カスミソウの一間 前日譚

花房

少年の記憶

 一度だけ。

 一度だけ会ったことがある。


 名前も知らない少年。


 おばあちゃんの家に遊びに来ているときだった。

 何歳の頃だったのかは覚えていないけど、きっと幼稚園に入ったばかりの頃だったと思う。

 その頃の私は酷く痩せていて、背も低く、実際の年齢よりもうんと幼く見られるのが当たり前だった。今日みたいに、おばあちゃんの家に親戚の誰かが遊びに来ていると「寛菜ちゃんは骨と皮しかないねぇ」とよく笑われたものだ。

 食べることに全く関心を示さない私に呆れたのか、お母さんも次第に私の食べるご飯を用意しなくなっていき、私はますます、食事に興味を示さなくなっていった。


 その日、確か夏の暑い盛りの事だった。

 お母さんと一緒におばあちゃんの家に遊びに来ていた私は、いつもの通りにおばあちゃんの家の中で涼しい冷房の風を浴びながら一人遊びに耽っていた。

 そんな中ふと、玄関先から賑やかな挨拶の声が響き、幼い私の神経質な聴覚を刺激する。

 私はその陽気な雰囲気を醸す声の主が気になり、遊んでいたぬいぐるみをその場に置いて、玄関先に足音を忍ばせながら、そろそろと様子を見に行く事にした。いつもなら、知らないおじさんやおばさんばかりが遊びに来るおばあちゃんの家。またそういう誰かが遊びに来たのだろうと予想していた私だったが、どういう訳かその日はいつもと様子が違った。

 まず視界に映ったのは、開け放たれた扉の向こう側で、コントラストの強い日差しの下から、陽気な笑い声を携え玄関先の敷居を跨ぐおばさんが一人。「あら寛菜ちゃん、遊びに来てたの」と、おばさんは私の姿を見止めると、そのまま夏の日差しをお土産に変えてきてくれたかのような満面の笑みで私にそう言った。人好きのするような、裏表を感じさせない明るい笑顔だった。

 ここまではいつも通り。いつもと違うのは、その傍らだ。私はおばさんの横に、おばさんの胸ほどの背丈しかない小さな人影が、大人しくその場にじっと立ったまま、周囲の大人たちに窺うような視線を送っているのを見つける。


 ……知らないおばさんと一緒に、知らない男の子が、おばあちゃんの家にやって来ていたのだ。


 私は驚いた。同い年の子供と遊ぶ機会の少ない私は、初めて間近で接する自分より年上の『少年』という生き物に、困惑を示す他なかった。

 こんな子は知らない、私には関係ない。……私は私で遊んでいよう。

 決まれば行動は早く、私は少年から逃げる為に別の部屋に迷いのない足取りで移動し、再び部屋の隅に身を縮こまらせては、置いておいたぬいぐるみを大事に拾い上げ、一人でぬいぐるみ遊びに没頭するふりに勤しんだ。

 が、事はそう幼い子供が考えるように上手くは運ばない。

 さっきまで玄関先に居たおばさんが家の中に上がってきたようで、おばあちゃんと何事かを話す声が壁を一枚隔てた向こう側の廊下から聞こえてくる。私は、光があまり差し込まない薄暗い部屋の隅っこで、小さくなりながらその音が居間に向けて遠ざかっていくのを全身の神経を鼓膜に置き換えるようにして聴いていた。すると、遠ざかっていく足音と同時に今まで聞いたことのない軽い足音が逆にこちらに向かってきている事に気がついた。

 私は近づいてくる人の気配に身を硬くし、咄嗟になんの行動も起こせないまま思考を真っ白に塗り潰しては、着ていた誰かのお下がりの赤いワンピースの裾をきゅっと掴んだ。


「ねえ」


 後ろから、鈍く声が響く。少女が発するには幾分低く、かといって男性が発するには重さの足りない、この年頃の少年しか出すことができない独特の音。それは私が初めて間近で聞く『少年』という生き物の声だった。

 少年は、壁に身体を向けたまま一切目を合わせようとしない私に臆せず近付き、その傍らにすっと腰を落とした。

 私は少年の無垢な距離感に猶更緊張し、ますます少年の顔を見る事が出来なくなってしまった。

「何してるの?」

 少年は、愛想の一つも見せられない私に対して、優しく尋ねてくれる。

 少し変な話になるが、私はそこで生まれて初めて『人に気を遣われる』という経験をしたように思う。こんな優しい声の掛け方をする人間は、まだ五年も生きていない私の微小ながらも個々の色彩の強い日々の記憶を遡ってみても、目の前の少年のほか、思い当たる顔に行き着くことが出来なかった。

