追いかける女

月世

追いかける女

「別れよう」

 直之なおゆきは言った。ティーカップを口元に運んだ杏珠あんじゅは、突然の科白に驚いていた。カップを持つ手が宙で止まっている。意味を理解するのに三分はかかった。暗い目を上げて、恋人の顔を見つめた。

 反応の鈍い杏珠に、直之は舌打ちをしたい気分になった。

「別れたいんだ」

 もう一度言ってみた。直之はグラスに浮かぶ氷に目を落として、杏珠が口を開くのを辛抱強く待った。杏珠は何も言わない。

 これだから嫌なんだ。直之は内心で頭を抱えた。

 この女は鈍くて暗くてつまらない。一緒にいると、気が詰まって仕方がない。友人が引き合わせた女だったから今まで我慢を続けたが、もう限界だった。

 杏珠、という可愛らしい名前とは裏腹に、覇気がなく、地味で、見た目も冴えない。陰気な女にはこりごりだ。よく半年も付き合えたものだ。表彰されてもいいくらい、自分は頑張った。

 杏珠は普通のOLで、直之は大学生だった。お互いに二十歳ということで、話も合うだろうと思っていたが大間違いだった。杏珠は話題を振ってもそれに乗ってくることはまずないし、会話が途切れてしまうのが常だ。そういう寒い関係はもう終わりにしたい。

「俺たち、性格が合わないと思うんだ」

 直之はコップの水で唇を湿らせた。この女は押しに弱い。だから簡単に別れられる。そう思っていた。

「杏珠にはもっと、なんていうか、そうだな、大人の男が合うと思うんだよ。ほら、俺ってガキだから」

 ひたすら明るく喋る直之とは逆に、杏珠は鬱々とした表情を消さない。なんとか言ったらどうなんだ。限界はとうに超えている。こうやって、喫茶店でテーブルを挟んで向かい合っているだけでも苦痛が襲ってくる。直之はイライラしながら言った。

「ていうかさ、俺、今付き合ってる子がいるんだ」

 初めて杏珠が口を開いた。

「付き合ってる……子?」

 掠れた声を振り絞り、直之を見た。困惑の表情。

「同じ大学の子なんだけど。明るくて、話してて楽しいんだよ」

 お前とは違って。心の中で付け足してやった。杏珠は呆然としている。それはそうだろう。二股をかけていたのだから。しかし直之には罪悪感というものがなかった。つまらなすぎるお前が悪いんだと開き直っていた。

「どういうこと? だって、直之は私と付き合ってるんじゃない」

「ああ、だから別れようって言ってるんだよ」

 杏珠はガシャンと音を立ててティーカップを手から滑らせた。紅茶がテーブルの上を勢いよく流れていき、パタパタと床に落下した。タオルを持った店員が慌てて飛んできた。

「そんな……、酷い……」

 青ざめた顔で、大袈裟に涙ぐむ杏珠を見て、直之は嫌悪した。被害者面をする女に腹が立った。

「ごめん、悪かったよ」

 心にもないことを言いながら直之は困った顔を満面に浮かべた。

「でも、お互いにとってこれが最善の手段だと思うんだ」

 杏珠の青い顔を見ていると、吐き気がした。こんな女と並んで街を歩いていたのかと思うと恥ずかしくてならない。他人の目には、自分たちが恋人同士に映っているのだと思うと、酷い屈辱を感じた。

「私……」

 テーブルを拭き終った店員が去ったあとで、杏珠は意を決したように呟いた。

「私、別れないわ」

 直之は耳を疑った。

「何を言うんだ」

 馬鹿じゃないのか、新しく付き合っている女がいると言ったあとで何故そんな科白が出てくるのか。直之は頬を引きつらせた。

「別れない。だって、私、直之と結婚するんだもの」

 絶句した。言葉が出ない。結婚だって?

「別れないわ、絶対に」

「待ってくれよ、結婚って正気か?」

「正気よ。私、絶対、何があってもあなたから離れないわ」

 頭から血の気が引いていくのを感じた。

「結婚するのよ、私たち。そのためならなんでもする。邪魔するならその女だって許さないんだから」

 先程の店員が代わりの紅茶をわざわざ運んできた。それを見ながら直之はやっとのことで声を出した。

「許さないって……どうするんだ?」

「殺すわ」

「よせよ」

「本当よ」

 震える手をテーブルの下で握り締めた。やはりこの女はいかれている。

「簡単よ。やってみせるわ」

 杏珠は、いやらしい笑みをじわじわと口元に広げていった。直之の両腕にはざわざわと鳥肌が浮き出ていた。本当にやりかねない。

「結婚しましょうね」

 その一言が、直之の恐怖をあおった。このままだと一生付きまとわれる。

 直之は、追い詰められていた。


 毎朝、大量の人間が電車から吐き出され、また入れ替わりに呑み込まれていく。その日も同じように駅のホームは人で埋め尽くされていた。全員が急いでいた。肩がぶつかっても両者ともが謝りもせずとにかく先へと急ぐ。次から次へと人を運ぶ電車がひっきりなしにホームへ到着する。

