第50話
字列を確認したヅヱノは、まず手を合わせた。ガキンッと手の平で鋼が打ち合わさり、彼は拝む姿勢を取った。大鎧姿では、二つの手刀を無理に重ね合わせたようにも見える。鎧武者の戦勝祈願とも、戦友への鎮魂の儀とも取れる仕草。そうして隔壁画面の向こうで果てた、単眼天使と操縦者に彼は暫時拝んだ。
しばらくして重ねていた手の平を外すと、ヅヱノは厳つい甲冑姿を脱力させた。脳からアドレナリンが抜けて、ダダ漏れだった凄気が消えた。座席に溶けていくように、その身体をもたれ掛けた。ヅヱノは勝利したというのに、面頬下の顔は晴れなかった。その目は、深淵のように淀んでいる。
「それにしても……シミュレーターで覚えた小技まで使う破目になるとは思わなかったな。決戦機関の直撃時間が足りなかった場合に備え、少し練習したが……決戦機関を時間一杯叩きつけても必要になるとは」
単眼天使は恐るべき強さだった。罠にかけて有利な状況を作っても、ヴェーダーを撃破する力を堅持した。正面から決戦機関を浴びせてさえ、機体を壊しながらも耐え切った。ヅヱノが土壇場であの技――『決戦機関の格納中に首を切り替えると、急速閉鎖が行なわれる』事を知っていなければ、やられていたのはヅヱノだった。ほとほと、綱渡りの勝利だ。
人質をとって、こちらに有利な戦いを強いる、唾棄すべき三下の戦いだ。だが最後の決戦を、ヅヱノは決して卑下はしない。決戦機関を正面から打ち破った単眼天使と、その豪傑を討ち取った一幕。死ぬ最期まで前に進んだ単眼天使の姿に、ヅヱノは尊崇の念すら抱いた。あの立ち合いだけは、ヅヱノとて卑しめられない。
「……いく、か」
その事実を噛み締めながら、ヅヱノは推力桿を前に倒した。普段なら絶対燃料の回収が始まっていた所だが、制御盤を弄って燃料収集を中止させた。いつもの様に自動で任せないのは、まだやるべき事があるからだ。
ヴェーダーと単眼天使の決戦で、抉れた谷間を進む。そして単眼天使が守ろうとしていた方向の、奥へと進んでいく。暫くは決戦機関に吸い込まれて、森が剥げて抉れた溝が続いていた。だが溝がなくなり、木々が剥げていない領域へと突入する。頭上を通り過ぎた天変地異にも無事だった森が、巨大な足で一歩ずつ破壊されていく。
単眼天使は倒した。だというのにヅヱノの推力桿を握る指は、落ち着かなさそうに動いている。かつつつん、かつつつん、と。小指から人差し指まで、神経質に波打っていた。彼の目は険しく歪み、今にも不平不満を漏らしそうだ。だが沈黙したまま、ヅヱノはヴェーダーを進ませた。
そうして歩いていると、ポツリポツリと森の終わりが見え始める。緑の絨毯の縁は、アスファルトの道で整えられていた。アスファルトの道を何本か横断すると、ヅヱノはゆっくりと推力桿を引き起こす。そして見えた物へと、ヅヱノは拡大釦を押した。
そこは、基地だった。『だった』というのは、過去形だからだ。今は朽ちた施設。恐らく戦争か、珪素生物の襲撃で滅んだ場所だ。どこもかしこも薄汚れていて、巨大な送受信機が空しく軋んでいた。ヅヱノも、只の廃墟としか思わなかったであろう。遥か手前で、脚を止めて警戒するべき物ではない。
だが探知画面には、夥しい数の逆三角が重なっている。一部は、『通り過ぎて』いた。視界内に人は見えず、大勢が隠れられるような場所は無い。つまりは見える場所には、地上に彼等はいないのだ。小鬼のギエムの時と同じく、地下にギエム達はいる。だがヅヱノは、その時の様に光線砲を使わなかった。
ヅヱノは慎重に、操首桿を傾けた。そして草が生えた土を、ショベルカーの様に咥えては退けていく。掘り進めると、土とは違う装甲板と衝突する。対珪素生物用の防空壕だ。そのまま解体重機の様に噛みついて、装甲板をベリベリと引き剥がした。
そうして開けた穴には、無数の怯える目が詰まっていた。老若男女、共通するのは見るからに戦闘能力が無い事だ。恐らくは、避難民だ。あの迎撃都市に住んでいたか、もっと遠くから逃げてきたのか。どうであれ彼等は民間人であり、そしてヅヱノがハリアーである以上やる事は一つだった。
