まさかの展開

体調不良と痴話げんか

「樹里先生」

病院の屋上で後ろから声をかけられた。


整った顔立ちからは想像できない、ちょっと低めのテノール。

私は、この声が好きだ。

この声で名前を呼ばれると、なぜか動きが止まってしまう。


「樹里亜?」

周りに誰もいないことを確認して、再び声がかけられた。


ん?

私は泣きはらした顔で、振り向いた。


「ど、どうした?」

慌てたように、渚が駆け寄る。

「渚ー」

我慢できずに抱きついた。


ふっと、渚の匂いがした。

使い慣れた石けんと柔軟剤の混ざった、私の好きな匂い。

うぅん、いい匂い。

きっと、私からも同じ匂いがするはず。

同じ家に暮らしているんだから当たり前だけど、そのことがなぜか嬉しい。


「渚、好きだよ」

ここが病院なのも忘れて、ギューッと抱きしめてしまった。


***


「どうした?大丈夫か?」

心配そうに、私の顔を覗き込む渚。


ああ、なんて長い睫毛なんだろう。

そんな場違いなことを思ってしまった。


「ねえ渚、キスして」

気がついたら口にしていた。

「はあ?」

やっぱり、呆れてる。


いいもん。

どんなに呆れられても、今は渚を感じたい。


「何があったんだ?」

「ねえ、キスして」

「お前なあ」

ちょっと私のことを睨んだ渚。


ゆっくりと近づくと、私の唇を塞いだ。

両手で頭をホールドし、奪うような口づけ。

いつしか口腔内が渚で満たされていく。


うぅん、うんん。

全身がしびれてしまうようなキス。

私も渚の肩に手を回していた。


私は渚以外の男性を知らない。

初めての人が渚だったから。

だから比べようもないけれど、私はいつも彼のキスにとろけてしまう。

きっと、相性が良いのね。


「リア・・・樹里亜?」

んん?


渚に呼ばれ、私は自分が気を失いかけていたことに気付いた。

「ごめん。息するのを忘れてた」


はああ。

大きな溜息と共に、渚は近くのベンチへと私を座らせる。


「で、何があったんだ?」


***


私は、母さんから聞かされた話を渚にした。

話しながら、また泣いてしまった。


ちゃんと望まれて生まれてきたことが嬉しくて、

母さんが私を愛していてくれることが嬉しくて、

今まで、反抗ばかりしてきた自分が恥ずかしくて、

みんなに嘘をついていることが申し訳なくて、

涙が溢れた。


「1度、実家に帰る?」

「ええ?」

言われた言葉の意味が理解できず、聞き返した。


「樹里亜が1人暮らしをする理由がなくなっただろう?」

「渚・・・」


確かに、きっかけは父さんと母さんへの反抗だった。

「いらない子の私なんか、いない方が良いんだ」なんて、思っていた。

でも、それだけじゃない。

少なくとも今は、渚といることが幸せだと思っているのに・・・


「俺はいいよ。樹里亜の好きにすればいい」

渚は当たり前のように言った。

私は返事が出来なかった。


渚は一体何を考えて言っているんだろうか?

私は渚にとっていらない人間なの?

じっと渚を見つめながら、無性に腹が立った。


「もういい」

そう言うと、私は屋上を後にした。


きっと渚は、私が思うほどに私のことを思ってはいない。

一緒にいる理由がなくなれば、別れればいいとでも思っているんだわ。


完全にへそを曲げてしまった私は、この日から渚を避けるようになってしまった。


***


「樹里先生」

後輩研修医の千帆先生に呼ばれて顔を上げた。

あっち。と病棟センター前を指さす。


そこには、梨華がいた。


「何、どうしたの?」

その場から声をかけた私に、

クイッ クイッ

と手招きする。

ったく。


病棟センターを出たところで、私は梨華に腕を掴まれた。


「何なのよっ」

引きずられるように物陰に連れて行かれ、つい声を荒げてしまった。


「お姉ちゃん。お願い」

両手を合わせた梨華が、私を拝む。

はあー。

またですか?


