に困って、やがておずおずと入ってきた。

「お邪魔、します。」

「どうぞ。」

 私はさっさとスリッパを脱いで板間に上がり、洗面所へ向かう。

 バスタオルを手に戻ると、彼はお菓子の並ぶ棚をぼうっと眺めていた。その足元に、土間の埃っぽい床に、小さな水溜りが出来ている。

「どうぞ。タオル……どうぞ。」

「あ、ありがとうございます。」

 それを渡して台所に行くと、やかんがたぎっていた。

 苺ミルクとくず湯の粉末をそれぞれマグカップにあけて、お湯を注ぐ。

「……あっ。」

 そしてスプーンでかき混ぜているときに気づいた。

 私のマグカップに、くず湯を作ってしまっていた。

 慌てて見れば、新しく出した白いカップに、苺ミルクが湯気を立ててくるくると回っている。

「ああー……。」

 私が使った、しかも女の子用のマスコットがデザインされたカップを出すわけにもいかないし、いまさら中身を交換するわけにもいかない。

 仕方ない。彼には苺ミルクを飲んでもらおう。




「飲み物、どうぞ。」

「あ、すいません。有難うございます。」

 畳が濡れることを気遣ってか、彼は土間のふちに座り、座敷へ上がろうとはしない。なので私も、少し離れて隣に座った。

 ピンク色の苺ミルクを渡す。このとき自分のカップの中身を彼に見られないように注意した。間違えたとはいえ、男子高校生であろう人間に苺ミルクを出しておきながら、自分は渋いくず湯を飲んでいるというのは、何だか知られたくない。

 彼は頭を下げつつ受け取って、ゆっくり口に含んだ。

「美味しい。生き返りました。」

 それはよかった。横から見ている分だと、相変わらず蝋人形みたいで生気が感じられませんが。

「そこの自販機で何か買おうと思ったんですけど、ホットが無かったもので。」

「まあ、もう暖かいですからね。」

 つまらないというか投げりな返答だと、自分でも呆れてしまう。性格だから仕方ないとはいえ。

 けれど彼は気にした風もなく、苺ミルクをぐいぐい傾けている。身体を温める為には味など気にしていられないのか、あるいは単純に甘党なのかも知れない。

「……。」

 こうして、自分のカップをすすりながら横目で見ていると、私の学校の男子とは、雰囲気が違う気がする。謙虚というより、物腰がやわらかい感じ。そこそこ落ち着いた様子を見せてくれるので、私も気が楽だ。無遠慮でも、恐縮でもなく。

 しかし、私なんかに敬語を使ってくるとは思わなかった。雨宿りの身分だからと、遠慮してくれているんだろうか。

「いまどき、珍しいですよね。」

「え。」

「こういう駄菓子屋さん、って。」お菓子の棚を眺めながら、彼が言う。

 私もなんとなく、それらを見た。薄暗い売り場で、ポテトチップの袋がカラフルに並んでいる。ねじったチューブに詰められたゼリーが、それぞれ鮮やかな色の影を落としている。

「家にお菓子がいっぱいあるんだから、お友達から羨ましがられるんじゃないですか。」

 少し冗談ぽく、そう言われる。

 ショウガくず湯で温まった私の喉から、「あぁ、」と「あはは、」の間くらいの声が出た。なんだか間抜けだ。

 気恥ずかしい気持ちになって、カップを置いて、またスリッパを履く。

「一つ開けましょう。どれがいいですか?」

「え、いいですよそんな。」

「私が食べたいので。どれか選んでください。」

「あ、えっと……、」

 彼は棚を見回す。……けれど見回して探すほど、この店の品揃えは多くない。

「じゃあ、そこのプレッツェルを。」

「ローストバター味と、トマト味がありますが、」

「では、トマトを。」

「はい。」

 箱を開けて、彼と分ける。4袋入りなので、2袋ずつだ。

「ありがとうございます……でも、勝手にお店のものを食べちゃっていいんですか?」

「一日一つは、私のおやつとして許可もらってるんです。」

「なるほど……。」

 私は自分の袋を、びりっと音を立てて開いた。すると彼は、もう少し静かにならった。それがなんだか、また気恥ずかしかった。




 雨が跳ねる地面をガラス戸越しに眺めながら、しょっぱいプレッツェルを齧る。トマト味は、本当は少し苦手。トマトは好きだけど、似せてあるのはあんまり好きじゃない。もちろん苺ミルクは例外。あれは美味しいものだ。

