しくじり

あべせい

しくじり


「ぼくがこの職場で、しでかした最も大きな失敗は……」

「えっ、なに?」

 野球場が一つすっぽり入るくらい広い公園で、若いカップルが木陰のベンチに腰掛け、お昼休みをとっている。職場から歩いて、5分ほどの距離だ。

「キミを好きになったことだよ」

「エッ、ウソでしょ」

 女性はちょっぴり笑顔になった。

 青山遙(あおやまはるか)。丸の内の小さな貿易会社に勤務する26才の美形だ。

「本当だよ。2番目に大きな失敗は……」

 遙の顔を覗き込むようにして、話し続けているのは、彼女の同僚でことし入社したばかりの対馬甲治(つしまこうじ)、22才。

「まだ、あるの?」

「キミに恋人がいることに気がつかなかったこと……」

 甲治は、そう言ってニヤリと笑った。

「それは……」

 遙は、会社ではひた隠しにしていることなのに、どうして新人の甲治の耳に入ったのだろうか、と不思議な気分になった。

 恋人というのは、東京駅から徒歩6分、11階建て雑居ビルの同じ9階、遙と甲治の貿易会社とは隣合わせの、小さな証券会社に勤務する丘京二(おかきょうじ)、28才のことだ。

 しかし、京二には、妻も子もいる……。

「秘密、って、いうのだろう。ハルちゃん」

「ハルちゃん!?」

 仕事場で、ハルちゃんと呼ぶのは、京二だけなのに……。いままで、甲治からハルちゃんと呼ばれたことはない。彼の心境に何か、変化があったのか。

 この甲治の情報網は侮れない。

「3つ目の失敗は、恋人のいるハルちゃんを好きになった自分を、いまだに許していること……」

 甲治は、相変わらず、何がうれしいのか、ゆったりと微笑みを漂わせている。

「それって、わたしを口説いているつもり?」

「まだ、あるよ。4つ目の失敗は……」

 甲治は、遙の問いには答えずに続ける。

「いまこのときでも、ハルちゃんのこと、世界でいちばん好きでいること……」

「対馬さん、それって、まだ続きがあるの?」

「どこまでも続けられるよ。ハルちゃんの希望なら……」

「もう、いいから。あなたの気持ちは、よォくわかったわ」

 と言いながら、遙は、甲治から視線を外す。

 甲治は、逸早く、背後にひとの気配を感じ取り、煙草をとりだす仕草をする。

 決まっている。恋敵が現れたのだ。この曜日、この時刻、遙が京二とデートすることは、先刻承知のうえだ。

 しかし、家庭がある京二と遙の関係はいずれ破綻する。それを、じっくり待てばいいのだ。

 遙は遠からず、甲治に目を向けるようになる。甲治は、そんな当てにもならないことを真面目に考えている。

「よォ、あと五分しかないのに、大事な話かな?」

 京二は無造作に、遙の隣に腰をおろす。

 ベンチの幅は、1メートル20センチほどだから、元々、遙と甲治の間は、30センチほどしか離れていなかった。そこへ、遙の左に京二が押し入るように座ったため、遙は仕方なく甲治のほうへ、体をずらす。

 この結果、遙と甲治は互いの二の腕で、しっかり触れ合うことになった。京二はそんなことには気がつかない。彼は、遙にぴったり体の脇をつけて、気持ちがよさそうだ。

 遙は、京二のそういう無神経なところが好きになれない。妻子がありながら、最初はそのことをひた隠しにしていたことも、だ。

 つきあって、3ヶ月だが、京二は徐々に、馴れ馴れしくなってくる。まだ、体の関係はない、というのに……。

 このままでいいのだろうか。遙は、どんなことがあっても体は許すまい、と考えるようになっている。とりわけ、この数週間は、強くそう思っている。

「京二さん、あなた、営業先に行くンじゃなかったの?」

 京二の会社は、株式証券を扱っている。京二は外回りで、きょうも顧客の要請で、面倒な売買の相談に、乗ってやらなければならないとこぼしていた。

「まだ、いい。午後1時に来いというンだ。あのオッサンッ」

「オッサン!?」

 遙は初めて聞くことばに、耳を疑った。

「坊主のオッサンだよ。寺の住職のくせに、株で金儲けをしている。ハルちゃん、こういうの、どう思う? おれは、こんなヤツに儲けさせたくない。それなのに、もう百万ほど、利益をあげている……」

