口淫

『私をあげる』

 酒に耽溺たんできし暴力を振るい続ける父親と、娘をかばう為に進んで暴力を引き受ける母親の、怒声どせい罵声ばせいが響く家の中から裸足はだしで逃げ出し、夜道を彷徨さまようこと、しばらく。俺はカンナからそう言われたあの日から、徐々じょじょに自分の意識が鮮明せんめいになりつつある事を実感していた。

 おおとりかんという一人の少女の空想の産物さんぶつである自分は、人の目には映らないただの無力な黒猫だった。それまでも自分の意識というものは一応あるにはあったが、ひどく曖昧あいまいで、輪郭りんかくの整わないかすれた線のようなものだったと思う。

 ただ投げて寄越よこすかのように、簡単に自分を『あげる』と言われても、彼女の淋しさを埋める為だけに存在しているようなものであるただのしがない猫である自分には、何をどうすればいいのかさっぱりわからず、とりあえずはいつもの通り彼女に寄り添って、一般的な猫らしくにゃーにゃーと可愛い声を上げ続けておくことしか今の自分には出来なかった。

 しかし、『かん』という存在をもらってから変化したこともある。先ずは意識というものを得て、最初に抱いたのは『淋しい』という感情。次に苛立いらだちや焦燥感しょうそうかんといった後ろ向きな感情が、日々を重ねるごとにふくらんでいった。

 彼女を取り巻く家庭環境や日常生活の悪化にともない、彼女は次第に俺という黒猫から意識を外す時間が増えていった。目の前の事に手一杯となれば、もとあった空想は憂慮ゆうりょという名の新たな空想に場所を奪われ、俺という目に見えない存在は二の次にされてしまう。誰の目にも触れなくなったとき、自分はふと、思うのだ

 

 誰も認識してくれる人の居ない自分は、果たしてこの世に存在しているのか。

 

 意識を得てからというもの、そんな地に足の付かない不安感に日々胸中きょうちゅうにごらせていくことになり、自由気ままな猫らしくもない人格のある存在ならではの悩みを抱える羽目になってしまったのだ。

『私をあげる』という言葉はある種の暗示あんじのようなもので、そしてある意味ではカンナがカンナ自身に向けて掛けた呪詛じゅそだ。この言葉によって『寛菜』という人間の主導権しゅどうけんほとんどを譲渡じょうとされた今の自分は、いざとなれば彼女の記憶や存在にこの短い前足を少し伸ばすだけで、ちょんと容易たやすく触れる事ができるだろう。しかし、この時はまだ、触れたところでその先どうすればいいのかろくに考えることが出来ておらず、実際の行動に移すことも考えてはいなかった。

 途切とぎれ途切れの記憶に、不透明な自我。はっきりとこれが自分だと言えるものも持っていない。そんな不確かな存在に生まれて、不確実な現実の中に生きる空想上の黒猫に、人間の少女一人をどうこうしようなんていうのはとんでもない話だ。こんなにも矮小わいしょうで無知な存在に、一体何が出来るものか。

 日々かげを濃くしていく彼女の周囲と彼女自身に不安がつのらないわけではなかったが、それ以外の環境を知らない自分は、悪い意味でその環境に慣れてしまっているふしもあった。けれども、最初はそれでも良かった。それ以上を思考する頭も無ければ、価値観かちかんも持ち合わせていなかったのだから。

 今思えばこの時が一番幸せだったのかもしれない、何も知らない方が良かったんだ。知れば知るほどに苦痛が生まれ、記憶はむしばみ、やがていつの間にやら泥沼どろぬままり込んで、はっと自分の姿を認識できた頃には、きっともう遅い。無駄な価値観が生まれればその分身動きが取れなくなり、気が付く間もなく真っ黒に塗りつぶされた視界の中で、何も見えずに藻掻もがくのみとなっている。

