愚者の井戸

 或る日、衛士の娘が井戸へ落ちた。


 まだ五才の娘だ。片えくぼの愛らしい、小首を傾げて咲う様は、ヤスミンの小さな白い花のようで、砂漠の砦から戻る男の疲れた心をいつも癒してくれた。

 その娘が、井戸に落ちた。

 落ちたと分かったのは、男が砦から町へ戻った朝、娘の姿が見当たらず、妻に尋ねた時だった。

 妻は「知らない」と言い、男の朝食を作り続けた。

 あまりに要領を得ない様子に、男は妻を問いただすことを止め、娘を探しに出た。

 ほどなく、裏手にある共同井戸の中に、小さな背中が浮いているのを見つけた。

 誰も気づかず、今日も井戸は使われて続けていたようで、いつもと変わらず周囲は水浸しになっていた。

 男は縁をつかんで娘の名を呼び、どうにかその幼い身体を引き上げようとした。

 ところが井戸は深く、竿は届かず、縄をかけて降りるには狭すぎるうえに、衛士である男へ手を貸す者はいなかった。

 男は隣人たちの無情を罵り、妻の無関心さに憤りながら、次第に腐乱し膨らみ、色を変えていく娘を見守るしかなかった。


 そして、町に疫病が流行った。

 娘の屍から毒が流れたのか、見る間に町中へ広がり、人々は吐瀉し下血し、のたうちながら息を引き取った。老若男女隔てなく、死の病は町中を覆った。

 執政官は井戸の使用を禁じた。次に用水路を堰き止めた。

 そして、町は渇き切った。

 新たな井戸を掘ろうにも時がかかる。その井戸もまた、病に侵されているかもしれない。

 来る日も来る日も、大勢の町衆が死んだ。

 地下墓地から屍があふれ始めた時、人々は思い出した。

 「砦」がある。

 町から徒歩で一日。砂漠のただなかにある境界を守る砦だ。

 その堅牢さは比類なく、両の手を広げ十人は連るほどの壁に囲まれ、ただ一か所、三重の落とし扉があり、進んで中央広場には満満と水を湛えた泉がある──という。やはり両の手を広げ十人ばかりが連なれるほどの大きさで、美しい白い丸石の間から、絶えず水が湧き出しているという。砦が築かれた幾世代も前から、一度も枯れたことはないらしい。

 しかし、砦は境界だった。

 遥か昔から、人と塔を隔ててきた。

 町は砦の守り手を供出し、砦は塔から町を護ってきたのだ。

 男は親から継いだ生業として砦に仕え、境界を護り続けてきた。

 人々は無言の禁忌を破った。

 沙漠を渡り、渡るあいだに命が尽きた人々を踏み越え、濁流のように砦へ雪崩れ込もうとした。男は男は両手を広げて、押しとどめようとした。

 泉の甘い香りが正気を失わせた。

 門は壊され、境界は乱され、パン屑のように屍を残しながら泉へやっとのことでたどり着くと、どうしたものか、目の前で見る間に枯れてしまったのだ。

 男は町衆とともに、なすすべもなく立ち尽くした。やがて「おまえが水を隠した」と責められ、幾重にも囲まれ追い詰められた。

「これまで私は、あなた方を守ってきた。娘も失った。それなのに、この仕打ちはなにゆえだ」

 男の訴えは、興奮した怒声にかき消された。

 男は石で打たれ、踏み躙られ、娘の名を呼びながら果てた。

 その時だ。轟音が地を揺るがした。

 一斉に砦の壁に亀裂が走り、厚い壁が次々と内側へと倒れ込み始めた。日干煉瓦が砕けて土と砂となり、それが津波のように人々を飲み込んでいった。


 こうして境界は崩れ、太古の契約は破られた。

 結果、塔と人の狭間は沙漠となったのである。






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