第101話、『 リトグラフ 』

 『 リトグラフ 』…… いわゆる、多色刷りの色版画を指す。

 日本では、浮世絵・錦絵など、精巧な技法で製作された色版画が有名だが、近代ではシルクスクリーンを使った、鮮やかな多色刷り色版画が主流だ。

 平成に入った頃だろうか、実際の風景写真を基に、数十色もの色を駆使して製作された多色刷りの色版画が流行った。

 モチーフは、南洋のリゾート地の風景。 街角や海岸、プライベート・プール、テラスなどを背景に、抜けるような青い空とオープンカー、係留されたクルーザーなどをレイアウトした作品が多かった。 レコードジャケットやポスター、企業のイメージ広告などに多用され、画廊では絵画と同じく、『 版画 』なのに高額で売買されていた。


 当時、グラフィックデザイナーからアートディレクターに転身した私も『 時代の流行り 』に感化され、新進気鋭のリトグラフ作家だった鈴木 英人氏のリトグラフを購入した。 今でも、実家の自室の壁に掛けてあり、最近、リフォームの為に、頻繁に実家に出入りするようになって目にする機会が増え、改めて『 良き時代 』の懐古に触れている次第である。



 英人氏の作品を始めて見たのは、ミスタードーナツの紙袋( 購入した商品などを入れる、テイクアウト用の紙袋 )に印刷されたイラストだった。

 コンバーチブルの、黄色いキャデラックのイラストで、70年代のアメリカのリゾート地を彷彿とさせるような、オシャレな街角レイアウトの出来が目を引き、捨てるには惜しかったので、イラストを切り抜いて、しばらく自室の作業机の前の壁にピン留めしていた。

 後に、このイラストは、鈴木 英人というイラストレーターのオリジナルイラストであり、キャデラックの向こう側にあるミスタードーナツの看板は、コマーシャル用に、新たに付け加えられたものであると言う経緯を知った。

 仕事を通じて、市内のとある画廊と親しくなり、「 英人氏のリトグラフが数点あるが、どうか? 」の誘いに、心を決した記憶がある。


 リトグラフは、多色刷りの色版画であり、原版を扱う製作上、当然、刷り始めの頃の作品の方が発色も良いし、シャープな刷り上がりとなる。 200枚( ほとんどのリトグラフは、製作上、作品の出来の限界の為、200枚前後の刷り数 )刷ったならば、エディショナル・ナンバー『 001 』番が、最も美しい為に、作品の価値も上がり、当然にして価格も上がる。 作品の左下隅に『 180/200』とあれば、末番に近い為、刷り上がりの『 ズレ 』などが見受けられる場合もあり、価格は安価となる。

 ……このエディショナル・ナンバーだが、製作上、現在の技法では、あまり仕上がりに変化は無く、価格も同一との業界見解だが、やはり購買層の嗜好は違い、若い番号ほど好まれるし、販売価格も違いが生じているのが現状だ。


 時々、エディショナル・ナンバーが無く、『 AP 』や『 PP 』とだけ書かれている作品を見掛ける事がある。

 『 AP 』は、『 アーティスト・プルーフ 』の略で、作家が保管用に所有している作品である。 保管枚数は記されておらず、アルバム集の制作記録などから調べるしかないが、ほとんどは数枚程度である。

 『 PP 』は、『 プリンターズ・プルーフ 』の略。 印刷した工房などに保存・記念として贈られたもので、枚数は1枚の場合が多い。

 『 AP 』・『 PP 』共に、市場に出回る事は無いが、エディショナル・ナンバーで言うところの、まさに『 001~ 』に相当し、もし、市場に出れば、当然にして価値・価格は高くなる。 だが、保管用・記念贈答用として管理されている作品だけに、市場売買される可能性は、極めて低い。 基本的に『 無い 』と宣言しても、間違いは無いだろう。

 しかし、非常に稀ではあるが、展覧会や作品展などで、製作者本人の『 気分 』により、『 AP 』が販売される事がある。 最近は、チャリティーなどで市場に出回る機会が増えたらしく、偶然に手に出来た者は、非常に幸運と言えよう。


 ……実は、私が所蔵している先記のリトグラフは、何と『 AP 』だ。


 購入した時期は、流行に乗った英人氏が、まさに世に出ようとしていた時期……

 当時、まだ、一般的には名が知られておらず、大々的に、英人氏の宣伝をする作品展を開催したのが、先に記した画廊だった。

 英人氏、本人も会場に来るとの情報を入手し、壁にピン留めしてあった『 イラスト 』を手に、私は会場に駆け付けた。 サインをお願いすると、「 ああ、この仕事ね! 覚えてるよ 」と、気さくにサインをしてくれて、感激した覚えがある。

「 この仕事をした時代から、僕の作品を支持してくれていたなんて、嬉しいね。 実は、APを1枚、即売しようと思ってるんだけど… 良かったら、君… どうかな? 」

 普通のエディショナル・ナンバー入りの作品を購入するつもりだったが、英人氏の勧めに、作品を見て一目で気に入り、即決。

 氏の作品で、よく目にする真っ赤なポルシェ( 356スピードスター )ではないが、とあるCDジャケットに使用された作品で、年季の入ったショップ( 青果店 )と、店舗前に駐車された80年代っぽい車、数台がモチーフにされた作品だった。

 先記したミスタードーナツの作品の原型となった『 オーシャン・ドライブ 』と言うタイトルの作品の、ひとつ前のナンバーになり、全10枚シリーズある作品の中の1つだ。 作品タイトルは『 アンジーズ・グローブス 』。 アルバム記録によると、総刷り数( EP )50枚、PP1枚、AP5枚である。


 ……世界中に、5枚しか存在しない『 ANGIE'S GLOVES 』のAP作品……

 その内の貴重な1枚を、私が手にする事実……!


 ある意味、自己満足の境地なのかもしれないが、『 普通の作品 』とは違う価値観を持つ作品を手に入れる喜びは、やはり格別なものがあった。


 あれから、32年……

 飽きの来ないシンプルな構図は、当時の感激の心境とも相俟あいまって、眺める感覚に、色褪せて映る事は無い。


 小さなライトに照らされる『 往年の名作 』……


 イラストも絵画と同じく、評価額は、購入金額を下回る事は無い。 ある意味、金相場より信頼性がある。 まあ、オークションに出品すれば、時代の流行りの関係から、評価額より低い額で取引される事はあるが……


 先日、遺品整理で出て来た貴金属を鑑定してもらおうと、実家に鑑定士を呼んだのだが、壁に掛けてあるリトグラフを見つけ、「 鈴木 英人のAPじゃないですか…! 是非、譲って下さいよ 」と言って来た。


 ……コイツ、それなりに『 手練れ 』だな。

 貴金属・ブランド・骨董・絵画、それ以外の… それも、リトグラフの美術的価値を見抜くとは、さすがじゃないか。


 だが、この作品を手放すつもりは無い。

 私の、唯一の『 財産 』なのだから……



*近況ノートに、壁に掛けてある『 アンジーズ・グローブス 』の画像を

 近日、UP致します。 日差しが画面に反射し、見難くなっていますが、悪しか

 らず……


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