 無明むみょうに落ちる事を知らない、赤子のままでいたかった。

 彼女のそばで彼女と同じものを見る、これ以上の事を望まなかった頃が、何よりも『黒猫』という存在として呼吸がしやすかったと今になって思う。

 ……はてな、呼吸とは、言い得て妙だと自嘲じちょうする。

 自分にとって呼吸とは、何をす行為なんだろう。



「ヒロナ、おいで」

 彼女は夜道を歩いていた。冬の寒さのきびしい時期だった。

 その日も自分は彼女の周囲をむやみやたらとうろうろしていたわけだが、そんな矢先、不意に彼女から声を掛けられた。

 素直に嬉しかった。自分を見てもらい、認識してもらえる。

 彼女は人気のない夜道にしゃがみ、両手を広げ、自分をむかえる姿勢を見せて待ってくれている。

 自分は夜の闇に黒い身を溶かしながら、くせで足音を忍ばせつつ、冷たいアスファルトを踏んで彼女の元へ嬉々ききとして一歩を踏み出した。


 その時だった。


 どうしてすぐ気づいてやれなかったのか。彼女の背後に、見知らぬ男が立っていたのだ。背後の気配に気づいた彼女ははっと腕を引っ込め、機敏きびんな動作で後ろを振り向く。一瞬にして彼女の意識は男に向き、小さな黒猫は簡単に意識の外に追いやられる。ふっと蝋燭ろうそくの火を吹き消すように、自分が不透明になる感覚。

 嫌な感じだった。

 男は彼女に友好的ゆうこうてきながら、どこか歯につく物言ものいいでやんわりと近づき、そのまま彼女の手を取って夜道を歩き出した。意識の外側で、自分はその男を低い目線からける。

 ……なんで、手をつなぐんだ。

 彼女はおどおどするばかりで、しかも元々の自己肯定感じここうていかんの低さから、自分の身の危険より相手を不快ふかいにさせないだろうかという見当違けんとうちがいな心配ばかりしている。

 彼女の空想であるがゆえか、自分は彼女の考えが昔から不思議と手に取るようにわかった。そのことは俺にとっては至極しごく当然とうぜんのことであり、彼女に同調どうちょうし、自分を彼女そのもののように感じ入っては、自分の中にしつこく巣食すく孤独感こどくかんから目をらし、誤魔化ごまかしてきたのだ。彼女のことを一番に理解しているのは自分だと自負じふしているし、下手へたをすれば彼女の気付かない彼女自身のことさえも内側からのぞき見ることは常に容易たやすかった。

 閑話休題かんわきゅうだい

 見ず知らずの怪しい男に手を引かれているという状況でも、彼女は「そうするべき」だとするかのように、逃げることもせず、男に手を引かれるがまま夜の道をさらに明かりの無い方向へと誘われていった。これがどういうことなのか、この先何が起こり得るか、この時の俺はまだ想像することもできず、しかし薄ら寒い違和感のようなものだけを確実につのらせながら、二人の真後ろを一緒になって付いて歩く事しかできなかった。

 やがて、男は彼女を夜道の果てへと連れ込む。

 ここまでくれば流石さすがに無知な俺でも、危機感を感じるには十分な状況だと理解した。

 俺は彼女になんとか気付いてもらおうと思い、にゃーにゃーとひ弱な声をあげながら彼女の周りを右から左へふらふらと歩き回ってみせる。

 だが、彼女の意識は目の前の男にのみそそがれ、自分の足元をうろつく黒猫の存在など無意識のすみに追いやってしまっている。

 俺はさらに声をあげた。にゃー、にゃー、にゃー。気付いて、ねえカンナ、気付いて。多分、その男の人は危ないよ、ねえってば。

 ぱたぱたと足音を立ててみるも、彼女は振り向かない。足りない、この程度では彼女の注意を引くには足りない。

 そうこうしているうちに彼女はへいの横に座らされ、男は彼女の目の前に厭な笑みを浮かべつつ立ちはだかり、彼女の退路たいろふさぐ。そうして何故か、男はおのれの履いているズボンのベルトに、カチャカチャと手を掛けた。

「……?」

 俺は最初、ぽかんと呆けたようにその光景を見ている事しか出来なかった。何故なぜなら、男が始めた行動の意図いとがさっぱりわからなかったからだ。

 無知ゆえ愚鈍ぐどん、思考の放棄ほうき、俺も彼女もこの時はまだどうしようもなく、子供だったのだ。

 男は真冬の寒さの中で、人目をはばかるようにするするとズボンを半分だけろしてみせる。街灯がいとうの明かりは遠く、彼女の眼前がんぜんさらされている男の其処そこは、さいわいなことに夜の闇にまぎれて細部さいぶまではよく見えない。

 ……この人は、一体何をしているんだ?