「……ッ」
『砲郭:デススタービーム:状態:発射:残弾:00』
いつものように。当然の事として、ヅヱノは城塔釦を押し上げる。そして間髪いれずに、引金を引いた。緑光で壕内が満たされ、周囲の地面ごと爆発する。草原には地獄の穴が開き、ごうごうと燃え盛る劫火だけが踊る。その炎の中に、蒼蛞蝓達の姿がちらついて見えた。
「……まだ、いるな」
まだ探知画面に逆三角の集まりはある。今の一撃で、大半の逆三角は消滅した。だが奥に、僅かだが纏まった数の逆三角がある。反応があるのは、基地跡の方向だ。慎重に基地へと近づいていくと、ヅヱノは気付いた。設備は古めかしく見えるが、そう見えるだけだと。送受信機等の細部に、真新しい部材が頭を覗かせている。廃墟に見せかけた、実働基地なのだ。
これだけ厳重に掩蔽されている以上、重要度はかなりの物。要塞砲や人型戦車の激しい抵抗も、『後がない』というのが理由だったのなら説明がつく。ここが彼等の、この世界における人類の最後の砦なのかもしれない。そんな風に、ヅヱノは観察しながら考える。
すると錆び付いた扉の一つが、ひとりでに開いた。扉は見た目に反して滑らかに動き、中から室内灯の光が漏れる。そこから、一つの影が歩いてくる。影の正体は、少女だった。
全てを見通すような銀色の瞳と、同色の腰まで伸びた髪。
新雪を織って羽織ったような、陽光を煌びやかに反す巫女服。
まるで全てを映し出す魔法の鏡が、人の形をとったかのような少女だ。
どこか超然とした雰囲気で、本当に生きているかも怪しく感じる。
余りにも美貌が『完成』され過ぎていて、いっそ作り物めいていた。
壮麗な細工物を身に着けているが、その美しさすら少女自身には敵わない。
ひたりひたりと、少女は静かにヴェーダーへと歩いてくる。
足取りに恐怖は無く、平然と少女はヴェーダーの傍まで歩み寄る。
そして中にいるヅヱノを見つめるように、銀の瞳に巨大なヴェーダーを映した。
その目が、ヅヱノに訴えていた。
やりなさい、と。
この命が目的なのでしょう、と。
殺されると判っていながら、少女はヴェーダーの前に立っている。
血も涙もないケダモノと、交わす言葉はないと背筋を伸ばしている。
だが命を奪われようとも、誇りと魂は奪われない。
そう、彼女は凛とした立ち姿で語っていた。
ヅヱノは確信した。
『彼女だ』と。
この少女こそ、単眼天使が『守ろうとした物』だと直感した。
ヅヱノは引金釦に指を掛けながら、少女を見つめる。その瞳が、緑の星空と被る。帰りを待つ立ち姿が、じっと彼を見送るンゾジヅの姿と重なる。人間味の薄い白面に、人情溢れる笑顔が見えた。
ヅヱノは少女をじっと見ていたが、引金から指を外した。そして動いてくれよと念じながら、決戦桿を強く引いた。ヅヱノの願いが通じたのか、ヴェーダーは砲郭口を裂けさせ始めた。
開き始めた砲郭口にも、少女は動じなかった。
ようやく食べるのかと、裂けていく砲郭口をじっと見ていた。
だが銀色の瞳が、作り物のような目が次第に見開かれていく。
鏡のように風景を映すばかりだった瞳に、感情があふれ出す。
「――っ!!」
何事かを叫んで、少女は走り出した。
咥内は単眼天使の破片で、剣山のような酷い有様になっている。
なのに少女はお構い無しに、砲郭口の奥へと進んでいく。
装飾品がちぎれて、服が破けても、少女は気にせず前に進む。
白い肌が残骸で裂かれ、紅い血が流れても、前だけを見続けている。
そして少女は、ある場所で止まった。
ひしゃげているが、単眼天使の胴体があった場所だ。
少女はそこに跪くと、ぼろぼろと涙を零し、声を上げて泣き始めた。
『手の平だけで収まる何か』を、必死に胸に抱きしめてわんわんと泣いている。
穢れない綺麗な白い服が、赤黒い汚物に染まる。
服だけでなく、手や顔が汚れようとも少女は『それ』に肌を重ねる。
ンゾジヅがヅヱノを抱きしめるように、少女は『彼』を必死に抱擁する。