「今度は何?」

呆れた顔で、妹を見た。

「ちょっと洋服を買い過ぎちゃって。3万でいいから貸して」

言いながら、お願いポーズは続いている。


2ヶ月に1度はお金を借りに来る梨華。

よくないとは思いながら、つい貸してしまう私。

とはいえ返ってきたことはない。


「はい。3万」

財布からお金を出し、渡した。


先日、母さんの病室であんなにひどい事を言われたばかりなのに、またお金を渡してしまう私は本当にバカだと思う。

断わってしまえばいいんだと思うけれど、それができない。

生物学的な意味での家族がいない私は、仮にも家族と呼べる存在が愛おしい。

多少わがままでも、私にとっては大切な妹だから。

つい負けてしまう。


「ありがとうお姉ちゃん。大好き」

ギュッと、私にハグしてから梨華は走って行った。

あーあ。またやってしまった。


「何でも言うことをきくのが優しさではないと思うけれどね」

と、たまたま近くを通りかかった渚。


そんなことは分かっている。

私にとっても、梨華にとってもいいことではない。

でも、

「関係ないでしょう。放っておいて」

憎まれ口を叩き、私は仕事に戻った。


***


屋上で喧嘩別れした日から、私は渚を避けている。

もちろん、帰宅すれば一緒に食事もするし、勤務中は会話だってする。

でも、必要以上に話さなくなってしまった。

まるで倦怠期の夫婦みたい。

寂しいななんて思いながらも、自分から折れる気にはならない。

意固地な私。


3年も一緒に暮らしていれば、喧嘩だってした。

倦怠期だってあった。

でも、今回のはちょっと違う気がする。


チンッ。

レンジが夕食のできあがりを知らせた。

今夜のメニューは冷凍パスタ。

渚がいるときには食べられないインスタント食品で、夕食を済ませる。


「いただきます」

手を合わせてからフォークをつけた。


最近の冷食は凄く美味しい。

渚は滅多に食べなけれど、私は嫌いじゃない。

でも・・・今日のは美味しくないなぁ。

キノコと海老のクリームパスタ。

いつも食べている好きな味なのに・・・何でだろう?

渚がいないから?

なわけないか。

1人納得しながら、あまりおいしく感じないパスタを食べた。


***


今日は、月に1度の定期受診の日。


「最近どう?変わったことはない?」

主治医の月子先生に訊かれた。


海野月子先生は15年以上診てもらっている血液内科の専門医。

体重の増減から生理の周期まで私のことなら何でも知っている。


「そう言えば、食事が美味しくないんですよ。薬のせいですかねえ?」

気をつけないとすぐ血小板の数値が落ちてしまう私は、色々な薬を飲んでいる。

その性で、副作用が出ることも少なくない。


「味覚ねえ」

パソコンで私のカルテを開きながら、今日の検査結果を確認する月子先生。


一瞬、手が止まった。

え?嘘。

何かあった?

私もつい覗き込んでしまった。


「ちょっと落ちてきてるわね。立ちくらみとか、内出血とかない?」

「立ちくらみは前からですし・・・内出血は気にならないけれど・・・」

何?そんなに悪いとか?


「ねえ、樹里亜」

月子先生が真面目な顔をして私を見た。

「はい」

「生理はきてる?」

え?


生理。

そういえば・・・遅れてるかも。


「検査、する?」

「・・・」

答えられなかった。


「まあ、いいわ。来週の予約をとるから、また来て。それまで、ドクヘリはダメよ」

「えー、何でですか?」

「人の命を預かっているのよ。責任を自覚しなさい。とりあえず、貧血が酷いからって理由で、1週間のドクヘリ禁止。部長に連絡しとくから」

「えー」

まるで駄々っ子のように甘えてみたけれど、月子先生には効かなかった。


「ウダウダ言ってると、大樹先生呼んで、今ここでハッキリさせるわよ」

と脅されて、黙るしかなかった。


***


きっと、月子先生は心配しすぎ。

元々生理の不順な私だもの、ちょっと遅れているだけよ。

と、自分自身に言い聞かせる。


診察が終わって救急病棟に戻ると、部長に声をかけられた。



「本当に大丈夫なのか?」

救命部長は私を心配してくれる。

「大丈夫です。月子先生は大事をとってドクターストップをかけただけです。来週の検査で復帰しますから」

力強く宣言した。

「無理するなよ。待ってるから」

部長は肩をポンと叩いて去って行った。


「樹里亜」

今度は大樹がやって来た。


わざわざ救急病棟にやって来るほど、脳外科は暇なんだろうか?

それに、うちの病院の個人情報管理はどうなっているのよ。


「ヘリを降ろされたって?」

「もー人聞きの悪い。1週間のドクターストップよ」

「大丈夫なのか?」

もうすでにカルテで検査結果は確認しているはずの大樹。

訊かなくたって、たいしたことないのは分かっているはずなのに・・・

「1週間おとなしく陸で勤務します」

「そうだな」

それ以上、大樹も何も言わなかった。


***


その日の夕方。


「ただいま」

玄関を空けると、珍しく渚が先に帰っていた。

「お帰り」

キッチンから顔を覗かせる。

「樹里亜、夕飯食べるだろう?」

「うん」


キッチンに行くと、テーブルにはハンバーグとポテトサラダが並んでいた。

うわー、美味しそう。



「いただきます」

手を合わせてから、ハンバーグに箸をつける。

うん。美味しい。

「味噌汁飲む?朝の残りだけれど」

「うん、いただく」


そう言えば、私達は喧嘩をしていたはず。


「体は、大丈夫なの?」

味噌汁を差し出しながら、渚が聞いた。


やはりもう知ってるのね。

まあ、同じ救命科の医師。

私が休んだ分のしわ寄せが来るわけだから、知っていても当然だけど・・・


「大丈夫。みんなちょっと大袈裟なのよ。たいしたことないのに」

「そんなこと言うんじゃない。みんな樹里亜が心配なんだ」

渚らしい反応。

「渚も心配してくれるの?」

「当たり前だ」


久しぶりに会話らしい会話が出来たことが嬉しくて、私は上機嫌でご飯を口に

オエッ。

急にむかついた。


「どうした?」

「ごめん。薬の副作用かなあ?ご飯が気持ち悪い」

「ご飯?」

「うん。おかずやお味噌汁はいいんだけど・・・」

「無理しなくていいから、食べられるものを食べたらいいよ」

「うん。ありがとう」


10日ほど続いた私達の険悪な空気も、体調不良をきっかけに元に戻った。

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