妹、梨華の家出

「樹里亜、こっちよ」

病院の社員食堂で、母さんが手を振る。


はいはい。

幾分駆け足になりながら、窓際の席に駆け寄った。


「ごめん。お待たせ」

急患で、約束の時間を20分ほど遅れてしまった。

「いいのよ、仕事でしょ。日替わりのランチを頼んだけど、よかった?」

「うん」


すでに、テーブルにランチが並んでいる。

母さんと食事なんて・・・久しぶり。


「どうかしたの?」

母さんが急に呼び出すなんて珍しい。

「たまたまこっちの方に出かける用事があったから。それに、あなたの顔も久しく見てないし」


ウッ、痛い一言。


「なかなか帰れなくて、すみません」

嫌みっぽく言ってしまった。

「別に、仕事だから仕方ないけれど」

おっとり型の母さんは私の言葉を気にする風もなく、

「でも、たまには会いたいわ」

真っ直ぐに言われると、私の心が痛んでしまう。


私だって、母さんが嫌いなわけじゃない。

でもねぇ、色々と複雑な事情があるから。

なかなか素直にはなれない。


他愛もない会話をしながら、

「で、家の方は変わりないの?」

何気なく聞いた。


すると、突然母さんが箸を置いた。

「何?どうしたの?」

何かあるんだなと感じた私は、箸を止めることなく母さんを見た。


「昨日、梨華が酔っ払って帰ってきてね。玄関で大騒ぎしたものだから、お父さんが怒って・・・」

「それで?」

「お父さんは怒鳴り散らすし、梨華は玄関で吐き出すし・・・もう大変だったわ」


ははは。

思わず笑ってしまった。


「笑い事じゃないのよ」

「ごめんごめん」

でも、いかにも梨華らしいな。


***


「それで、梨華はどうしてるの?」

「今日は二日酔いで仕事を休んだわ」


はぁー。

母さんが溜息をつく。


妹の梨華は小さい頃から勉強嫌い、いかにも末っ子のわがまま娘。

今春地元の大学を卒業して今はこの病院で父さんの秘書をしている。

それでも、新入社員のくせに体調不良を理由にしてちょくちょく欠勤しているらしい。


「困ったものね」

「本当に」


頼みもしないのに、テーブルに食後のコーヒーが運ばれてきた。

「ありがとうございます」

母さんがお礼を言う。

さすが、院長夫人にはサービスが違う。


「梨華も一人暮らしがしたいんだって」

「へえー」

でも、不安だな。

梨華を一人暮らしさせたら何か起きそうな気がする。

「何でお姉ちゃんばっかりって言うのよ」

はあ?

「私は関係ないでしょう」

思わず言い返した。


確かに、私は大学入学と同時に一人暮らしを始めた

もちろん家から離れた大学に行ったのも理由の1つだったけれど、家から出たかったのも事実。

とはいえ、国公立の医学部に現役で行くだけの学力はなく、お金のかかる私立の医学部に行かせてもらった。

そのことは感謝してもしきれない。


「お姉ちゃんとは違うんだって、いくら言ってもあの子には分からないのよ」

「フーン」

だからあなたが帰ってきてと、母さんは言いたいんだと思う。

父さんからも、大樹からも再三言われている言葉。


でも、ごめん母さん。

「私は帰れない」

うつむきながらボソッと言った言葉に、母さんは何も言わなかった。

「ごめんなさい」

母さんの気持ちが分かっていても、謝ることしかできない。

だって、私はあの家には帰れないから。


「仕方ないわね」

諦めたように肩を落とし、母さんは帰っていった。


申し訳なさで気持ちは一杯だけど、それだけでは片づけられない事情があって・・・今はどうしようもできない。

1人帰って行く母さんを見送りながら、私の心は痛んで仕方がなかった。


***


「あ、あんた、何してるのよ」

その日の夕方、勤務を終えた私は自宅マンションの前で声を上げた。


「お帰り」

マンションの入り口に立つのは、妹の梨華。

「お帰りじゃないわよ。ここで何してるの?」

「お姉ちゃんを待っていたに決まってるでしょう」

はああ?


