h19.07.01. 放課後・一夏籠


 散った桜に続くよう、我先にと芽生え茂った草花たちがその勢いを失くす頃。

 まるでいとわれ追い立てられるように、夏は終わりへと向かっていく。




 引退した部活に、未練は無いと思う。

 「人数が足りないから」と友人に頼まれ、ボランティアに近い精神で入部したのだし。それでいて地区大会の準決にまで進むなんて、なかなか出来すぎの結果だったのだから。

 そんな、行きがかり上にしては十二分な記録を残し、我々三年生はバスケットボール部を引退と相成った。

 しかし、ずっと強制的に取り上げられていた放課後という時間を今更つき返されても、戸惑ってしまう。

 今日の授業は終わったけれど、受験勉強しかする事のない家に勇んで帰る気もせず、僕はぼんやりと教室に居残ってしまっていた。

 もちろん他のクラスメイト達は違って、皆ちゃんと塾だ何だと慌ただしく下校していった。帰り支度に手間取るフリをしていたら、あっという間に僕一人が残されたのだ。

「……。」

 辺りに立ち込めているのは、受験を控える3年生校舎の、気忙しいけれど弾みのない空気。別に誰かに非難される訳でもないのに、何故だか居心地の悪さを感じる。

 しばらく切りそこねている髪をき、僕は結局カバンを手にして席を立った。

 教室を出て廊下を曲がり、階段を下りる。そのまま昇降口へと向かえばいいものを、この足は自然と体育館へ向かっていた。




   ○




(……あれ?)

 渡り廊下の辺りで、妙に静かな事に気づく。もう体育館は眼前だというのに、部員の掛け声とか、彼らの靴やボールが床を揺らす音などが聞こえてこない。

 不思議に思いながら廊下を渡り終え、とりあえず部室にも寄らずにフロアを覗き込む。

「……」

 一瞬、誰もいないのかと思った。そう錯覚してしまうほど、彼女の姿は体育館に溶け込んで見えた。

 静まり返った広い空間の中で、後輩の日南ひなみが一人、バスケットボールを胸の前に抱えて立っていた。二階部分の窓から差す斜陽が彼女の横顔を照らしていて、それは何か祈りを捧げているような、古い絵画をイメージさせた。

 勿論もちろん、細かく見ればそのイメージは簡単に崩れてしまう。日南は如何いかにも日本人らしい容姿だし、体操服姿だし、その横顔も祈るというより挑むような表情で、彼女の正面にしつらえられたバスケットゴールを見据えている。

 ゆっくりとシュートフォームを構え、彼女は両手でショットする。その軌道を目で追う。放物線を描いたボールは、バックボードとリングに当たって斜めに弾かれた。

(っ……、)

 つまり、不味まずかった。ボールは僕の方へとバウンドして来たのだ。

 外したシュートボールを追おうと日南はこちらを向いて、自然、入り口で突っ立っていた僕と目が合う。

「あ……」

 彼女が、いけない、という表情をした。僕はすぐにその場を立ち去ろうとしたが、

「先輩、さてはヒマなんでしょう。だったらボール拾いくらいして下さいよー」と、すぐにいつもの調子で言われた。

 振り返りかけていた僕は、何を言うでもなくゴニョゴニョと呟きながら上履きを通路に脱ぎ捨て、フロアに入ってボールを拾い上げた。

「……」

 嫌というほど馴染なじんでいるはずの感触だが、バスケットボールはこんなにも重く硬いものだっただろうかと思う。

 そんな戸惑いを何だか日南に気取けどられたくなくて、僕はすぐにボールを投げて返した。

「ありがとうございまーす」

 飛びつくように両手で受け取って、彼女が言う。どうにも目を合わせづらく、そのボールを見ながら訊ねる。

「なんで一人。他の部員みんなは?」

 同様に手元のボールを見下ろしていた日南は、おかしそうに笑った。

「先輩、今日水曜ですよ」

「知ってるけど、」

 一瞬何の事だか解らず、けれどすぐに気づいた。

「そっか、外練か」

「はい。まず15kmランで、いつものメニューはその後です」

「15km?」

「はい、15です。三年生の皆さんもいなくなったので、私の判断で増やしました。7.5kmコースを二周ですね」

「うわ……それ厳しくないか。ちょっと部員増えたからって」

「あはは、そんな事ないです。優しくしてます。

 ほら、今日は全コートいてるんで、体育館を延々走らせてもよかったんですけど……景色が変わらないとツラいだろうなと思って、ちゃんと外周を走らせてあげてますから。ね?」

