死ねない彼女は消防士

トポ

短編

 俺の呪われた青春はラッキースケベから始まる。

 バレーボール部が使うシャワー室は男女共同で、時間差で別けている。月水金は女子が先に浴び、それ以外の日は男子、と代わりばんこに。部活の間はシャワー室はもちろん空だ。だから夏の暑い日に、俺は生徒会の仕事を片付ける合間、時々こっそりバレー部のシャワーを拝借する。生徒会長としてあるまじき行為なのかもしれないが、汗べっとりのまま机に向かっているのも人としてあるまじき行為だと思うし、俺は下校後は直接塾に行く。満員電車に乗る前に汗ぐらいは落としておきたい。

 それに、その日は木曜日だったので、下手しても入ってくるのは男子だと油断していた。まさか先客がいるとは夢にも思わず、腰にタオルを巻いただけの俺は鼻歌を歌いながらシャワー室のドアを押し開けた。

 打ちつける冷水に縮み上がった肌色の曲線が目に飛び込んでくる。彼女は気持ちよさそうにちょうど両手を天井に向けて伸ばしていたので、その全裸姿は一瞬の内に俺の脳裏に焼きついた。乳首の色からヒップの形までなにもかも。俺は尻もちをついてしまい、あわわ、と自分でも意味不明なことを口走る。

 彼女は俺の方に視線を向ける。痴漢っ! と絶叫され、俺の儚い生徒会長人生が終わると身構えた。しかし彼女は恥ずかしそうにもせず、人差し指を唇に当てる。

「叫ばないでね。あたしバレー部じゃないから」

 俺は震えながら彼女を指差す。「……ひ、ひっ」

「なに?」彼女は首を斜めにする。

 そして俺は――ああ、神さま、俺はどうしてこれほどまで馬鹿なのでしょう――俺は彼女の胸あたりを指で示しながら「ひ、ひ、貧乳!」と叫んでしまった。

 彼女はカッと赤くなり、足元に置いたシャンプーのボトルを蹴った。

 今でも俺は、あの時の鼻血がボトルを思いっきり顔面に食らったためなのか、彼女の裸体がエロすぎたためだったのかわからない。わかるのはただ一つ。俺は彼女、夜桜よざくら純恋すみれに一目惚れしてしまった。


 校門付近の塀に寄りかかって、スマホでユーチューブを見ながら時間を潰す。俺の生徒会長として、きっとまた趣味はパルクール動画の鑑賞だった。それも違法で超高層ビルを道具なしで登ったり、屋上から屋上へと飛び移りながら走る、過激なやつの。今ご贔屓なのはヴィクセンと名乗っている、多分日本人のランナー。画像は殆ど頭につけたアクション・カムだけで、時々顔を出しても狐のお面を被っているから確かなことは言えないが、出身がどの国であるにせよ、彼のスタントはどれも狂気の沙汰だ。

『今日は目隠しして建設中のビルのフレームを走ります。三百五十メートルぐらいの高さですから、落ちたら死にます』

 イントロのテロップが流れ、画像に現れたヴィクセンは目隠しが本物だと証明するようにカメラのレンズを黒い布で覆う。背景には幅が二十センチ程度の鋼鉄フレームと、東京のビル景色が見える。風も強そうだ。

「マジかよ」と俺は息を呑む。

 生まれつき運動神経には恵まれず、高所恐怖症でもある俺には到底無理な芸当で、もしかしたらだからこそ憧れてしまう。一歩踏み外せば死ぬ、危なっかしい足場を爽快に走ることにこの上ない自由を感じる。

 ヴィクセンはお面の上から袋のような黒い布をすっぽり被り、アクション・カムを頭につけて走り出す。目隠ししながら、足場に対して垂直になったフレームを軽々よけて、まだフレームが完成していない部分は設置されたクレーンのワイヤーに飛びつき乗り越える。見ているだけで、こっちの手のひらに汗が滲んでしまう。