「まだ手仕舞い(清算すること)はしていないのでしょ?」

「そうだけれど、売り抜けるタイミングを逃さないンだ。株の上げ下げを、よく知っていやがるンだ。おれは、こンなヤツに儲けさせたくない……」

 京二は、珍しく、渋い顔をした。よほど、いやな顧客らしい。

 営業マンは、客を選ぶことは出来ない。セールスして掴んだ客は、よほどのことがない限り、その営業マンの担当になる。

 どんな客も、最初は紳士的な態度で接してくる。営業マンのほうだって、そうだ。しかし、顧客は、金を出した途端、豹変する。

 たいていの客は、例え、一円の金でも、損をいやがる。

「京二、それって、慈愛寺だろッ?」

 甲治が割って入る。

 慈愛寺の住職の話は、業種違いの甲治の耳にも入っている。会社が隣どうしなら、そういうこともあるのかも知れない。両方の会社に出入りしている清掃員や配達員が、何気なく流す情報も少なくない。

 慈愛寺の住職は顧客になって、まだ3ヶ月弱だが、トラブルが多く、京二は別の営業マンに移して欲しいと上司に願い出た。しかし、顧客が京二を離さない。もっとも、京二の会社には、5人の営業マンしかいないから、人手に余裕がない。

「京二さん、何がいやなの。何か、されたの。そのご住職に……」

 その途端、京二の顔が沈んだ。無言のまま、煙草を口にくわえる。

「京二。女性のハルちゃんには言えないことだろッ」

 甲治は、事情を知っているらしい。しかし、それが、京二の怒りを生んだ。

「甲治ィッ! おまえ、余計なことを言うと、承知しねエゾ」

 慈愛寺の住職、名前は「神階(しんかい)」と言うが、最近、京二の体に手を伸ばしてくるようになった。

 京二は、遙より2つの上の28才。若いだけでなく、マスクもいい。体は高校時代ラグビーをやっていただけに、がっしりしている。

 神階は、そういう京二の肉体が好きらしい。

 神階には、妻も子も孫もいる。京二は、神階にとって、年齢から見れば孫だ。

 京二が神階に出会ったのは、2ヶ月前。電話セールスで引っかかってきた客だ。

「話だけなら、聴いてやる」

 と言われ、京二は退社後に慈愛寺に駆けつけた。

 神階はちょうど、テレビを見ながら、日本蕎麦を食べていた。

 京二には夕食に蕎麦というのは、理解できない。蕎麦屋では、蕎麦を食べる前に、いたわさなどをさかなに酒を飲む客は珍しくない。

 しかし、京二は、夕食にはガシッとしたものを腹に入れないと落ち着かない。

 京二が驚いたのは、そんなことではない。

 部屋は四畳半ほど。神階の妻らしき、老いた、といっても、40代だから、彼からすれば娘くらいの年齢の女性に案内されて入ったが、そのとき神階は、眼はテレビに釘付け、口では蕎麦を手繰り続けていた。

 入ってきた京二は無論、妻に対しても、一顧だにせず、テレビに夢中になっている。

 京二が釣られるようにそのテレビを見ると、サッカーの中継放送だ。

 僧侶にサッカー。別に問題はないだろうが、京二は、仏に仕える身なら、せめて、ニュースかドラマを見ていて欲しいと感じた。

 テレビの横には、パソコンのある小さな机、神階の目の前には、膝下高さのガラスのテーブル、背後には、仏教関連の書籍が並ぶ書棚。調度としては以上だが、部屋が整っているというのではない。即席麺の袋やカップ、紙くず、雑誌、新聞、脱いだ衣服などが、机の上、床を乱雑に覆っていて、決して片付け上手ではない京二の眼にも、「キッタねえッ」と思わせるのに十分だった。