 優しいでしょう? と屈託なく笑う。余計に怖い気がする。

「一年の子たちがタイム計ってるんで、私はモップ掛けでもしとこうかと思いまして」

「ふうん」

 サボってたくせに。

「それで一人だったのか。でも隣までいないのは何で?」

 フロアの奥側、いつもはネットで仕切ってバレー部が使っているコートを指差す。

「バレー部さんは、遠征みたいです」

「……ああ、そっか。本戦か」

 バレー部は地区予選を勝ち抜き本大会までコマを進めたので、県外で他校と試合しているのだろう。

 同じく静寂でも、コートの向こう側とこちら側とでは意味が違う。そんな思考が始まろうとした時、日南がいきなりチェストパスでボールを投げつけてきた。

「うわっ」

 慌ててキャッチして顔を向けると、彼女は両腕を突き出して笑っている。

「お前、危な……」

「先輩、受験勉強お疲れ様です。でもたまには体を動かしたほうがいいですよ?」

 そう言って、すたすたとゴールに向かって歩いていく。

「……日南?」

「いくら引退したからって、OB指導をお願いする事もあるんですから。その時になまってたら、かっこつきませんよ」

「いや……まあ、そうかも知れないけど」

 バックボードの真下に立ち、彼女はパン、と手を叩いた。

「せっかく誰もいないんだから、久しぶりにシューティングしましょう。フォーム忘れてないか、チェックしてあげます」

「……」

 ボールを見下ろし、軽く床に突いてみる。跳ね返り、てのひらで押さえ、より強くバウンドさせる。

 ダン、と重い音が響く。同時にボール側はキィンと甲高く鳴る。足元と手元にも、振動が伝わる。

「わかった。頼むよ」

 壁際の床にカバンを放って、フリースローラインに立った。顔を上げると正面にゴールがあり、その下に日南がいる。

「……」

 ボールを頭上に掲げ、重心を低くする。曲げた膝に力を入れ、伸ばしながら右腕を突き出した。手首を返し、放つ。

 ボールはリングの淵に当たって、少し離れた床に落ちた。

「ありゃりゃ」

 日南が小走りで、外れたボールを追う。その姿を見て、思い出す。




      ○




 日南は一学年下の、女子バスケット部員だった。

 ただ女子部と言っても更に人数が少なかったため名ばかりの存在で、殆ど男子部のマネージャー役をやらされていた。部分練習のパス出しや成績表スタッツの記入と管理、練習着の洗濯などまで。

 彼女たち自身の活動はと言えば、男子部が休憩やミーティングをしている間に、たしなむ程度の練習をしていたくらいのものだった。

 そんな、中にはバスケット経験者もいる女子部員が、素人である僕の世話までしてくれた事は今でも申し訳なく思う。人数やコートさえ足りていれば、彼女たちも選手として活動できた筈だったのだ。

 日南も中学時代からバスケットを続けていたらしい。同じく新入部員で、しかし二年で初心者という扱いづらそうな立ち位置の僕に、余計な物怖ものおじもせず基本の動きやルールを教えてくれた(バスケットのルールは想像以上に細かくてややこしかった)。

 すぐには入り込めないような複雑なチーム練習をしている間、そうして僕はよく日南に任されていた。

 たった今のように、シュート練習の補助をしてくれたのも彼女だった。各ポジションに僕が、ゴールの下には日南が立って、順々にシュートしては結果を記録していく。ちゃんとゴールに入れば、彼女は目の前に落ちたボールを僕に投げ返すだけでいい。けれど外れた場合、弾かれたボールを追ってノート片手に走り回らなくてはならない。

 的を外したボールが、体育館を二分するネットをくぐってバレー部のコートへ転がり込んだ事も一度や二度じゃなかった。その度に日南が謝りながらボールを受け取りに行ってくれたけれど、後輩とはいえそんな役を任せてしまうのは気が引けた。