「――あっ、夜桜さん」

 初、そして多分これっきりのラッキースケベの相手が校門から出てきて、俺は慌ててスマホをポケットにしまう。

「確か……生徒会長でしたね」夜桜は俺を見てため息をつく。

「は、はい。神崎かんざき愼吾しんごです」

「で、会長。あたしになんかようですかー?」

 明らかに夜桜は面倒くさそうだ。裸を見られた後なのだから、俺を毛嫌いしていないだけ幸運なのかもしれないが。

「さ、さっきのことでお詫びしようと思って――」

「それなら別にいいですよ」夜桜は俺を遮る。「会長は本当のことを言っただけですし、事実だけを口にした会長のことを逆恨みして、『キモいから早く刺されて』なんて思うほど器の小さい女じゃありませんから」

 やっぱり覗かれたことより、脳みそが空振りした俺が貧乳と叫んだことの方を怒っている。これって女の子として普通なのかな、と不思議に思う。俺が夜桜の立場だったら――貧乳という言葉を男性に当てはまるように置き換えて、俺は納得する。うん、シャワー中に突然入ってきた女子が俺の下半身を指差して「ち、ち、小さいっ」と叫べば、俺だって腹を立てる。

「悪かった。邪魔するつもりも、あんな馬鹿なことを言うつもりもなかったんだ」夜桜に頭を下げる。

 しかし彼女は困ったように肩を竦め、「ホント、あんまり怒ってませんから。これでいいですね」と俺の横を通ろうとする。

「少なくとも奢らせてくれ。そうしないと俺の気がすまない」

「奢りなんていらないですよ。借りを作っちゃうじゃないですか。自分が欲しいものは自分で払います。それに会長は今日は塾なんですよね?」

 なぜ知っているんだ、と俺が驚くのを見計らって夜桜は俺の腕の下をすり抜ける。

「待てよ」夜桜の手を掴む。

「離してください」

 睨みつける夜桜の瞳を見つめ返す。「あの傷跡……虐待されているのか? 借りなんていらない。同じ学年の生徒として、俺は君の力になりたい」


 華奢な女子の手足があれほど無数の切り傷や、タバコを押しつけたような火傷を耐えられるとは思っていなかった。いや、俺はもちろん、あんな拷問を受ければ殆どの男だって精神的に壊れてしまうだろう。

 脳裏に焼きついた夜桜の裸体は光と闇が溢れていた。胸の大きさはともかく、スポーツで鍛え抜いたような、薄い筋肉に包まれた体と、日にちを数える囚人が刻み込んだような手足の細かな傷跡。首もロープで絞められたのか、蛇の鱗のように赤く腫れ上がっていた。しかし恐らく誰も夜桜の傷跡のことを知らない。彼女は今は夏だというのに長袖のブラウスを一番上のボタンまで留めて手足と首を隠している。また、考えてみると、スポーツ万能そうなのに病気という理由で体育の授業に出ていない女子がいる、と噂で聞いていた。多分、夜桜のことだ。

 自分勝手な使命感かもしれないが、俺は夜桜のことを放っておけないと思った。

「会長って面倒見がいい人ですねえ」夜桜は皮肉っぽく言う。「あんたに関係ないって言ったらどうします?」

「……俺の電話番号を押しつける。なにかあったら夜の三時でもいいから電話しろって言う。パジャマ姿で駆けつけるぜってかっこつける」

 はあ、と夜桜は脱力したかのように額を押さえる。「会長の諦めの悪さ、ナンパ師も顔負けですよ」

「俺に今できることがあったらそれをしたい」

「……言っておきますけど、あたし虐待されてませんから。でも、それだけ言っても会長には通じませんよね。あー、めんどくせー」夜桜は天を仰ぐ。「じゃあ歩きながら話しましょう」

「歩くってどこに?」

「自宅に。って、まさか会長知りませんでした? あたしたち同じマンションに住んでるんですよ」


 夜桜の隣を歩くだけでドキドキしてしまう。一見地味のようなのに、近くからだと、色んな細部に気づき惹かれてしまう。ボーイッシュなショートヘアはよく似合っているし、目つきは、悪いと可愛いの中間ぐらいで、夜桜の視線が俺に向けられるたびに心臓が飛び上がる。