 そして、神階は黒の衣を着ていた。おつとめの途中なのか、これから、法事でもあるのか、と思わせたが、

「話なら、聴いてやるから、早くしろッ」

 と。

 京二は言われるがままに、顧客用に作ったファイルを開き、株取引の基本から話し始めた。

「元本の保証はない」「取り引きのたびに手数料がかかる」といったことだ。

 すると、

「そんなことはいい。いま、動いている銘柄だ」

 神階は、その間、一度も京二の顔を見ようとしない。

「おまえさんの言った銘柄が当たったら、取り引きしてやる。一週間後に、な。その銘柄をこの紙切れを書いていけ。あとは、いい。おれは忙しい」

 神階はそれだけ言うと、もう用はないと言いたげに立ち上がり、部屋から出て行った。

 部屋を出る際、初めて京二の顔に一瞥をくれ、

「おまえさん、若いな。いい顔とケツをしている。気に入った」

 とだけ、言った。

 京二が庫裏の玄関を出ようとすると、

「すみません」

 と背後から声がした。

 振り返ると、さきほど、神階の部屋に案内してくれた女性だ。

 美しい。気がつかなかったが、京二は一瞬、見とれて呆然となった。化粧をしてきたらしい。さきほどはなかった、オレンジ色のルージュが艶かしく、京二のハートを射た。

「何か?」

「わたしは住持の家内ですが、夫はいろいろとお金の取り引きしております。乱暴な口をききますが、どうかお許しください」

「いいえ、とんでもないことです。我々は仕事ですから、いろんなお方にお会いします。ご住職はお元気そうでなによりです。奥さま、何か、お困りごとがございましたら、ご相談させていただきます。株の売買だけが、営業マンの仕事ではないですから……」

 京二は得意の荒技に出た。

「エッ……」

 女性から、小さな驚きの声と、つやっぽい笑顔が表れた。

「これ、ぼくの個人携帯です。ご住職のような、これから親しくしていただきたい顧客にはお教えするようにしています。いつでも、お電話ください」

 京二はそう言って、名刺の空白部分に、電話番号を書いて手渡した。

「ありがとうございます。わたし、こちらに嫁いで、まだ半年ですが、わからないことばかりで……」

 と言い、女性は京二に一歩歩み寄った。

「奥さま、お名前は?」

「静夜(しずや)といいます」

「静夜さん、いいお名前だ」

「丘京二さんでしたね。これからもよろしくお願いします」

 静夜は、そう言って深々と頭を下げた。

「奥さん、よしてください。逆です、頭をあげてください」

 京二はそう言って、静夜の肩に手を触れた。彼女の体を起こそうとしたのだが、そのとき、つい、彼女の頬に触れてしまった。故意ではなかったが、京二は温かい女性のぬくもりを感じて、妻と幾日も交渉していないことを思い出した。

 そのとき、

「何をやっているンだ。足袋がない。本殿に持ってくるンだ!」

 神階だ。大きな声だ。

「はーい。いますぐ」

 静夜はそう答え、京二に向き直ると、

「失礼します」

 そう言って立ち去ったが、京二は、その後ろ姿に見入っていた。


 幸、不幸はいつ訪れるかは、だれにも予測はできない。

 その日の午後、京二は、遙と甲治と公園で別れてから、慈愛寺に行った。

 利益がついた建玉(たてぎょく)の3分の1を手仕舞いし、その金を持って来い、という指示があったからだ。その額、ざっと50万円。

 ところが……。

 京二が、最寄り駅から徒歩十数分の慈愛寺に近づくと、門柱の間から、救急車が出て行く。

 なぜか、サイレンを鳴らしていない。

 そして、門を入ると、境内には、パトカーが2台、ワゴン車1台が赤色灯を回転させて駐車している。

 周囲には、制服警官が5、6人いて、そのうちの1人が、黄色い幅広テープを持ち、京二のほうに歩み寄ってくる。

 京二は立ち止まった。

 異変が起きたのだ。どうする!? 