 とにかく、そんな彼女の指導のお陰で僕は割とスムーズに基礎技術を身につけ、人数の少なさもあって試合にも出られるようになった。

 最初の内は当然、相手どころか味方にさえついて行けず、足を引っ張る事のほうが多かったけど、それでも何かしらチームに貢献する度、日南は嬉しそうに笑ってくれた。たぶん僕よりも。

 ……恩返しと言うと、大ゲサで古臭いのかも知れないけれど。下手なシュート練習で走り回らせた日々に少しでも報いたかったし、一から手取り足取り教えてくれた彼女が自分の働きで喜んでくれるのなら、それはいい事であるように思えた。

 だから、部活以外の時間でも自主的に練習や研究を重ねて、少しずつ〝貢献〟の機会を増やしていった。帰宅部で暇を持て余していた自分にとって初めての、やりがいと呼べるものだったと思う。




「……っと、」

 また、不意にパスを受け取る。

「先輩、さっきからぼーっとしすぎ」

「ああ、悪い……ええと、スナップが利いてなかったかな」

「そうですね。スピンが弱かったみたい」

「分かった……」

 再度フォームを構える。

 さっきよりも手首に集中して、慎重にボールを放る。

「……あっ」

 と、今度は飛距離が伸びず、リングの手前をようやくかすめる程度で床に落ちてしまった。

「またそうやって腕だけで! 必ず膝を使うってあれだけ言ったのに、もう忘れちゃったんですか!?」

「ごめん」

 やっぱり厳しくなってる。前は二本外したって怒らなかったのに。

「危うくエアボールでしたよ!? シュートは手で投げ飛ばすんじゃなくて、全身で放るんです! 下半身で距離、上半身で角度!」

「……」

「先輩、なんで笑ってるんですか」

「いや、悪い。大丈夫。ただの、日南に関する思い出し笑い」

「ちょっと!」




         ○




 部活に打ち込むようになるとまたたく間に時間が過ぎて、気づけば三年生になっていた。バスケット部にも新一年生の入部者が加わったが、殆どがその長身を買われて勧誘されただけの初心者だった。

 僕は、試合中の様々なシチュエーションに対応する為の合同練習について行くので精一杯だったし、技術的にも後輩を指導する余裕は無かった(僕を部に引っ張り込んだ例の友人がキャプテンになっていたので、その辺りは理解してくれた)。

 彼ら初心者の練習は、結局また日南が面倒を見る事になった。おかしな言い方だけれど、僕を育て上げた実績も踏まえての判断だったらしい。

 彼女と言葉を交わす機会は極端に減ったけれど、そもそも今までの練習が付きっ切りだったのだから、ようやく通常の、つまり一人前の部員になれたという事でもあった。




 一度、練習を終えての下校時に携帯が見つからない事があった。

 おそらく部室のロッカーに忘れたのだろうと思い体育館へ取りに戻ったその時も、僕は何気なくフロアを覗いてみた。

 どうやら後片付けの最中らしく、日南がボールを磨きながら、男子部の一年生たちにモップ掛けを指示している。が、彼らは余ったボールで、とても練習とは呼べない遊びに興じていた。日南が注意するが、聞く気配はない。

 このまま素通りして部室へ向かう気にもなれず、僕はフロアに入った。かがんでボールを磨いている日南に歩み寄ると、彼女はこちらに気づき目を丸くした。

「先輩?」

「うん……」

 何を言うでもなくゴニョゴニョと応え、いくつかのボールを挟んで向かい側に腰を下ろした。一つを転がし寄せ、ワゴンに掛かっていた布を取って、同じように磨き始める。

 僕に気づいた一年生達は戸惑い、やがて用具室からモップを取り出すと、並んで床へ滑らせ始めた。

 日南は僕と一年生たちを交互に見て、溜息をいた。

「先輩、すいません……」

「謝る事じゃないだろ。……気にはなってたよ。腕白わんぱくな一年たちが手に余ってるって」

「あはは、それは大丈夫ですよ。というか先輩が、手が掛からな過ぎたんです」

「そうなのかな」

「はい」

「……何か、それも微妙な感じだな」

「ふふふ」

 外はもう暗くなり、強い照明が行き渡る館内が妙に広く感じる。体育館で長い時間を過ごすと、ふとそういう違和感に目をめる瞬間がある。フロアの片隅で、ワックスと布でせっせとボールを磨き続ける。傍らの、膝くらいの高さの窓からは虫の声が聞こえる。