 もっと他に考えることもあっただろう。だが、災厄さいやく渦中かちゅうにいる人間というのは、第三者とくらべれば案外と盲目的もうもくてきであり、自分の置かれている状況がわからないものだ。

 男性という生き物に加え、そういった知識もほぼ皆無かいむだった自分と彼女は、酷く現実味を欠いた、しかし恐ろしく現実的な目の前の光景に唖然あぜんとするしかなかった。そして、何もわからないままに『それ』を目前もくぜんに向けられた彼女は、自然と恐怖きょうふを抱くにあたいする状況であると理解する。

 彼女が抱いた恐怖心は、すぐさま俺にも伝搬でんぱんした。その恐怖に呼応こおうし、俺自身が抱いた危機感もさらに大きさを増していく。

 カンナ、ねえ何か、これはいつもと違うんじゃないか。いつも学校でされるいじめとか無視とか、そういうのとは何かが違うような―。

 やけに冷たい風が、一つ吹く。

 さらに鳴き声をあげようと開いた口が、途中で止まる。

 ――男は彼女の頭を掴み、彼女の唇に『それ』の先端せんたんを押し当てた。

 後頭部こうとうぶを押さえつける男の手にはばまれ、彼女は近づいてくるそれから逃げられない。

 おい、何しているんだ、やめろ。

 にゃーにゃーとうるさいくらいにわめく声は誰の鼓膜こまくも震わせない。何も出来ず、ただ無情むじょうにも事は目の前で運ばれていく。この世に存在していない黒猫の声など、誰も認識しない。

 まずいんじゃないか、まずい、何が、たたかれているわけでもない、ののしられているわけでもない。だが、これは多分、絶対に、まずい状況だ。

 彼女のくちびるをこじ開けるように先を押し当て続ける男。形容けいようしがたい不快ふかい臭気しゅうきが彼女の五感を通して伝わってくる。男の行為にこたえるため、もとより抵抗ていこう拒否きょひといったたぐいの一切を選択肢として浮かべていない彼女は、正解のわからないこの行いに対して恐る恐る、小さく口を、開いてしまった。

 その瞬間、男はその隙を逃さず、すかさずそれの先端をねじ込み、彼女の口と喉を塞ぎに掛かる。咄嗟の事と、そのあまりの強引ごういんさに、彼女は息を吸う余裕よゆうすら持てなかった。

 にゃあ、と夜闇よやみむなしく音のない声が鳴る。

 やめろ、やめろ、頼むからやめてくれ。男が何をしたいのかわからないが、彼女を通して見るもの感じるもの、全てがたまらなく不快だった。

 ねじ込まれたものは喉奥のどおくまで到達とうたつし、そのまま男は掴んだままの彼女の頭を、物をあつかうように乱暴な動作で前後に動かし、彼女の口内でそれの抜きしを繰り返した。経験したことのない苛烈かれつな息苦しさに彼女はたまらずえづくが、男はまったく気にめる様子など見せない。

 休みなく喉を突かれる感触に、ふと、数年前の記憶が脳裏のうりよぎる。

 あれはカンナがまだ小学生の頃だった。ランドセルを揺らして学校から帰ってきた矢先、台所の方からふと、あまり聞き覚えのない厭な音が聞こえてくることに気付いた。俗にそれが、人がえづく際に出す声というものだったのだが、当時のカンナも自分も、その音の正体を目の当たりにするまで、それがどういう音なのかよくわかっていなかった。嫌な予感を覚えながら、そっと足音を忍ばせ、音のする方に向かってみると、そこには流し台の前で項垂うなだれる母親の後ろ姿があった。母親の姿に先ず安堵あんどするカンナだったが、その場ののっぺりとした雰囲気をやや不審に思い、恐る恐る一人と一匹は母親の真横に歩み寄る。「おかあさん?」と彼女は問いかけた。

 ――母親は、喉に指を突っ込んで、吐いているところだった。

 まだ幼かった彼女と自分にとって、これは強烈きょうれつな思い出だ。今の彼女の身に起きている度を越した不快感が、あぁ、あの時の母さんはこんな感じだったのかもしれないな、などと現実逃避と相まって走馬灯そうまとうのように浮かび上がり、そうして泡沫うたかたの如く消えていった。

 彼女もまた、喉に当たるそれによって嘔気おうき刺激しげきされ、母さんのように、きっと胃の中のものをぶちまけることだろう。あの日の母親と違うところを挙げるとすれば、喉にいるのは指ではなく、もっと太い、他人の何かという点だ。

 だがそんな中でも、伝搬してきた彼女の感情や思考を視るに、カンナは真っ先にせりあがってきたもので男を汚してしまうことを、このおよんでも律儀りちぎ憂慮ゆうりょしていた。