 京二の頭に真っ先に浮かんだのは、静夜だった。彼女はどうしているのか。

 警官は、一方の狛犬の台座に、黄色の幅広テープの端を巻きつけながら、京二を胡散臭そうに見つめている。

 京二は、鞄の底に押し込んできた50万円の現金を、ふと思った。

 引き返そう。

 警官は、テープを伸ばしながら、いわゆる「立ち入り規制線」を張ろうとしている。

「あなた、待ちなさい」

 京二は、警官に呼び止められ、思わず腕時計を見た。

 1時26分。

 約束は、1時だ。

 京二は、もう一度踝を返し、警官に向き直った。

 警官の声を無視するのは、まずい。

「はい……」

「失礼ですが、こちらに何か、ご用事ですか?」

「こちらのご住職と約束があったものですから……」

 だったら、帰るのはおかしいだろッ、と問い詰められかねない。しかし、京二は、無言のまま、警官の次のことばを待った。

「お名前のわかるものをお持ちでしたら、お願いします」

 警官は30代だろう。顔付きはやさしい。いやらしい交通警官を何度も見てきた京二は、少しホッとした気分になった。問われて困ることは何もない。

「何か、あったのですか?」

 京二はそう言いながら、内ポケットから名刺入れを出し、その中の一枚を警官に差し出した。

 静夜には、あとで電話をして、尋ねよう。

「証券会社の方ですか。約束は何時ですか?」

 警官は京二の名刺に目を落としながら言う。

 京二は正直に答えた。遅刻した理由を除いて。

 遅れたのは、駅前の喫茶店で、わざと時間をつぶしていたからだ。あんな生臭坊主を喜ばせたくない。少しでも、心配させてやろう。

 それに、今夜は、ハルちゃんとデートがある。俗に言う不倫だが、まだそれほどの関係にはなっていない。今夜がそれになるか、京二にもわからない。

 しかし、どちらにしても、午後8時には、大塚の喫茶「スワン」に行かなければならない。妻には、退職者の送別会があるから、遅くなると言ってある。

 スワンに行く前に、サウナに入って、体をきれいにして、少しアルコールを入れて……と予定行動は山積みだ。

「ご用事の内容を教えていただけますか?」

 警官は、京二の問いには一切答えず、質問ばかりする。それがマニュアルなのだろうが……。

「ふだん通りの営業です。値動きをお話して、今後の売買方針を決める……」

 ここでも京二はウソをついた。利益金を持参したと言えば、何かと面倒になると思ったからだ。

 会社を通した商いではない。「手張り」と言って、営業マンには禁止されていることだが、神階の玉には、京二が半分お金を出している。だから、益金の半分は京二が受け取ることになっている。

「そうですか」

 警官は数秒、京二を見つめてから、

「お引き取りいただいてけっこうです。何か、ありましたら、刑事課からお電話します」

 と言い、京二の名刺をポケットに入れ、立ち去ろうとした。

「ご住職にお会いしたいのです」

 すると、警官は振り返り、

「できません。お亡くなりになりました」

 エッ。

 京二は度肝を抜かれた。何か、事件か事故があったことは想像できたが、あの神階が死んだ!?

「奥さまはおいででしょうか」

「いま、あなたのお相手はできないでしょう。出直されたほうがいい。そうなさい」

 警官はそう言うと、庫裏のほうに立ち去った。

 静夜はどうしているのだろう。悲しみに暮れているのなら、出直して、2、3日おいてから、出直したほうがいいだろう。しかし、……。

 そのとき京二の頭に、邪悪な考えが渦を巻き始めた。


 遙は、喫茶店を出てから、考えた。

 京二から電話がきて、

「急用ができて、いけなくなった。この埋め合わせは、明日にしたいけれど、いいかな?」

 というものだった。

 遙が、

「急用、って?」

 と尋ねると、ドタキャンしておきながら、

 京二は、

「わからない。住職の家に、救急車と警察が来ていた」

 と言い、一方的に電話を切った。

 それって、わたしとのデートより大切なこと?……。

 遙には、京二という男が、いまひとつ理解できない。結婚して3年になる家庭を持ち、2才の娘もいる。かわいいさかりだろう。それなのに、ドア一つ隔てた、隣の会社の事務員のわたしに声をかけ、誘った。