「梨華、あんた今日は会社休んだんでしょう?それなのに、フラフラ出歩いてどうするのよ」

「よく知ってるわね」

いかにもイヤそうな顔をして、梨華がマンションに入って行く。


「ほら、行くよ」

さも当然のように、梨華は中に入れろと言っている。

「イヤ、でも、いきなり来られても・・・」

困ったなあ。


幸い、渚は今夜当直でいない。

でもね〜。


「梨華、ちょっと片付けるから待ってなさい」

エレベーターを降りたところで、梨華を止めた。


しかし、

「いやよ。何で待つの?やましいことでもあるとか?」

意地悪な顔。

「別に、ないわよ」

としか言いようがない。

仕方ないなあ。


ガチャッ。

鍵を空けて、玄関へ入る。

速攻で渚の靴を下駄箱に入れ、駆け足でキッチンリビングをチェック。

ヨシッ。

大丈夫だろう。


希望的観測は往々にして覆されるとも知らず、私は梨華を部屋へと通した。


***


「お姉ちゃんらしくない部屋ね」

「そう?」

シンプルで物が少なくて、私の好みだと思うけれど。


「で、ここに住んでる彼はいくつなの?」

「・・・」

驚いて、絶句してしまった。


無言のまま、「何でそう思うのよ?」って目で訴えた。


「だって、歯ブラシ」

そう言うと、浴室の方を指さす梨華。

ああ、忘れてた。


「一体、どんな人なの?お姉ちゃんが同棲しようと思うくらいだからいい男なんでしょうね」

興味津々に聞いてくる。

うー、一番知られてはいけない人に見つかった気がする。


「あんたに関係ないでしょう。大体、こういうときは見ない振りするものよ」

梨華を睨み付けた。


へへへ。

私の抗議など気にする様子もなく、

「私もお姉ちゃんみたいに、一人暮らしがしたいなぁ」

意味ありげな視線を向けてくる。



梨華は4つ年下の妹。

甘えん坊で、わがままで、とっても個性的な子。

私が家を出たときはまだ中学生だったけれど、その頃から自由奔放だった。

学校も休みがちで、夜遅くまで帰ってこなくて両親を心配させる事も珍しくなかった。

でも、憎めないのよね。

小さい頃から、よく私をかばってくれたし。


周りは、医学部に行き医者になった私や大樹をできた子で梨華を不出来な子なて言うけれど、決してそんなことはないと思う。

梨華の気持ちの強さに、私はあこがれていた。

誰が何て言おうと、自分の価値観しか信じない梨華。

こんな風に生きられたらどんなに幸せだろうと、私はいつも羨ましかった。


***


「ねえ、どうしてそんなに家を出たいの?」

私が聞くのも変だけれど、ここまで執着する理由を聞きたい。


「アメリカに行きたいの」

「はあ?」

今度こそあきれ返ってしまった。

「お金は?仕事はどうするの?」

「そんなもの、行ってから考えるわ。とりあえずの準備資金を貸してもらったら、後は向こうへ行って仕事を探す気よ」

「バカじゃないの?世間をなめすぎ」

やっぱりこの子は本当のバカかもしれない。

「そうかなあ」

と、梨華は持ってきたカバンから着替えを取り出す。

やはり泊まっていく気みたい。


「泊めるなんて言ってないわよ」

無駄と知りつつ、一応言ってみた。

「バラしてもいいの?」

ううっ。

「そんなこと言うと、2度とお小遣いあげないから」

「それは、ダメ。もう、お姉ちゃん意地悪言わないでよ」

かわいい妹の顔になる。


「今夜だけ泊めるから。明日病院に行ったら大樹に話すからね。それまでにどうするか考えなさい」


これが私にとっての最大限の譲歩。

梨華の家出に手を貸したなんて知れたら、大変な事になる。

私にとばっちりが来ても困るのよ。

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