竜瀝と道化師

 古書はかたる。


 太古、天から星が堕ちた。大地は鳴動し、見渡す限り焦土となった。かろうじていのち長らえた竜は、荒漠たる大地に一滴の涙を落とすと、自ら喉を裂き、心の臓を抉り出して、焔を吐きながら自死するに至った。

 その涙を竜瀝という。世に二つとない甘露であるとともに、不老長寿の秘薬であると云う。


 さて、遥かのちの世のことである。

 塵はふたたび息を得て翳となり、形代が遍く地に満ちた。

 さらにいく万年かが過ぎ、太陽が溟い影を呼び始めた「彼の時代」の話である。


 ある宮廷に、ひとりの道化師がいた。

 幼い頃より王に仕え、息子へ玉座の傍、冷たい石の床座を譲ったのは、額に深く皺が刻まれ、足腰の痛みから、とうとう拝跪できなくなった晩夏の夜半であった。

 老いた道化師はいった。

「これでようやく、わが一族の願いを果たせる」

 実のところ、道化師は竜であった。郷に在って人の姿をしているものの、その本性は竜であると、そう申し立てた。

 誰もが笑った。

 竜など、見た者はいない、と。

 そもそも、どうやって、おのれが「竜である」と知ったのか──そう尋ねた。


 花へ花たる理由を問いましょうや。

 鳥へ鳥たる理由を問いましょうや。


 老道化師はそう答え、あとは黙して語らなかった。

 世を偽る五色の装束を譲ったその翌日、老道化師は白い死装束に着替え、長年住み慣れた王都を去った。


 そうして、長い年月が過ぎた。

 白い装束が褐色となり、両袖がちぎれた頃、老道化師は巨大な湖の縁に立っていた。真水は遠く澄み、また溟く、繊月が波間に落ちるのみであった。

 老道化師は一艘の舟を操り、沖合の小島へと向かった。その島は、一年のうちたった一日のみ、霧の中から姿を現す。

 湖を見下ろす高台の邨では、竜の島とも伝わるが、真偽のほどは定かではなかった。漕ぎ出だしてのち、邨へ戻った者は皆無であったからだ。


 老道化師は、難なく漕ぎ至った。濡れた裾を引きながら、荒い砂浜を島の奥へと分け入った。

 その、道を知るかのような確かな足取りを、追う影があった。杖を頼りに、足を引き摺りながら進む老道化師の背を、目を眇めながら窺っている。


 明星が東に消える薄明のなか、老道化師はようやく足を止めた。下草ばかりの広場には崩れかけ、苔むした蛇の石像が重なり倒れていた。

 老道化師は、その像へ手を置き、ゆっくりと、ゆっくりと撫でた。あやすかのように、懐かしむかのように、何事かを呟きながら、幾度も幾度も飽きることなく撫で続けた。


 そうして、朝がきた。

 太陽が天中から降り注ぐ午となったその時、老道化師は音もなく傍に立ち、の喉にその鋭い爪をあて、こういった。

「なにゆえか」

 と。

 私はいった。両の手を組み、地にひれ伏し、土を喰むように叫んだ。

「あなたを愛しているからです。お父さん!」

 それを聞き、老道化師は涙を流した。私の咽喉元へ長い、鋭い爪をあてながら、青銅色に光るその頬へ赤い、血のような一滴を落とした。

 私は悟った。

 裏切りは手の施しようのない、と。

 しかし、私の目は、父の頬から落ちた、赤い一掬の涙から離れることはなかった。

 それこそが、竜瀝であると。

 それゆえに、竜瀝は尊いのだと。


 こうして、私は父の爪に裂かれて骸となった。父は私が腐り、土となるまでその傍らで寝み、私の頬へ接吻し続けた。

 やがて、父は私が滲み渡った土を掬い、集めては盛り、塚を築いた。

 そして、懐から一粒の種を取り出した。

 父は、塚に蒔いた。撒き終わると、

「息子よ」

 と、呻くようにいって、その場に崩れ落ち、身悶えして私を悼み続けた。

 翌日、塚から蔓が芽吹いた。

 細く息を吐き出すように蔓は伸び、塚を埋め尽くし、三日ののち、白い大きな蕾をつけた。


 翌朝、黎明にぽんと音がした。

 老道化師は見えぬ目を彷徨わせ、花に手を伸ばし、なにごとかを呟いてこと切れた。


 その時だ。開いた花のなかから、ひとりの若者が歩み出た。そうして、

「至れり」

 といった。その姿は、若き日の老道化師そのものであった。年老いた骸と、土の中の息子を一瞥し、無言で去った。

 花は閉じ、一瞬で枯れ落ちた。


 此れが、竜瀝と道化師の物語である。










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