賢者の塔
濱口 佳和
賢者の塔
この世の果てに、賢者の住まう塔があるという。
北の広野の先、六つの川と七つの渓谷、九つの森を越えた先に、天を衝く塔が聳えている。
その塔には、樫のドアがひとつ。覗き窓も、引き手もノブもない。それ以外の入口もない。
ドアを三度叩けば、こう問われるという。
「是か、非か」
「有りや、無しや」
「行くか、帰るか」
「生くるべきか、死すべきか」
何れにせよ、二つの相反するなにかを問われ、そこで決めねばならない。
ゆえに、選択の塔ともいう。
ある時、ひとりの男がその塔を目指した。
まだ若い、父親になったばかりの男であった。
しかし、妻は産褥の床で亡くなり、小さな娘も十日ばかり生きながらえたが、母親の後を追うように塔へ召された。
そうして六ヶ月が過ぎた朝、男は寝床のなかで目を覚まし、朝の心地よい風に頬を撫でられながら、妻と子がどこにもいないことに気づいた。
塔から去ったのだ。
その日、男は晴れやかな心地で過ごし、そうして思った。
昨日と今日の境は、どこにあるのだろう。
何が自分を分け隔てたのか。
あの暗く、先の見えない絶望が晴れたのはなにゆえか。
この光明が降り注ぐような、春の風が吹き抜けるような心地よさは永遠に続くのか、あるいは、あの暗い穴倉のような日々が再び戻ってくるのか。
なによりも、二人はどこへ行ったのか。
疑問は、男の頭を満たしていった。朝起きるごとに清々しい心地のなかで、さらにまた新たな疑問が湧いてくるようになった。
男は誰かれ構わず、手当たり次第自分の疑問をぶつけ、聞いてまわった。
しかし、答えは得られなかった。疑問と疑問の狭間を埋める言葉さえない。
男は朝、目覚めるたびにおのれが風船草のように膨らんで、いつか裂けて落ちてしまうのではないかと思い始めた。
そんな頃、その噂を聞いた。
旅の時見である。
時見とは占卜師と似て、まったく異なる異能の者たちであった。
男は、教えられた裏通りへ足を向けた。売春宿が立ち並ぶ界隈だ。妻を持つ前に幾度か通ったことがある。
その中でも中央の、臭い枯れた噴水がある辺りに、双六盤を広げた四人の老爺がいた。それぞれ違う色の服を着て、違う色の賽子を振っていた。
今日、昨日、明日、そして贋の賢者だ。
男は、賢者へ問うた。
「ひとは、どこへ行くのか、だとさ。ひいひい、ふう、みい。あと四つで上がり」
「ほう。八の目か出たか」
「おまえは知っているか。死んだけものがどこへ行くか」
「何を聞く。気を散らそうとは小癪な。ほうれ、三だ」
「あといくつで上がる」
「上がるがどうかを尋ねるとは、鳥に飛ぶ道を尋ねるようなもの」
「人はどこへ行く」
四人の老爺は動きを止めた。一人は双六盤に屈み込み、一人は賽子を振り上げて。ひとりは腕を組み、ひとりは床に座っていた。
その四人が一斉に男を振り返り、
「なぜ知りたい」
と、重なる声で尋ねた。
男は、不思議な余韻に首を振りながら言った。
「妻と子が死んだ。二人に会いたい」
会いたいと言ったが、その端からそうではないと悟る。
「もう、二度と戻って来ぬか、また戻ってくるのか、それを確かめたいのか」
男は首を振った。
戻るわけがかない、妻と子は塔に召されたのだ。
「呼び戻したいのか」
「言葉を交わしたいか」
「ふれたいのか」
皺だらけの顔が、歯抜けた臭い口が迫り、男は思わず後ずさった。
「逃げたいのか」
そうか、と思った瞬間だった。
街が消えた。
男は立っていた。茫洋たる広野だ。
春先の緑と水の香が、鼻腔から腹へ落ちる。
そうして影もなく、高い、雲ひとつない空へ伸びる高い、高い塔が聳えていた。
男は、塔の周囲を巡った。
巨大な塔で、一周するだけで一日かかるほどではないかと感じた。
というのは日は登らず、日は暮れず、夜空に星も瞬かず、無論、月が登ることもない。
春の午後のような明るさのなか、靄に煙ぶることなく聳え続け、すでに一日経ったのか三日経ったのか、男は塔の巡りながら漠然と考えた。
気づけば、腹も空かない。喉も渇かない。寒くなければ暑さも感じない。
それでも歩みを止めず、とぼとぼと塔の周囲を巡り続けたある日、扉を見出した。
叩くと乾いた音がする、おそらく樫の戸だ。
男は叩いた。手で、拳で、終いには足で蹴りながら、何かを叫び続けた。何を叫んでいるのか自分でもわからない。誰かの名を呼びながら、叫びながら、乞うているのか、謝しているのか、次第に言葉ではなく獣のような呻き声になっていった。
なぜ叫ぶのか、誰を呼んでいるのか、すっかり忘れた頃に、扉の中から尋ねる声があった。
「見るか、見ざるか」
次の瞬間、男の姿が弾けた。文字通り一点に絞り込まれ、小さな穴になったかと思った瞬間、ぽんという音を立てて弾け、その音さえ風に呑まれた。
男の住居は朽ち果て、瓦礫となった。
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