 そんなごく普通の日常が、ちょっとしたことで狂ってしまう。

 ホームから、人が転落した。見ていた人は、突き飛ばされたように見えたと言った。また別の人は、あれは自分から飛び込んだのだと言った。

 列車に潰された人間の肉片が、車体にこびりついてなかなか取れなかったという。飛び散った血も、まるでこの世に執着するかのように、長い間落ちなかった。



 直之の元に電話がかかった。杏珠を紹介した友人からだ。

「まさか杏珠があんなことになるなんてな……」

 直之の友人は深刻な声で言った。それに合わせて直之も落ち込んだふうを装ってみせた。本当はせいせいしている。死んでくれてよかった。あのまま生きていられたら、あの最低な女と結婚しなければいけなかったのだ。

 ホームから女が落ちて、電車に撥ねられてバラバラになり、死んだ。持ち物から被害者の女が杏珠だと判明したのだ。

「お前はどう思う? 本当に自殺なのかな……」

 何気なく訊いた友人の問いかけに咄嗟に反応を示すことが出来なかった。

「直之? 聞いてんのか?」

「あ、ああ。聞いてる。実はな、俺、彼女に別れ話持ち出してたんだ」

「じゃあ、それで彼女、自殺を?」

「そうだとしたら、俺に責任があるんだよな……」

 思いきり落ち込んだ声を出した。友人は電話口で唾を呑み込んだ。

「お前のせいじゃないよ。それ、警察には言ったのか?」

 直之は「ああ」と応えた。杏珠の恋人である自分のところに警察がやってくるのは計算済みだった。別れ話にショックを受けた女が電車に飛び込んで自殺した。そういうシナリオを簡単に信じた警察は、あまり自分を責めないようにと直之の肩を叩き、慰めて帰っていった。そのときアリバイを聞かれなかったのには拍子抜けした。警察は直之が杏珠を殺したとは考えもしないのだろうか。

 邪魔だったのだ。別れたくても別れてくれなかった。だから殺した。人ごみの中から彼女の背中を押すことは、意外と簡単だった。誰がやったかもわからない。こんなにもあっけなく人を殺すことが出来るとは思わなかった。

「葬式来なかったのって、やっぱその、罪悪感?」

 別れ話をした罪悪感。殺した罪悪感のことではない。

 直之は手のひらににじむ汗をズボンで拭いながら「そう」と同意した。

「ああ……、まあ、来ないほうがよかったかな。ほら、バラバラで……、なんか足りないらしくてさ」

「足りない?」

「その……、死体の一部がどう見積もっても足りないんだってさ」

「なんだ、それ……」

「原型とどめないくらいバラバラになったらしいんだけど、それでもやっぱり足りないんだって」

 直之は顔を顰めた。

「やめろよ、そんな話」

「ああ、悪い。じゃあ、あんまり気を落とすなよ」

 無責任な友人が無責任な励ましをする。お前のせいで杏珠は死んだんだ、と直之は心の中で毒づく。そのとき、チャイムが鳴った。美雪だ。直之は立ち上がりながら適当に会話を終わらせて電話を切った。

「遅れちゃったあ」

 扉を開けて美雪が部屋に入ってきた。買い物袋を下げていた。短いスカートから細くて形のいい脚が覗いている。直之はそこに視線を吸い寄せられていた。

「材料買ってきたからなんか作るね」

「えっ、作ってくれるの?」

「得意なんだよ、料理」

 誇らしげに胸を張る美雪がいそいそと買い物袋からネギやらニンジンやらを取り出している。直之の頬は緩みっぱなしだった。

 これが男の幸せなのだ。杏珠がいなくなってくれて本当によかった。俺は美雪と結婚する、と彼女の後姿を眺めながら直之は誓った。



 ベッドの中でまどろんでいた。裸の美雪を抱いて、その抱き心地の素晴らしさに酔いしれていた。顔もスタイルも良く、料理もセックスも上手い。こんないい女を一生抱いていられたら最高だ。相手が杏珠だと、絶対に得られない幸福感に浸りながら、目を閉じる。

