第6話 犬にはTボーン、猫にはフィッシュボーン
歯医者って嫌いなひとが多いけど、わたしはそうでもないかな。
ただ、来たのは何年ぶりかな。
「ほら、ちゃんと書けよ」
わたしがバインダーに挟んだ初診質問事項を鉛筆で書いていると、多分この歯科医院の背面に続くキャバクラやホストクラブが連なるエリアから来たんだろう、
「俺行くぞ」
男の子が歯科医院の外へ出て行ってしまうと、女の子はしばらく紙の上の線上に眼球を往復させる動きをしていたけど、何かを決めたようにわたしの隣の席に立たずにすすす、と薄いお尻を滑らせて移ってきた。そしてわたしに訊いた。
「あの・・・・・左の奥歯、ってどう書けば・・・・」
「?そのままでいいんじゃないですか?」
「はい。そうなんです。そうなんですけど、どう書けば」
わたしはなんとなく予感はあったのだけど、断定はできなかったので、彼女が言う通りの発音のまま、『左の奥歯』と書いてあげた。
「あの・・・『痛い』ってどういう」
それから、こう訊かれた。
「これって、何て読むんですか?」
質問票の一番上、『氏名』っていう漢字だった。
彼女は外国人じゃない。
日本人の両親の間に生まれ、日本語を母国語として育ってきた、日本人。
文盲だった。
「名前、書ける?」
「・・・・・書けない」
おおともあき
お母さんからは大きいに友達に亜人に希望って教えられたそうだから書いてあげた。
大友亜希
「かわいい名前だね」
「ありがとう」
診療を待つ間のほんの数分間、ふたりで話した。
「アキは仕事は?」
「キャバ嬢」
「さっきの子は?」
「ホストのショウ。彼氏だけど」
「ショウ、怒ってたね」
「うん。いつも怒ってるよ。でもわたしが読み書きできないバカだから」
みんなよく思い出して欲しい。
字を書くことを小学校だけで習っただろうか?
アキは幼稚園に通っていない。
待機児童がどうこう言う以前にお金が無くて、お母さんもキャバ嬢でお腹ぺたんこ妊娠でずっと店に出ながら出産前後のほんの二週間ほどだけ店を休んで後は店の控室でアキを育てて。
今だったら幼稚園でひらがなぐらいは書けるようになってしまっているのが現実だろう。
だから親からも一度も文字を習ったことの無いアキはノートを真っ白にしたままで小学校六年間を過ごした。小学校は安い給食が食べられて、親にしたら昼間預かってもらえるという理由だけで意義があった。
アキのお母さんは義務教育でない幼稚園のことをこう言ったそうだ。
「余計なモン作りやがって」
人並み、っていう言葉のハードルは上がり続けてきたんだろう。
ハイハイできて。
掴まり立ちができて。
歩いて。
喋れるようになって。
絵を描いたり。
ひらがなや漢字を書いたり。
スポーツをやったり。
自由研究をやったり。
その内、絶対に報われる日の当たる努力のできる子がオリンピックに行って。
障害のある子の中でも報われる日の当たる努力のできる子がパラリンピックに行って。
そういったことを勉強でやる子が研究者になってノーベル賞を獲って。
その他の子は極限の努力をしない怠け者で『凡庸』な子で。
だから、キモかったり、暗かったり、頭が悪かったり、どんくさかったりする子が、気が付いたらいじめに遭ってて。
いじめに遭う子が、耐え難きを耐え忍び難きを忍んでいたとしても、誰も共感しない。
評価されない。
死ね、って言われる。
「シャムが羨ましい」
「そうかな・・・・・・」
「だって、字を読んだり書いたりできるし、かわいいし」
「アキだって。その髪型、なんて言うんだっけ。かわいいよ」
アキは横に垂らした金色に染めた髪を、細かく編んでいた。
「フィッシュボーン」
「あ、そっか。魚の骨みたいな形に見えるからか」
「わたし、フィッシュボーン自分で編んでるんだよ」
「アキ、すごいじゃない」
「ふふ。美容院行くお金もあんまり無いから」
ピンク色に見えたアキのソックスはよく見たら桜の花柄だった。
「大友さん」
「はい」
診療室に呼ばれて立ち上がるアキ。
背が高くて・・・・・・ちょっぴり猫背。
「シャム、またね」
「うん。アキ、またね」
またね。
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