 手足と首の跡は虐待ではなく、自傷だと夜桜は説明する。「リストカットって言えばわかりますよね」

 サイレンのけたたましい音がして、俺たちは同時に耳を押さえる。道を開けた自動車の間を消防車が走り抜ける。

「タバコとロープの跡も?」

「はーい、そうです」

「タバコ吸ってるのか?」会長の肩書だけあって、俺は声を少し荒らげる。

「吸ってません。手足に押しつけるためだけに買ってます」

「リストカットとかはなぜ?」

 夜桜は首を後ろにストレッチする。「好きだから。悪いですか?」

 かなり迷った挙句、「いいや」と答える。「夜桜さんが自分の体をどうこうしろとは言いたくない」

 ふと夜桜は立ち止まり、複雑な表情で俺を見つめる。「いいんですか、会長としてそんなこと言っちゃって。普通は『精神科医に行け』とか言いますよ」

「夜桜さんが助言して欲しいって言ってたら、そんなことを言ったかもしれない。でも今は俺が強引に迫ったわけだから」

「……面白い人ですね、会長って」

 夜桜は笑い、俺の胸がうずく。

 俺たちが住むマンションの近くまで来ていた。ビルの間から見える空が夕焼けに染まっている。あたりに焦げているような臭いが充満している。どこからこの臭いは漂ってくるのだろう?

「なあ、どうしてバレー部でこっそりシャワーなんて浴びていたんだ?」

「会長こそどうして?」

「汗臭いのが嫌いだから」

「あたしも同じ理由です。ずっと長袖だから」

 ふーん、と頷いた瞬間――

 爆発音が轟く。それに続いて窓ガラスが粉砕され、炎が燃え上がる音。

「あっ、あそこ!」

 夜桜が指差す方向を慌てて見る。マンションの上階が火に包まれている。俺たちが住む建物ではない。また消防車が二台俺たちの横を通り過ぎる。

「か、火事?」

 俺が当たり前のことを言い終わる前に夜桜は燃えるマンション目掛けて駆け出していた。えっ、と慌てて彼女の後を追う。だが、夜桜の方が断然足が速い。すぐに彼女のことを見失ってしまう。


 息を切らしてマンションの前に辿り着くと、二人の消防士が暴れる女性を取り押さえている。嫌な予感がする。聞きたくない、と思う。しかし彼女の叫び声は俺の耳に届く。

「む、息子があああああ! 息子がまだ中にいいいいい! は、離せ! 離せえええええ!」

「奥さんダメです! は、はしご車で助け出しますから」消防士の一人が彼女を落ち着かせているが、彼女は殴り、唾を吐き、消防士たちから必死に逃れようとしている。

 携帯が震え、俺は夜桜からかもしれないと思ってスクリーンを見るが、ヴィクセンがライブ配信を始めるというユーチューブの通知だった。

「こんな時に」と悪態をつく。「って、夜桜はまだ俺の番号知らないんだった」

 また現場の方を向くと、隊員を二人乗せたはしご車のカゴが上昇している。カゴは上階のベランダ前で停止し、消防士が建物に乗り込もうとする。しかしそれと同時に割れた窓から炎が吹き出す。無理だ、と俺は思う。たとえ防火服を着ていても中に入れないほどマンションは燃え上がっている。残った子供を救い出すのは無理だ。

「あっ、あの女子高生は? な、なにしてるんだっ!」

 狐の面をつけ、俺の高校の制服を着た女子がはしごを登っている。

「――まさか、あいつ」と俺は呟く。

 ヴィクセン――いや、夜桜――いや、両方。二人が同一人物だということが衝撃的すぎてしっくりこない。確かにヴィクセンが男だという決定的な証拠はなかった。パルクールのランナーは男ばかりなのでヴィクセンもそうだと思っていただけだ。しかしまさか同じ学年の夜桜がヴィクセンだったんだなんて。