 カンナ、そうじゃない、多分そうじゃないだろ。男が自分で汚れる云々の前に、先に汚されているのはどっちだ。この場で一番汚(けが)らわしく、よごれているのはどっちだ。

 苛立いらだたしに声をあらげるも、誰も猫の声など拾わない。誰も、誰も。

 自分は、どこにもいない。


 ねえカンナ、いい加減こっちを見てよ、カンナってば、ねえ、カンナ、カンナ、カンナ、カンナカンナカンナ――


 とん、と、咄嗟に伸ばした前足が、彼女のひざに質量をともなわずに触れる。

 前足で、彼女に触れて、思った。

 ああ、そうか、彼女が逃げられないのなら、俺が代わればいいんだ。

 猫のままでは何もできない。

 それなら俺は、人になろう。

 彼女を守るヒトになろう。

 彼女の意識にしずみ、彼女の記憶に前足を伸ばす。


 彼女を守る『象徴しょうちょう』とは。

『優しさ』、守る優しさを持つ象徴、ヒトの形をした象徴。

 俺はそれになる。

 その形で、俺は今、この場で彼女を守り、代わる。


 どぷり、と。

 泥が跳ねる音がした。


「――……っ」


 粘着質な濃い闇が、人の身体をした俺の全身にまとわりついている。産まれたばかりの赤子あかご羊水ようすいをかぶって生まれるように、人肌の闇はこの身体がもと居た場所をへそのように繋げ、いまだそのきずなを断ち切らせまいとすがりつくように手を伸ばしてくる。

 俺は意識に収めたばかりのその身体を使い、涅槃ねはんの底から手を伸ばす。絡みつく闇を振り払い、ぐ、彼女に向けて、人の手を伸ばした。

 

「――カンナ!」


 その手は、彼女の意識の内側の、肩に触れる。

 伸ばしたその手は紛れもなくヒトのもので、肉球の付いた猫のそれではない。五本の指があり、それは自在じざいに動き、ハッキリと自分の意志で彼女という存在の意識に触れている。口から飛び出した声はヒトの言葉を完璧にかたどっている。しっかりと自分でも聞こえた。彼女の名を呼ぶ柔らかな、だがあまり聞き覚えの無い低い声―男性の声帯せいたいだった。

 違和感いわかんを覚えたのは一瞬、しかし疑問を持つひまなど無かった。無我夢中むがむちゅうで手を伸ばし、意識の内側で掴んだ彼女の肩を、強引に手前に引き寄せた。引き寄せるままに倒れ込んできた彼女の身体を、得たばかりの自身の身体からだで受けとめる。彼女を受けとめた自分の身体は、彼女よりもしっかりとした体躯たいくで、いつもは大きいと思っていた彼女の存在も、今ではすっかり華奢きゃしゃでちっぽけなものに見えてしまう。夢と現実のさかいに身を落とし、彼女の体温を懐(ふところ)に感じた。

 あぁ、そうか。

 彼女はこんなにも無力で、ちっぽけだったんだ。

 ぽかんとしながら、懐の中の彼女の視線の先を追えば、いまだ男の存在に注視ちゅうししている様子が見て取れた。俺は彼女の視界を後ろから手の平でそっとふさぎ、物理的ぶつりてき視界しかいの先を遮断しゃだんする。物理、とはいったものの、空想がものをう場でそれをするのだから、感覚に働きかけたと表現した方が妥当だとうだろうか。

寛菜かんな、もういいよ。君の全部は俺がもらうから、あとは俺に全部頂戴ちょうだい

「……なに、が?」

『私をあげる』という、この言葉の意味を俺なりに解釈かいしゃくし、彼女に結論を返す。だいぶ遅くなってしまったけれど、カンナ、あのとき君が俺におくってくれた言葉に対する、これが俺の答えだ。

 ――彼女の意識を表層ひょうそうからがし、彼女の居なくなった彼女の身体を、俺が入れわりに支配する。

 カンナの身体は、深くを突くそれの所為せいで喉が塞がれ、息が出来なかった。出かかった胃の中のものを必死に飲みくだしながら、うちにあるヒトの身体で、出来るだけ彼女を優しく抱き、語りかける。

「寛菜の全部、俺に頂戴。身体からだも、記憶も、今この経験も、寛菜自身も」

「………」

「後は全部、俺が引き受けるから。……ねえ寛菜、もう何も見なくていいんだよ」

 語る最中さなか、吐き気と息苦しさにされて、彼女を抱く腕に力がこもる。

 私をあげる。私をあげる。『寛菜』を貰う。『寛菜』という存在の全ては、俺が引き受ける。『寛菜』を失った君はどこに行くのだろう。行く当てが無くなるのなら、それなら俺のものになればいい、君の周りを彷徨(さまよ)う無力な黒猫のように。だって、確かに自分は此処ここにいるのに、誰にも見てもらえないのは、さみしいもんな。