 最初は、会社帰りの喫茶店、次に映画……。今夜は、喫茶店で落ち合い、居酒屋の個室で飲む約束になっていた。だから、アルコールが入る今夜は、ある意味、勝負だった。

 しかし、やむをえない。ドタキャンの言い訳は明日聞くとして……。

 遙は、スマホを取り出した。

「甲治、元気? いま、なにしているの?」

「アッ、ハルちゃん……ちょっと、待って……」

 なんだか、慌てふためていている。ガキッと音がした。携帯を床に落としたらしい。

 妙な沈黙の時間が流れる。

「甲治、どうしたの? お取り込み中? だったら、掛けなおすから……」

「待って、そうじゃない……」

 考えてみれば、甲治の実生活についてもあまりよく知らない。遙は、そう気がついた。知っているつもりになっていただけだ。

 彼について知っていることと言えば、独身、常務のコネで入社した、ってことぐらい。

 恋人はいないと言っているが、どうだか。わたしに気があるようなことを言っているけれど、わたしのお金が目当てだったら?

 わたしは、いまの貿易会社に入る前、短大の学生時代、風俗でバイトしていた。風俗といっても、キャバクラだから、いやらしいことはナシだ。体をまかせるなンて、あんなバカなことがどうしてできるか。わずかのお金のためにッ、よ。

 でも、キャバクラを、2年で6店を渡り歩いて、600万円、稼いだ。それはいま、定期預金にして、大切にしまってある。

 秋田の実家には、認知症の母と、兄弟姉妹が6人いる。母の面倒をみているのは、次男の弟夫婦だ。長男は、肝臓をこわし、早くに亡くなった。

 生家は農家だった。わたしのこどもの頃は、貧しかった。いまも裕福ではないが、父が遺した田畑だが、売れば大金に化ける。弟夫婦が、そこに柿の木を植えて、売れるのを待っている。

 わたしは、高卒と同時に上京して、短大に入った。それができたのは、その頃はまだ父が元気だったからだ。畑仕事が出来ない冬の間は出稼ぎして、わたしに仕送りしてくれた。

 父はなぜか、わたしには優しかった。幼い頃、わたしにはその記憶はないのだが、くわえ煙草でわたしを抱いていて、わたしのおでこに火傷を負わせたことを気にしていたらしい。いまでも、その痕はわずかに残っているが、化粧をすれば、きれいに隠れる。

 その火傷の跡が、学校でいじめのタネになったことがあり、兄弟姉妹の間でも、憎まれ口をたたかれた。

 だから、高校を出たら、家を飛び出そう、故郷からいなくなろうと早くから決めていた。

 女ひとりの都会生活はラクではない。でも、いまは、小さいけれど丸の内に勤務するOLという、聞こえの悪くない生活スタイルを維持している。

「ハルちゃん、ごめん。ちょっと金魚鉢をひっくり返して、たいへんだったンだ」

「そうなの……」

 ヘェー、甲治は金魚を飼っているのか。どんな部屋にすんでいるンだろう、これから行ってみるか。

「甲治、約束していたともだちが来れなくなって……わたし今夜空いているの。これから、そっちにいってもいい?」

「い、いッ、いいけれど、ハルちゃん、いいの?」

 どういう意味だ。「いいけれど、いいの?」って。甲治は、わたしが護身術に、週に一回、少林寺拳法を習っていることを知らない。もうすぐ、初段にあがれるほどの腕前なのだから、ね。

「住所を言うよ。駅はね、いまどこ? そこからだったら、30分もかからないよ」

 

 慈愛寺の神階は入浴中に心臓発作を起こして死んだ。

 翌朝、あさ10時、そのニュースはテレビのワイドショーで、わずか十数秒放送された。事故死と報じられたが……。

 遙は甲治と2人で狭いベッドの中から、テレビでそのニュースを見た。

 そして、2人は、同時に顔を見合わせた。

「あれ、って、京二が行ったお寺だったわね。慈愛寺って、言っていたもの。急用ができた、ってそのことだったの……」

 その直後、甲治のスマホの着信音が鳴った。

「もしもし……、エッ、警察!」

 甲治は、スマホを握りなおし、傍らで、ふとんをかぶっている遙を見た。

「いま、対馬京二さんに来てもらっています」

「そこに京二がいるンですか」

 甲治には、わけがわからない。

「京二が何をしたの」

 遙が甲治の持っているスマホに耳を近寄せる。

「ご足労ですが、これから、こちらに来ていただけませんか。死亡した慈愛寺の住職と、50万円をめぐり、トラブルがあったらしいので……」

 警察官はそれだけ言うと、電話を切った。

 きょうは日曜日だ。特に用事はない。

 甲治は遙と遊園地に行こうと思っていたが、2人で警察に行き、京二に面会するのも悪くない。

 甲治は承知した。電話口の警官には、京二と親しくしている遙も連れて行くと言った。

 