「……なんだか、ヘンな感じですね」

 視線を上げると、同じ事を思ったらしい日南が、曖昧に笑っていた。

「うん、何か……悪かったよ。三年になった途端、こういうの手伝わなくなって」

「なに言ってるんですか。先輩はもうプレイヤーに専念しなくちゃ。……というかそれこそ、先輩こんな事してていいんですか?」

「……、」

「え?」

「……落ち着けない、って。一人じゃどうにもソワソワしてさ。部室に携帯、忘れてたし」

「へえ……」

「似合わないだろ」

「いいえ? 先輩は結構わかりやすいほうですから」

「そうなのかな」

「スタメン出場する最初の試合が最後の大会で、それはもう明日なんですから。緊張して当たり前ですよ」

「……」

 また、ずけずけと……。

「まあ、僕にだってプレッシャーはあるよ。皆には、キャプテンの付き合いで途中入部した、気楽なやつってくらいに思われてるかも知れないけど」

「……」

「その、……女子部にも、世話になったしさ」

 日南が顔を上げ、こちらを見ているのが分かるけれど、僕は黙ったまま作業を止められなかった。手元にあるボールはどれも十分に磨いてあるけれど、それでも無理に磨き続けた。




            ○




「先輩!」

「いっ?」

 視線の先の床にボールが叩きつけられ、バウンドして顔面に飛び込んできた。僕は何とか受け止めて、さすがに非難する。

「お前っ、下向いてるからってそんな投げ方あるか!」

「隙を見せる方が悪いんです。コートは戦場だと教えた筈ですよ。味方だからって甘えてたら、足元をすくわれるんです」

「関ヶ原かよ……」

「先輩、進学するんなら桶狭間くらいは言えるようになりましょう。バスケットなだけに」

 そんな上手くないし。

「……下半身で距離、上半身で角度だったな」

「そうです。次エアボールだったりしたら、いよいよ承知しませんよ。先輩にも15km走ってもらいますから」

「ん……」

 腰を沈め、ボールを掴む手に力を込める。それを適度に抜いて膝を伸ばし、曲げた身体を起こす。同時に指先で送るように、ボールを放った。

 二人で見上げる。シュートはさっきより高い弧を描き、今度はリングに吸い込まれた。水面に小石を落としたように、白いネットがパシャリと跳ねる。

 そのまま真っ直ぐに床へ落ちたボールを目で追い、自然、それをキャッチした日南と視線が合う。

「ナイッシュ、です」

 その決まり文句と笑顔に、頷いて応える。

「今のはばっちりです。スピンで軌道も安定してましたよ。

 ……先輩?」

 フリースローラインから、数歩離れる。ゴールから遠ざかり、角度も少し斜めにずれた位置で立ち止まった。ここからのシュートは、3ポイントでカウントされる。

 さっき体育館に入った時、日南が居た場所だ。

 ゴールへ振り返り、目を閉じる。




 聞こえない声援と、ブザーの音を聴く。それも、遠退いていく。

 制服のままで、バスケットシューズどころか靴下でフロアに立って、勿論味方も相手もいなくて。何より大会当日のアリーナでなく、ただの自校の、水曜日の体育館だけれど。

 それでも、あの日のあの光景を一瞬で思い描いてしまうのは、ずっと、あの時の事ばかり考えていたせいだろうか。

 目を開き、そっと腕を持ち上げる。

 何も言わずに、日南はパスをくれた。朱色のリングを見る。そして、かすかに。

 得意な位置からのシュートだったのに、あの時どうして入れられなかったのか、今になって分かった気がした。

 ゆっくりとフォームを作り、掲げたボールを放つ。

 いつも以上に、力を込めてしまったかもしれない。

 伝える為にも、外す訳にはいかないのに。




               ○



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