 素早くはしごをカゴまで登りつめた夜桜は唖然とする消防士たちの間を通り抜け、火炎に包まれたマンションに飛び込む。

 俺は慌ててヴィクセンのライブ配信を開く。炎が荒れ狂う部屋の中をアクション・カムが走る。夜桜は「やっほー、助けにきたよー」と砕けた声を上げながらドアを蹴り開け子供を探す。しかし夜桜が乗り込んだマンションの一室に子供の姿はどこにもない。

「おい、あの女子高生ユーチューブで中継してるぞ! ヴィクセンってチャンネルだ」と野次馬たちの間から声が上がる。

 玄関のドアを開け、夜桜は廊下に出る。瞬間、火柱が彼女の隣に上がる。アクション・カムは一回転する。夜桜はとっさに身を翻して火炎をけたのだ。恐ろしい反射神経だ。すぐに夜桜は立ち上がり、廊下を突き抜け、角を曲がる。

 そして――

 五歳ほどの少年が遠くでぐったりとしている。しかし、夜桜と彼の間の床は燃え尽きてしまっている。五メートル、いや、七メートルぐらいはある穴が二人を隔てる。しかも、少年の反対側の床も階下に落ちてしまっている。

「む、無理だ……も、戻ってこい」

 夜桜はスピードを落とさず廊下の狭間に走り込む。俺は手に汗を握る。穴の間一髪前で夜桜は飛躍し、壁を垂直に数回蹴り、少年が倒れた場所に転がり着地する。その勢いを保ったまま夜桜は少年を抱き込む。火の粉が弾ける音がして二人を支える床も落ちる。夜桜はその一瞬の内に体制を直し、階下のフロアに飛び移る。

「嘘だろ」

 少年を抱きかかえ立ち上がる夜桜。廊下の終わりに取りつけられた窓がカメラに映る。ためらうことなく夜桜は窓目掛けて走り出す。煙幕が行く手を阻む。だが夜桜は気にせず煙幕の中に飛び込み、窓ガラスを破る。煌めくガラスの破片と一緒に夜桜は落下する。

 俺だけではなく、現場に居合わせた全員が一瞬息を止めたような気がする。

 次の瞬間、夜桜はガラス張りの天井に衝突する。そのガラスも突き抜け、夜桜は下に広がるプールに落ち、水に飲み込まれる。アクション・カムのレンズは小さな泡で覆われる。

「し、死んでないよな」と俺が呟くと、画像が激しく揺れ、夜桜は頭を水面から突き出す。

 プールの縁まで泳ぎ、夜桜は少年を引き上げる。アクション・カムが不自然に横に向けられる。夜桜が少年の胸に耳を押し当てているのだ。

「ふう、ちゃんと生きてますよー。では私はこれで。次回をお楽しみに」

 ――プツン、とライブ中継が遮断される。

 しばらくの間、現場の人々はみな無言で立ち尽くしていた。

「……や、やったのか」とやがて一人が言い、もう一人が「や、やったぜ」と言う。

 まるでそれが合図だったかのように拍手が沸き起こる。少年の母親はおいおいと泣き始め、さっきまで彼女を押さえつけていた消防士たちは「よかった、よかった」と手を合わせる。

「ヴィクセンやりました! ヴィクセン、見事少年を燃えるマンションから救い出しました」いつの間にか現れたニュース・キャスターがテレビ・カメラに向かって報告している。「神業です! 奇跡です! パルクールで知られるユーチューバー、ヴィクセン、消防隊員が入れなかった火事現場に乗り込み、無事少年を救出しました!」