 一週間後。

 京二は、静夜といた。慈愛寺の庫裏にある寝室だ。

 警察の追及を逃れ、2人は無事を確信している。

 神階には、多額の生命保険が掛けられていた。総額2億円。受取人は神階本人だったが、結局、妻の静夜以外に相続人はいない。だから、警察は事故死ではなく、保険金殺人を疑ったが、司法解剖の結果、心筋梗塞が死因と判明した。元々、神階には、心臓に持病があった。それに、極度の高血圧。静夜は、そうと知って、結婚したとしても、だれもそれを咎めることは出来ない。

 京二は、神階が亡くなった日、もう一度、こっそり慈愛寺を訪れ、静夜に会っていた。

 静夜は、神階の死に衝撃を受けていたのか、理性をなくし、二人きりになると京二にすがりついた。

 京二は妻子がいることを忘れ、静夜をしっかり受け止めた。そして、考えた。鞄の中にある50万円は、どうしたものか。25万円は、京二のものだ。しかし、あとの25万円は、神階に手渡すべきもの。

 数分後。京二は、静夜の肩に手を回したまま、

「静夜さん。きょう、おうかがいしたのは、ご主人に利益金をお届けするためです。とりあえず、うけとってください」

 そう言って、京二は茶封筒から25万円を差し出した。50万円の受領書を添えて。

 しかし、静夜は笑みを浮かべながら、次のように言った。

「夫が入浴する前にわたしに言ったの。あなたが、まもなく手仕舞いした利益金を持ってくる。半分はやつの取り分という約束になっているが、そんなばかげたことはしない。やつのやっていることは違法だ。だから、一割だけ、分けてやる、って。そんなひとよ、あの男は。だから、あなたは、そのお金をご自分でお持ちなさい、わたしは、これから剃髪して、ここの寺を継ぎます。お金には、一生困らないだけあるのだから……」

 静夜はそう言って受領書にサインすると、京二に柔らかな唇を押し付けた。

「でも、ときどき、ここには来るのよ。来ないと承知しないから……」

 静夜は、京二の体を求めていた。

 京二は、5分後には、慈愛寺を退散した。

 どうするか、まだ、判断がつかない。妻子を捨てる気持ちはさらさらない。しかし、金は欲しい。

 週に一度は、慈愛寺を訪れる約束から、この日もやってきたが、寺の未亡人に言い寄る男は、この先、何人も現れるだろう。

 京二は、いつまでも、静夜の寵愛を受けていられるとは思わない。適当な時期が来れば、別れればいい。

 あと1年か、2年。

「京二さん。今夜は泊まれるの?」

 そんなことができるわけがない。京二は妻を愛している。遙がいるが、遙は甲治と婚約した。もう、遙には手が出せない。

「今夜はダメです。明日の朝早く、大切な顧客と約束しています」

「明日は土曜日よ。売買はないでしょ」

「売買のない日こそ、顧客を獲得するチャンスなンです。土日に遊んでいる株屋は、ロクなものじゃない」

 京二はそう言いながら、きょうはこのまま帰宅しよう。明日は、妻子を連れてドライブに行く約束をしている。

 一泊して、温泉につかる。

 同じ温泉宿に、甲治が遙と泊まることを小耳に挟んでいたからだ。

 京二にとって、妻の次に気になるのは、遙だった。出来れば、甲治との縁談は壊したい。

 それがこれからの課題だ。

「おれのいちばんのしくじりは、遙を好きになったことだ。次のしくじりは、あいつが、おれのことを全く気にかけていないことに気がつかなかったこと。3番目のしくじりは、それでもいいと自分に言い聞かせ、4番目は、そんな自分を悪いやつだと思っていないことだろう、5番目は……」

 京二は、いつか公園で甲治が遙に話していたことを思い出し、そんなことをつぶやきながら、静夜と体を重ねた。

                    (了)

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しくじり あべせい @abesei

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