 そのとき、ドン、と音がした。玄関に何かがぶつかった音だ。

 きっと隣の単身赴任のサラリーマンが酔っ払って帰ってきて、扉に体当たりでもしているのだろう。直之はそれほど気にせずに、眠りに落ちようとしていた。

 すると、再び音が鳴った。

 ドン。

 ドン。

 ドン。

 鳴り止まない音に、腕の中の美雪が目を覚ました。

「ねえ、なんの音?」

 ドン。

 ドン。

「隣のおっさんじゃないかな。時々酔っ払って帰ってくるんだよ」

「ねえ、ノックしてるんじゃない? 部屋、間違えてるんだよ、きっと」

 ドン。

 ドン。

「ちょっと、行ってきてよ」

 ドン。

「そうだな」

 ドン。ドン。ドン。ドン。

 服を着ている間もずっと音はやまなかった。直之は舌打ちをして、扉越しに叫んだ。

「部屋間違えてますよ!」

 ドン。

 ドン。

「なんなんだよ、まったく……」

 直之は扉を勢いよく開け放った。

「いい加減にしろよ!」

 暗闇に向かって叫んだが、そこには誰もいなかった。裸足で外に出て、辺りを見回してみたが、やはり人影はない。

「おかしいな……」

 呟いた瞬間に、女の悲鳴が聞こえた。美雪だ。直之は慌てて部屋に駆け込んだ。

「美雪!?」

 室内は暗い。中の様子がわからなかった。手探りでベッドに向かう。

 美雪は、狂ったように悲鳴を上げ続けている。その断末魔の悲鳴が、唐突に、途切れた。

「美雪? なあ、どうした?」

 声をかけてみたが、返事はない。直之は震える手で灯りのスイッチを点けた。

 明るくなった部屋を見て、直之は自分の目を疑った。

 上半身を起こした全裸の美雪の首に、何かがぶら下がっている。それの正体を見極めるために、直之は一歩一歩ベッドに近づいていった。

 犬か猫だろうか。戸を開けた隙に入り込んだのだ。

「み、美雪?」

 呼ぶと、美雪が首を傾げた。次の瞬間、美雪の頭が胴体から零れ落ちた。直之は悲鳴すら上げられなかった。ヒィと息を呑んで尻餅をついた。

 美雪の首が、ベッドの上でバウンドし、ゴロゴロと転がって直之の足先に触れた。直之は反射的に飛び退いた。美雪の苦痛に歪んだ顔が直之に助けを求めていた。

 ようやく悲鳴を発した。美雪が死んだ。首をもがれて死んだ。そんなことよりももっと不自然で不合理な物体が目の前にいた。

「直之、私たち、結婚するのよ。邪魔な女は殺したわ」

 杏珠の首がそう言った。

 顔中が赤黒い。よく見ると、頭の半分が欠けている。

 杏珠の口は真っ赤だった。歯に、何かが挟まっている。それが美雪の肉片だと気づくと、直之は口を抑えた。美雪の首を噛み切って、殺したのだ。

 すべてを悟った直之は絶叫した。そして、裸足で部屋を飛び出していた。

 夢だ。

 夢であってくれ。

 夢に決まっている。

 杏珠は死んだ。

 バラバラになって、死んだのだ。

 首だけで、生きていられるはずがない。

 足の裏に痛みを感じながら、直之は走り続けた。何度も転倒し、起き上がって必死で逃げた。

 こんなことがあっていいはずがない。杏珠は自分が殺したのだ。そうだ、間違いなくあの女は死んだ。

 じゃあ、あれはなんだ? 何故、首だけで喋っていられる?

 そういえば、電話で友人が言っていた。

 死体の一部が足りない。

 それは、首、だったのだろう。首だけが見つからなかった。

「そんなわけない……、首だけで生きられるわけないじゃないか」

 幻覚を見たのだろうか。直之は人気のない夜道で一人身震いした。

 きっと、心の底に残っている不安が幻覚を見せたのだ。それか、これは、やはり夢。

 尻が冷たい。コンクリートの硬い感触。自分は覚醒して、道端に座りこんでいる。夢ではない。現実に、杏珠が首だけで復讐に来たのだ。

 そして美雪が殺された。

「美雪……」

 直之は顔を両手で覆い、泣きじゃくった。愛していた。最高の女だったのに。

 直之はしばらく泣き続けた。恐怖と失望で足は萎え、立ち上がることすら出来ない。美雪の名を呼んで、すすり泣く直之の耳に、ハイヒールの音が聞こえた。

 思わず顔を上げた。暗い道路の向こう側から人が歩いてくる。

 街灯に照らされた女の下半身を見て、言葉を失った。見覚えのある細長い脚。美雪の履いていたミニスカート。

 まさか。

「美雪?」

 やはり夢を見ていたのだろうか。直之は涙を拭ってなんとか立ち上がった。

「直之」

 その女は言った。

 杏珠の声だ。

 コツコツとハイヒールの音を響かせて、街灯の明かりを全身に浴びた女が目の前に現れた。

 首から下は美雪。頭は杏珠。愛した女と憎んだ女が合体した生物がそこに立っていた。

「ごめんなさい、こんな服しかなくって……。直之はこんな下品な服、嫌いよね?」

 口を真っ赤に染めた杏珠の首が言った。二人の人間の繋ぎ目から、血が滴っている。

 直之は狂乱して、再び逃げ出した。

 背後から追いかけてくるハイヒールの音が、夜の街に響く。


〈了〉

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