「寛菜はずっと俺のそばればいいよ。淋しくなったら俺がいつでも傍にいるし、他の誰も必要ない。俺だけが傍に居てあげる。だからもういっそ、表に出ないで」

「……うん」

「ねえ、寛菜を苦しめるだけの記憶なんてらないよね? 君の価値観かちかんも、存在意義も、俺に全部頂戴。俺の中に隠して、俺だけが、ていてあげるから」

「……いよ」

 俺はカンナを支配する、カンナの為に。カンナから譲渡じょうとされた『おおとり寛菜かんな』をあつかう権利は、今こそ行使こうしするべきだ。カンナが自由を拒否するのなら、俺がカンナを自由にしたって、文句は無いだろう。

「……カンナを苦しませるものは全部、俺に頂戴。寛菜かんなで俺は苦しみたい。だって『寛菜』は……――ヒロナは、俺だから」

 ぐちゅ、と粘着質ねんちゃくしつな音が口の中で泡立あわだった。先程さきほどから一層いっそう速さを増して、激しく喉奥を突いていた男の動きが、不意ふいにぴたりと止まる。

 不審ふしんに思い身を強張こわばらせていると、一瞬のを置いたのち。……喉の奥に、なまあたたかい熱が、広がった。

 なに、これ。

 はなに抜ける経験したことのないひど臭気しゅうき。喉の奥を流れ落ちる生温かな温度は、胃からせりあがってきた酸と喉の中央でぶつかり、ざり合う。口内に居座り続ける『それ』がかすかに脈打みゃくうっているのを舌先したさきに感じ、何が何だかわからないまま喉で混ざり合った熱は、ついに『それ』の間をい、吐瀉物としゃぶつとして口端からどぽりとあふれ出した。

 目の前の出来事に、ただの猫だった筈の俺はただただ圧倒あっとうされるしかなく、今は吐瀉物と一緒に生理的に溢れる涙をぼろぼろとこぼすことしか出来ない。いつまで経っても呼吸ができず、仕舞いには酸欠さんけつを覚え、まともに思考する事もままならなかった。


「ヒロナ」

「……カン、ナ」


 内側で彼女が、俺を呼ぶ。二重にじゅうに重なる景色と感覚に、眩暈めまいと頭痛が襲ってくる。

 色をいた彼女独特どくとく平坦へいたん声音こわね。そのいつも通りの調子に、俺は唯一ゆいいつこの圧倒的あっとうてきな非日常の中から、日常と自分を繋ぐ細糸ほそいとのようなよすがを見つけた気がした。絶対に見失ってなるものかと、わらにもすがる思いで彼女を強く、強く抱きしめた。

 そのかたわらで「良かった」と彼女の目を塞ぎながら思う。彼女は、みっともない俺の姿が見えていない。涙と白濁はくだくと吐瀉物でカンナの身体や周囲を散々さんざん汚して、みだらに荒い呼吸をむさぼって、拒絶きょぜつを示す身体は必死に身をむしば嫌悪けんおを吐きくだし、俺はすっかり身も心もぐちゃぐちゃにてていた。

「……ごめんね」

 彼女の声が、意識のはじかすむ。

 何もかも理解が追いつかない、追いつきたくない。

 ただ苦しい、ただただ苦しい。胸が痛い、ぼうとする、寒気さむけがする、怖気おぞけが走る、力が抜ける。

 俺は、カンナを守れただろうか。何もできずにただ鳴くだけだった猫より、幾分マシな仕事ができただろうか。この身をていして彼女を守る事が出来たのなら、それだけが今の情けない自分を肯定こうていできる唯一の甘心かんしんだ。

 目の前の少女のまない嘔吐おうとに少しばかりきもを冷やしたのか、「ごめんね、ごめんね」と優しく謝ってくるその男に、俺は何を今更いまさら朦朧もうろうとした意識の中で、苛立ちと諦観ていかんぜにしたような感情を、男に向けた。

 未だえず嘔吐を重ねる俺の前で、男は一先ひとまずとばかりにいそいそと着衣ちゃくいを整え、そして優しくカンナを――……俺をでた。

 どんな気持ちでそんなことをするのかと、地面に広がる吐瀉物を涙でにじむ視界でながめながら、俺はゆっくりと男に向けて顔を上げた。


「……――」


 見上げた男の口元は。

 にやにやと、下劣げれつな笑みの形を、作っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カスミソウの一間 前日譚 花房 @HanaBusaxxx

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