 故に、私はこの『少年』の取る言動に対して判断材料を欠いてしまっていることから、『少年』という生き物について理解を示す事ができず、元々緊張に緊張を重ねていたものが輪をかけて悪化し、能面のような顔の下で混乱の極みに溺れるという奇妙な状況に置かれることとなった。

 頻回する瞬きにコンマ一秒連続的に視界を暗転させながら、無言のままおずおずと少年の方に視線を向ける。

 少年は私と違って過度に気負う様子もなく、なんのこともなくその場で膝を立てて座っていた。半ズボンから覗く膝は、やけに骨張っていて細い。

 こんな足は知らない。こんな人間、私は知らない。さっきの態度といい、私の真横に腰を落ち着ける少年という生物は、全てが未知で構成されていた。

「お人形遊び?」

 こんな可愛げのない子供と一緒に居たところで彼もつまらないだろうに、少年は尚も私に話しかけ続ける。

 少年の言葉を受け、私ははっと、自分がぬいぐるみを持ったままだった事に気付いた。

 普通の人であれば私のすることを見てぬいぐるみで遊んでいると一目瞭然なのだろうが、それまでの人生に於いてわざわざ私に声をかけてくれる人が周囲にいなかった為、他人がどこまで私の事を目で見て理解できるのかがわからなかったのだ。その為、「何故お人形遊びをしていたと当てられたのかわからない」という若干妙な思考に陥ることになってしまう。つくづく私は、この頃から人とずれていたのだ。

 怖かった。私は無言で頷く。人は圧倒的に知識外の出来事ばかりが目の前に現れると、恐怖する以外に思うことが無くなるものなのだろうな、と思った。

 異様な程に怯えきったままの私だったが、それでも少年は私に関心を注ぎ続けてくれているらしく、また優しい言葉を投げかける為に、熱心に話題の種を探しているように思えた。

 一方の私は相変わらず少年の顔すら見る事ができず、惜しい事にそのせいで私は少年の顔を一切覚えることが出来なかった。

「そっか、楽しい?」

 少年は屈託なく続ける。

 ぬいぐるみの目が、影の下から泥のように私を見つめていた。何か良くないことを訴えかけているようにも感じられたが、生憎私はぬいぐるみの思う事を察する事はできない。

 実を言うと、このぬいぐるみは道端に落ちていたのを拾ってきたものだ。ぬいぐるみの類いを買ってもらえなかった私は、興味本位でアスファルトの片隅で土や砂をかぶって寂しく雨風に晒されていたぬいぐるみに手を伸ばした。少女のような遊びをしてみたかった、動機はそれだけだ。

 楽しいか、という問いかけに対し、私は少年に「普通」とだけ答えた。

 嘘を吐く、という行為を当時の私は知らなかった。楽しくないわけではないが、別にこれといって特別楽しいわけでもない。私はただ少女のように振る舞ってみたかっただけだ。それが楽しいかと問われれば、存外そうでもない。今の私の気持ちを表す言葉を、私の少ない語彙で簡潔に表すにはどうすればいいか。一番身近でよく使い、比較的現状に即した表現といえば、これだった。


 だから、普通。


 少年は明らかに困惑している様子だった。

 変なことを言ってしまったかな、と私は言ったそばから不安になり、同時にこれで愛想を尽かして私から離れてくれることを期待した。私の感性や考え方は人とずれている。その差を感じて相手が怪訝な顔を作るのが怖くて、だから余計に、私は独りになろうとするのだ。

 しかし、少年はその場から動かなかった。


「そっか。じゃあさ、俺と一緒に遊ぼう」


 私は、白い頭の中をさらに真っ白に染め上げる。こうなればもう、まるで雲の中に居るようだ。一緒に遊ぼうだなんてそんな、人から遊びに誘われたことすら恐らくこれが初めてだというのに。この人は、まさか私と同じ目線に立って寄り添おうとしてくれているのだろうか。


 私は『少年』に恐れを抱くと共に、この出来事は区分のできない強烈な思い出として、私の心に今この時を以て深く根付いたように思う。

 頭の天辺から爪先までの全身を強張らせながら、私は恐る恐る勇気を振り絞り、少年の口元を、一瞬だけ視界に入れた。


 ――少年は、曖昧に優しく、微笑んでいた。



 私の中の数少ない温かな記憶は、その後次第に陰鬱な日々に埋もれていく。やがて思い出すことも出来ないほど深い汚泥の底に沈み、そんな事があったということすら忘れ去られていくのだ。

 しかし、記憶は残り続けていた。

 手の届かない場所に沈んだだけで、消えた訳ではなかったのだ。


 私自身が忘れ去り、あたかも無かった事のように扱われた水底深くの記憶は、この十数年後、一匹の黒猫が偶然にも拾い上げる。


 当時、私と一緒に遊んでくれた少年が、男だからという理由で実の親から惨い扱いを受けていたと知ったのは、このさらに数年後の話だ。

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