第110話 伯爵夫人と気付け薬
朝の光が差し込む執務室の中、シャールは静かに私の話を聞き続けていた。
「……というわけよ。師匠のフィーニスは私の親のようなものなの。名前だってつけ直してくれた」
「親にもらった名前を変えてよかったのか?」
「ええ、いいのよ。私の村で一番初めに生まれた女児はアンという名前をつけられることが多いの。あの地方の古い言葉で『長女』っていう意味だから、両親も特に意味なくつけたんだと思うわ。村にアンは十人以上いたし……」
「それは、なかなかの数だな」
「だから、私は師匠がつけてくれた、私だけの名前が気に入っているの」
私は当時を思い出しながら、懐かしい気持ちに包まれた。
ずっと昔の、大事な時間。
自分を形作ったかけがえのない生活を、今でも私は大切に思っている。
「人の子の育て方はわからないって言いながらも、師匠は師匠なりに私を可愛いがってくれたと感じてる。女児が喜びそうなものを街の人に聞いて、ファンシーな持ち物を買ってきてくれたりね」
「……ファンシー……か……」
冷めてしまった珈琲を口に含み、顔をしかめたシャールは、そのまま何かに気づいたように室内を見回す。
私も同じように部屋の中を観察した。
苺柄の机にリボン柄のクッション。シャールの執務室には他にも可愛いものがたくさん溢れている。
「そうね。フィーニスは、この部屋にあるような可愛いものをたくさん選んでくれたわ」
「……やはりか」
シャールはやや呆れた顔で私に視線を移す。
「お前の趣味の起源がわかった」
「どういう意味よ」
しかし、彼はそれには応えず、感慨深そうに頷く。
「アウローラの時でもお前はお前なのだな」
どこか吹っ切れたように微笑むシャールを私は不審の眼差しで見る。
よくわからないが、彼の中で何か腑に落ちることがあったようだ。
「ラム、先ほども伝えたが……お前の前世がアウローラであっても、私のお前への気持ちは変わらない」
「そ、そう」
「私はお前を気に入っているし手放す気もない。離婚もしない」
「ふぅん?」
そんな風に言われると照れてしまう。
「アウローラは長年私の憧れで、尊敬すべき魔法の使い手だった。だが、私はお前のことも尊敬している」
シャールがさらに距離を詰めてくる。
ほのかによからぬ気配を察知した私は、そそっと椅子から立ち上がり後退した。
「コレクションを集めるよりも、今はお前を構いたい」
「……はあ」
「言っておくが、お前がアウローラだからという理由からではない。私はもともと、無事に戻れたらお前を愛でると決めていたのだ」
「め、愛でる?」
シャールはこくりと頷くと、至極真面目な顔で近づいてきて……正面から私を抱きしめた。
「ぴっ……!?」
何が起きたか咄嗟に理解できず頭が真っ白になる。
異性に免疫のない私は、このまま意識を飛ばしてしまいそうだ。しかし……。
「こら、気絶するんじゃない」
「ひゃっ!?」
淡々としたシャールの声と共に、何かが口に放り込まれる。それは……。
「苦っが~い!!」
恐ろしくえぐみのある苦い物体だった。気絶したくてもできない、刺激の強すぎる味である。
しかも一瞬で口の中で溶け、えもいわれぬ味が舌全体に広がる。
「うぐぅっ、シャール! なにをっ、食べさせたのっ!?」
涙目になりながら文句を言うと、シャールはにやりと意地の悪い笑いを浮かべた。
「バルが作った気付け薬だな。お前のレシピを元にしたそうだ。お前の味覚は常人とは異なるので心配したが、効いたようでなによりだ」
「私が作った気付け薬は、もっと爽やかな辛みがあったはず……」
「その辺りは改良されたのかもしれんな」
「酷い改悪だわ……」
苦情を言いつつ、私はふと気がついた。
(あら? シャールに抱きしめられているのに、私……意識がある!)
正確には意識を飛ばしたいができないという状態なのだが、それは今までにない変化だった。
「こういうのは、慣れだ。そのうちお前も、抱きしめられたくらいで毎回意識を飛ばさなくなるだろう」
だとしても、これは荒療治が過ぎる。
私は苦みに耐えながら、涙目でシャールに抗議した。
しかしシャールは意に介さず、それどころか片手で私の前髪を押し上げて額に口づけを落とす。
(きゃあああっ!)
私の頭はパニックを起こし、心臓はバクバクと今までになく激しく脈打っている。
顔面も耳も熱いし、行き場を失った両手は震えていた。
「どうした、ラム」
「なんで、あなたはそんなに余裕があるのよ」
「余裕などない」
「よく言うわ。涼しい顔をしているのに」
私なんて、恥ずかしくて恥ずかしくて、ドキドキしておかしくなりそうなのに。
(どうかしているわ、私。こんなに落ち着かない気持ちにさせられるのに、もっとシャールを罵ってやりたいのに。それがあんまり嫌ではないなんて……)
今だってずっと抱きしめられたままなのに、じっとしていることしかできない。
少し前から時折感じる気持ちに、また私は戸惑う。
(弟子たちにも抱きついたりされたけれど、相手の正体さえわかれば平気だった。それなのに、どうしてシャールの前でだけこんなことになってしまうの?)
シャールはまるで、こちらの心を見透かすかのような表情を浮かべている。
(なんか悔しいわ)
前世の年齢を合わせれば年上のはずの自分がまるで、とんだお子様のように思えてきて、ちょっと情けなくなる私だった。
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