 俺は道端に座り込み、未だに心拍数が二百ぐらいあってもおかしくない左胸を押さえた。


 次の日、夜桜は学校には来なかった。それが正しかったと思う。学校の前はマスコミで殺到していたから。

 俺はその日も塾を休み、真っ直ぐ住むマンションに戻った。エントランスで夜桜の表札を探す。

 呼び鈴を押すと、「どうせ会長でしょ? かしこまったことしないで上がってきていいよ」と夜桜が出て、俺が答えられる前にインターホンを切ってしまう。

 昨日始めて話した男子をこう容易く家に入れてもいいのか、とは思ったが、文句は言うまい。正直、夜桜の部屋を見れるかも、と十分ほどマンションの前でガッツポーズをしていた。

「遅かったね」と夕方なのに寝間着姿の夜桜がドアを開ける。「まさか女子の部屋を見れるかもって欲情しちゃってたの?」

「……悪いかよ」と返すと、夜桜は目を丸くして笑う。

 夜桜の一角は間取りは俺が両親と住む部屋と同じでも、ガランとしていた。いや、ガランを通り越して家具が一切ない。居間の中央にシーツもついていないマットレスが置かれ、その脇に散らばるノートパソコンやお菓子の袋。マットレスの上には天井から首を吊るためのようなロープが垂れ下がっている。部屋の唯一のデコレーションは夜桜のひねくれた性格をよく表しているな、と思う。

「両親と一緒に住んでいるんじゃなかったのかよ?」

「パパは国境なき医師団でシリア、ママは人種差別を専門にした弁護士をアメリカでやってる」

「そうか。まったく、立派なのか立派じゃないのかわからないな」

 夜桜は両肩を押し上げる。「仕送りは毎月もらっているよ。で、会長、あたしにまたなんのよう?」

 俺は唾を飲み込み、神妙な顔で夜桜を見る。

「まー、多分昨日のことだと――」彼女はショートヘアの間に指を通している。

「夜桜純恋さん」昨日練習したように頭を下げる。しかし動作がやはりブリキのロボットのようにカクカクしてしまう。「俺と付き合ってください」

「へっ」夜桜は文字通り飛び上がる。

 顔を上げると彼女は耳まで真っ赤になっている。初めて毒舌と皮肉の下に隠れた彼女の素顔を見ることができたような気がする。

「最初見た時惚れたっ!」夜桜が赤面して自信がついたためか、俺は馬鹿みたいに喋り捲る。「ああ、シャワーの一件のことだよ。あれで惚れた。悪いかよ? でも実はヴィクセンには前から憧れていた。それで、夜桜が少年を救出するのを見て、運命の人だと思った。夜桜と初めて話してから一日も経っていないのにそう思った。恋は盲目ってやつかもしれん。だが俺にはそんなことは関係ない。夜桜――」俺の声は早くも掠れてしまっている。「おまえのことがたまらなく好きだ。昨日は一睡もできなかった。付き合ってくれ」

 夜桜の顔は湯気が出てきそうなほど赤い。でも多分俺も同じだ。

「……えーっと、あの、コーヒーあるかな? 昨日は寝ていないから立っているのもやっとなんだ」照れてしまい、俺はなぜか話題を変えようとする。

「おーきゃくさまにコーヒー、コーヒー」と夜桜は棒読みに呟き、部屋の隅に投げ出されたガスコンロに薬缶を置く。

 あれ? 彼女も随分参っちゃってる。ちょっと強気になる。てっきり「へー、リスカが会長の性癖だったんですかー、変態ですねえ」とか言われると思っていた。

「おーきゃくさまのコーヒー、ミルクと砂糖どーしますー?」

「え、えーっと、さ、砂糖でいいよ」

 向かい合って床に正座する。夜桜が淹れたコーヒーを飲んでみるが、かなり塩っぱいので、マグをまた下ろす。そうやって、俺たちは長い間、目を合わせないようにして座っていた。

「実は」といつもの口調が回復した夜桜が切り出す。「あたし、もうボーイ・フレンドがいるんです」

 目の前から全ての色が消滅する。俺はパッタリと横に倒れ、魂が抜かれてしまったかのように自分の手を見つめる。夜桜にはすでにボーイ・フレンドがいる。どうして俺はその可能性を考慮しなかったのだろうか? 夜桜はボッチの雰囲気を漂わせているが、顔は可愛いし、会話が弾む楽しい話し相手だ。こんな女子にボーイ・フレンドがいないわけがない――