 ふいに、続いていたドライヤーの音が止んだので隣を見た。

 彼が礼を言いながら、丁寧にコードを巻いてドライヤーを私に返す。いくら六月とは言え、タオルで拭いただけだとまずいかと思って先ほど渡したもの。古くて音ばかりうるさいそれを受け取って畳に置き、座り直す。

「……。」

 また、雨の音だけに戻る。例の、どこか甘えたがりな「ただいま。」の声。それを聞き流しながら、足をぶらぶらと揺らす。子供っぽい仕草かも知れないけど、仕方がない。

 少しぬるくなっただろう苺ミルクに、彼が口をつける。

 何か言おうとした私は、それを少し待って、

「……降りますね。」と今さら極まりないことを言った。

「ですね。」

 と応えた彼は、「梅雨ですしね。」と付け足した。

「ところで、よくここの道通ってますよね。通学路……じゃないですよね?」

「ああ、えーと……、」

 彼は少し困ったように笑い、

「まぁ、会いに行く相手がいる、というか。」

「はあ。」

 この道を行っても、小学校と山くらいしかないと思うけど……うちみたいに民家も少しはあるし、お友達とか彼女さんの家とかが途中にあるのかも知れない。

 つっこんで訊いていいのかなと考えていると、今度は彼の方が、かえって訊きづらそうな素振りで尋ねてきた。

「そういえば今日は、学校はお休みですか?」

「ああ、実は今ちょっと不登校なんです。」

 とっさに、素直に答えてしまって、私はつくづく愉快な話が出来ないなぁと、自分で少し落ち込んだ。

 とは言えここで黙ると余計に気を遣わせてしまいそうなので、あまり深刻でないよう上擦うわずったトーンで、新しく入った学校にあまり馴染なじめないことを説明した。

 彼はどこか感慨かんがい深げに、何度も頷いて聞いてくれた。

「でもまあ、僕も結構サボったりはしますよ。」

「本当ですか? そういうタイプには、あまり見えませんが。」

「いえ、全然です。例えば朝、「面倒だから一緒に遅刻しよう。」って友達に誘われて昼休みに登校して、それから別の友達に、「面倒だから午後抜け出そう。」って誘われて、学校で弁当食べただけでそのまま帰っちゃったりとか。全然ありますよ。」

「……。」

 思ったより、あれな人だった。

 つい指を伸ばし、手の甲を振って彼に向ける。だめだろってつっこみのつもりだったが、動きが小さかったせいか彼には何の動作かわからないみたいだった。

「……握手ですか?」

 そう冗談ぽく自分も手を広げて見せるので、私はつい頷いた。いいえつっこみですなんて言いにくいし、ここで手を引っ込めるのもなんだか失礼だと思ったから。

「……。」

 よくわからないタイミングで握手を交わす。「うちらサボり者同士。」みたいな感じになる。

 プレッツェルの塩がついたままの私の指を、まだあまり温かくない彼の手が軽く握った。

 握手を終えて、また正面に向き直る。

 雨脚は少し、弱まったみたいだった。




 プレッツェルの二袋目もすっかり食べ終え、互いにお気に入りの古い映画などを紹介していた頃、

「……みそう、ですね。」

 彼がぽつりと言った。軒先を見て、「本当だ。」と応える。

 雨雲が遠退いたのか、薄暗かった風景は白っぽい明るさで浮かんでいた。

 二杯目のカップ(今度はちゃんとショウガくず湯)をゆっくり飲み干して、彼は立ち上がった。

「長々と居座って、すいません。色々ごちそう様でした。」

 そう頭を下げられても、私は「いえいえ。」を繰り返すことしか出来ない。丁寧に折り畳まれたタオルを受け取り、見送るべく共にガラス戸をくぐる。

 空気は湿っていて、強くはないが風もある。

 声、かけてよかった。あのまま放置してたら、絶対風邪ひいちゃってただろうと思う。

 彼は店先に置いていた自転車のスタンドを外し、私を振り返った。

「それじゃあ、失礼します。」

「はい、お気をつけて。」

「あまり人の事は言えませんけど……たまには、学校を覗いてみるのもいいかもですよ。せっかく小学校、近いんだから。」

「……まあ、努力します。」

 お互いに苦笑して、じゃあ、と手を振る。私も小さく返した。




 彼が走り去っていく。

 私は湿ったタオルを手に家へ戻ろうとして、

「あ、」

 軒先から一滴、雨垂れの粒が落ちた。すぐ目の前を通って、ぽちゃん、と歩道で砕ける。

 何か言うべきだった気がして言葉を探し、すぐに思い出す。

「おかえり。」

 そう呟いて、土間へ振り返った。



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徒然集 蒔村 令佑 @makirike

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