魔術師と滅びの花
この世界には、四つの塔がある。天とも地ともわからぬ球体の四隅で、四つの塔はなかば傾き、自転の風にたえながら聳えて続けていた。
その塔は地より生じて天を支え、天より出て地に至った。このようにはじまりと終わりを一望できる塔の頂上は、何人たりとも挑むことがかなわぬ、いわば禁域となっていた。
かつて、ひとりの魔術師が、その塔の天辺を目指した。
魔術師とは、
魔術師とは、そのように厄介な、生来の異能であった。
ある日、ひとりの魔術師が、あまたの結び目に指をかけ、思うがままに操り、気まぐれに援け、裏切り、甦らせ、挙句うたたねをしていた間に、三つの織目を指の間からすべり落とした。
ひとつは、魔術師の伴侶。
ひとつは、魔術師の息子。
そして最後のひとつは、魔術師のまだ見ぬ娘のそれであった。
まどろみから目覚めた魔術師は、薄明にひとり横たわり、伸ばした指が砂をつかむことに首をかしげた。
しかし、なにを疑うこともなく、身を起こし、深々とやわらかな褥にもたれ、舌の上で飴をころがすように、ふたたびおのれの異能とたわむれ始めた。
どれほど経ったのちか、娯しみに耽る魔術師のもとを影が訪った。茫として、陽に透け、いまにも散じそうな淡さであった。
影はいった。
──ヤルミラの花をおぼえていますか。
「ヤルミラ」とはなにか、魔術師は問いかけた。しかし、びょうと南風がひと吹きすると、影はかきけすように消えてしまった。
それからまた、どれほど経ったころか。魔術師のもとを、ふたたび影が訪れた。耳もとで囁かれ、目を開くと影が立っていた。
──ヤルミラの花をおぼえていますか。
「ヤルミラ」とはなにか──魔術師は問い返した。
すると、影はわずかに首をかしげ、それから小さくふった。
──塔に咲く花。
塔とはなにか。どこにあるのか。
──世の理、世界の果てに。
それは、魔術師たる、おのれそのものではないか──魔術師は思い、さらに問い返した。
──ならば、ヤルミラの花が咲くころ、お会いしましょう。
影は去った。
魔術師は横たわりながら、「影」のことを思った。
あれは何だろう。誰だろう。なぜ訪れたのか。ヤルミラとは何か。どんな花なのか。どこにある。なぜヤルミラか。塔はどこにある。会いたい。会いたい。なぜいま現れた。なぜ話しかける。会いたい。会いたい。なぜ、なぜ、私を放っておいてくれない──。
気づけば四六時中、影のことを考えていた。自然、異能から遠ざかり、指をかけた結目は、編み変わることなく宙に浮かんだ。
そうして
魔術師は、三たび目を閉じた。さらに、おのが第三の目をも閉じ、茫たる
──会いたい。
──教えてくれ。
──おまえに会いたい。
──ヤルミラとは。
──おまえは、なにものだ。
──知りたい。
──教えてくれ。
微睡みのなかで、魔術師は理の結目から手を離し、知らぬ間に
これまで、なんとたくさんの結目で繋がれ、戒められていたのか。それがいま、ただ一つもない。心もとなさに柔らかな褥のことを思い、涙を落としたとたん、地へ堕ちそうになった。
瞬間、声がした。
──ヤルミラの花をおぼえていますか。
──おまえは、わたしを知っているのか。
──あなたは、私をおぼえていないだろう。あなたが私を忘れても、私はあなたを忘れはしない。あなたに誓ったのですから。
──誰に誓ったというのだ。
その時、天空が割れ、塔が現れた。
それは世界の四隅であり、世界の中心であった。地に根を下ろし、天へ向かってどこまでも聳え立っていた。ひとつの塔は、やがてすべての塔とつながり、それでいてひとつひとつ、異なった形容をもち、樹液のように内側からにじみでる輝きで世界を照らしていた。
魔術師は、そのなかでもひときわ白く、輝く塔へと近づいた。
しかし、行けども行けどもたどり着くことはできない。ふれようとすれば逃げ、遠ざかれば、手が届くほど近くにある。
仕方がなく、魔術師は跳んだ。
はるか頂上へ向けて跳び続けた。何日も、何年も跳ぶうちに、なぜ跳んでいるのか、なにをしているのか、わからなくなっていった。ただ、跳ばねばならない。あの塔の天辺を目指さねばならない。あそこへ行かねばならない。
その思いにつき動かされ、跳び続けた。
気がとおくなるほどの時を費やして、ようやく塔の天辺が見えた。
魔術師は、最後の力をふり絞って跳んだ。最後はすべらかな花香石に指をかけ、よじ登った。あれほど大きな塔であったのに、上りきった天辺は、わずか両の手を広げたほどの広さだった。
星あかりのしたで、一輪の花が咲いていた。
白い、可憐な、それでいてなんの変哲もない、ありふれた小さな花だった。路傍に咲いていたら見逃してしまいそうな、小指の先にも満たない小さな花だ。花弁は三枚。黄色い
魔術師は、這うようにその花へ近づいた。そうして胸いっぱいに、その香りを吸い込んだ。
どこか覚えのある香りだ。
ふと、柔らかな小さな手が、おのれの頬にあたるのを感じた。重みと温もり、えもいわれぬ愛しさが込み上げ、涙を落とした。
──おまえだったのだね。
そして、塔は崩壊した。
まずは一ノ塔、それから二ノ塔と、最後の塔が崩れ去ると、大きな澄んだ湖と白い花が乱れ咲く草原があらわれた。
これがはるかヤナ山脈の彼方、青碧の湖、深淵に横たわる時の神殿、失われた四つの塔と滅びの花、そして魔術師の物語である。
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