「あっ、う、嘘! 今の嘘。 じょ、冗談」夜桜は慌てる。

「えっ? じょ、冗談?」

「う、うん。ボーイ・フレンドいない。ご、ごめん、こういうの慣れてなくてどう答えていいかわからなくて、い、いつもの毒舌が最初に出ちゃった」

 息を大きく吸い込み俺はまた正座する。「あれが毒舌の範囲に入るのなら、史上最悪の毒舌だと思う」

「ごめん」

 夜桜が謝ってから再び沈黙が訪れる。気まずい沈黙だった。採点されるテスト用紙が配られる時のような、落ちてもいいから早く結果を知りたい、という感じの。

「でも会長はあたしに告る前に、あることを知っておいた方がいいと思う」

 夜桜は体を床に倒し、マットレスの下を探る。そして黒く光る物体と小さな紙の箱を引き出し、ドンと俺たちの間に置く。

「……えっ」俺は目を見張る。

 床に置かれたのはリボルバーと銃弾が入った箱だった。

「これ、まさか本物? じゃないよね」

「本物」

 夜桜は済ました顔で弾丸を一発リボルバーに込め、シリンダーを回す。シャーッという音が殺風景のリビングに響く。

「なにする――」

 俺が止めることができる前に夜桜は銃口を口に入れる。一瞬の出来事だった。腰を浮かし、夜桜の方向に手を伸ばす。しかし遅すぎる。夜桜の親指がトリガーを引く。

 ――カチッ。

 夜桜の頭は吹き飛ばされていなかった。偶然弾倉は空。俺はへなへなと腰を下ろす。まさか六分の一の確率で死ぬロシアンルーレットを夜桜が目の前でやってのけるとは。彼女といると、こっちの心臓が先に止まってしまいそうだ。

「よ、夜桜が正気じゃないってのはわかった。そ、それでも――」

 夜桜は未だに銃口をくわえている。

 ――カチッ、カチッ、カチッ、カチッ。

 続けざまに夜桜は四回トリガーを引く。ぎゃっ、と俺は悲鳴を上げる。

「……大丈夫、あたしは死ねないから」夜桜はリボルバーを口から出し、発射されていない一発をシリンダーから抜き取る。「一発を込めた六連発のリボルバーで五回続けざまに撃った場合、シリンダーに銃弾が残る確率は0.14パーセント以下。もう一回同じことをやってもいいけど、結果は変わらないよ」

「……は、はあ?」

「あたしは死にたいの。死にたくて死にたくてしょうがない。でも死ねない。そのことを会長は知っておいてからあたしに告白した方がいいよ」

 俺の喉はからからに干上がっている。「ど、どういうことだ」

「数年前、あたしは死にたくて東京湾に身投げしたんだ。一回はちゃんと死ねたんだと思う。三途の川で渡し船にも乗ったから。でも、渡し守に皮肉を言い過ぎたのか、あいつ、途中で怒っちゃって、反対の方向に漕ぎ出した。次気がつくと、あたしは海岸で海水吐いていた」夜桜は涙を浮かべている。「それからなにをやっても自殺はできなくなった。ビルの屋上で一輪車に乗っても落ちないし、ロシアンルーレットは何回やっても外れだし、最後にシリンダーに残った当たりの弾丸を撃とうとしても指が言うことを聞かない」

 話し終わった夜桜の頬は一筋の涙で濡れていた。

 覗かれたことより貧乳と言われたことの方を怒り、面倒くさいと言いながらも俺と接してくれて、実はパルクール・ランナーで、燃えるマンションから子供を助け出した夜桜が死ぬことを願っているというのは、俺の固定概念というか、世界観を乱すようで、当初理解するのが難しかった。もしかしたら俺は、自殺志願とは発作的のようなもので、一時ひとときの精神の狂いを耐えれば、消えてなくなるものだと幼稚に考えていたのかもしれない。また、鬱病であるのなら、寝たきりにのようになにもできなくなる、という先入観もあった。夜桜のように、取り巻く空気は暗くても、実際は活発な人が自殺したいと思っていることを受け入れるまで長くかかった。

「俺は――」

「会長、一夜考えて、それでもよかったらもう一度告白して。明日は学校に行くから」夜桜は立ち上がり、ベッドの上に吊るされたロープにピョンと飛びつく。「あたしは疲れたから寝る」

「またなにをするつもりなんだ?」

 夜桜は輪になったロープに首を入れ、そのまま手を離す。うっ、と喉を絞めつけられた夜桜は呻く。

「この……方が……寝付くの……早いし……悪夢……少ない」

 顔が紫に変色した夜桜は気を失い、ズルッと自然にロープから滑り落ち、ベッドに倒れ込む。

 俺は夜桜が息をしているかどうか調べてみたが、やれやれ、死ねないというのは本当であるらしい。まだちゃんと呼吸もしていたし、脈も正常だった。だが男子の前でわざと気を失うというのは無謀というか、全く恐怖心がない。俺を信用しているのか、どうなのか、判断しかねる。

 掛け布団を探したが、部屋にはなにもないので、俺は自宅から毛布を持ってきて、すやすやと寝息を立てる夜桜にかけてやった。


 次の朝、夜桜は俺のことをマンションの前で待っていた。

「で、会長はどうするの?」おはようも言わずに夜桜は訊いてくる。

「……俺は夜桜と付き合いたい。いくら考えても――昨日は寝不足で机に向かったまま寝落ちしちまったが――やっぱり夜桜のことが好きだ」

「ふーん、そうなの」夜桜は冷笑を浮かべる。

 どうせまた、夜桜の本当の答えがどうあろうと、最初は「でもあたしは会長と付き合いたくない」って返ってくるんだろう、と身体を強張らせていた。

 しかし、つま先立ちした夜桜は俺のほっぺたにキスをした。

「実はね」夜桜は嬉しそうに言う。「三途の川の渡し守が言ってたことなんだけど、あたしが本当の恋をすると、この呪いも解けるんだって。だから会長、頑張ってあたしを溺れさせてよ」


 ――八年後。

 俺と純恋が交際を始めてから、なにか進展があったか、と訊かれても、あまり答えることがない。

 まあ、純恋の名前が夜桜純恋から神埼純恋になったというのが一つ。もう一つは、彼女にドバイの超高層ビルの屋上に無理やり連れて行かれ、プロポーズされた時、俺は結婚する代わりに面白半分にロシアンルーレットをやるのはやめてくれ、と条件をつけたため、少なくともリボルバーはもう一緒に寝るベッドの下にはないということ。

 俺は一歳になる娘の子守をしながら趣味で小説を書いている。防衛大を出た純恋は、自衛隊に入っても死ねるシチュエーションが少ない、とか言って、消防隊に入った。それも毎日死ぬような仕事じゃないだろって指摘すると、純恋は「そうだけど、自衛隊で海外に派遣されたら愼吾と離れ離れになっちゃうじゃん」と答え、俺はニヤけてしまった。

 純恋は未だにヴィクセンの名でユーチューブを続けていて、主にその配当金で俺たち二人は食べている。いずれは俺も小説家デビューして、家計を支えたいが、それまでは良く言えばステイホームパパ、悪く言えばヒモだ。

 ベランダの手すりで毎朝の逆立ち腕立て伏せをやった純恋が部屋に入ってくる。

「愼吾、なに書いてるのー」と俺の膝に座る。

「貧乳の女子が燃えるマンションから少年を救出する話」

 純恋は頬を膨らませる。「貧乳ってのが余計」

「そこが一番大切な部分なんだよ」と俺は笑う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

死ねない彼女は消防士 トポ @FakeTopology

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