ヅヱノは、腹の中をナイフでかき回されているような顔をしていた。
見ていることそのものが苦痛、そんな表情をしながらもヅヱノは見続ける。
眼の前の光景を、少女の涙の一滴も見逃さぬというように。
ヅヱノは歯を食いしばって、少女の号泣を目に焼き付けていた。
少女は一頻り泣き終えると、ヅヱノを『見た』。
装甲越しに、見えないはずなのに、少女はヅヱノを見つめる。
そして少女は、笑った。
腕に『彼』がいる事が嬉しいというように、優しく『それ』を抱きしめたまま。
もういいよと、そうヅヱノへ伝えるように安らかな笑みを浮かべていた。
その顔は底知れない怨恨と、憎悪に歪んでいてもおかしくないのに。
ヅヱノを見上げる少女の表情には、感謝さえ見受けられた。
ヅヱノは、我知らず手刀を眉間に当てた。
目を背けるのではなく、祈るように目を閉じる。
「……いただきます」
そしてヅヱノは、闇の中で決戦桿を手放した。
ヴェーダーは驚くほど滑らかに、裂けた砲郭口を閉鎖した。
§
ヅヱノは少女を『捕食』した後、残る基地も光線砲で爆破した。そうして一切合切、探知画面に表示されていた逆三角が消滅したのを確認し。それから彼は止めていた帰投工程を再開させ、格納庫へと戻った。
「……」
臓腑が重い。腹の中に、重油が詰まっているようだった。手足も筋肉が鉛に変わり、関節の螺子が取れたように動きたくない。これまでで最高の戦果であったと、ヅヱノは断言できる。だが同時に、今までで一番『重い』勝利だったといえた。
ヅヱノが顔を上げると、巨大な刃群が彼の顔を写す。単眼天使の残した鎖鋸剣は、戦闘室へ突き刺さったままだった。ヅヱノは暫く戦闘室を貫いた異形の剣を見ていたが、ゆっくりと制御盤へ手を伸ばす。
降機の釦を押すと、正面の隔壁が上下に開いていく。ヅヱノは鎖鋸剣が刺さっているので動かないかと思ったが、隔壁は縦方向へ綺麗に断たれているせいで問題なく開いた。
そしていつものように、ヴェーダーの食道を滑り降りる。だがいつもと違い、壁からはひしゃげた単眼天使の破片が生えている。まるでヅヱノを捕まえようとするように、それらは待ち構えていた。だが大鎧が鋭い先端を次々に弾き、ヅヱノは何の障害も無く滑り降りた。
床へと座席が下ろされると、そこには二人がいた。いつものようにンゾジヅは立っており、横にはヌメもいる。ンゾジヅはいつも通りだったが、ヌメは目を輝かせて両手を上げている。そこで漸く、ヅヱノは大鎧を解いた。
「ご苦労様です、ハリアー」
「ぬー!」
「……あぁ」
ンゾジヅは控えめながら、はっきりと笑顔を浮かべた。
無事に帰ってきてくれてよかった、迎えられてとても嬉しいと。
その表情が、ついさっき見た少女の儚げな笑顔と重なった。
「……ンゾジヅ」
「はい、なんですか」
「抱きしめてみてくれないか」
ンゾジヅは頼まれた通り、ヅヱノを腕に抱く。
彼女の体温が、鼓動が、柔らかさが、ヅヱノの意識を落ち着かせる。
まるで変な薬でも投与されたように、ヅヱノは急激に安らいだ。
それと同時に、暖かい力がヅヱノの五体へと漲っていく。
単眼天使の操縦者も無事に帰還できていたら、少女に抱かれてこんな気持ちになったのかもしれない。そうヅヱノは考え、様々な感情が湧き上がる。だが全てを、腹の底に押し込んだ。ヅヱノの中で漏れ出た感情が、力となってンゾジヅの背中へと回される。ンゾジヅは応えるように、抱き返してきた。
「泣きたいならば、泣くべきです」
「……いや、違うぞ。ンゾジヅ」
ヅヱノはンゾジヅを見上げる。
柔らかく安心する母性の間から、ヅヱノはじっと彼女を見詰める。
ヅヱノの固く鋼のような瞳で、美しい緑の天の川を写す。
「泣くのは、ギエムだけだ。ハリアーは、泣かない。何があろうと」
ヴェーダーは、哀しまない。怪物は、涙を流さない。
そしてヴェーダーの心臓であり脳であるハリアーも、泣かないのだ。
全てを踏み躙って進む、進み続ける怪物に軟弱な感傷は赦されない。
それこそが怨まれ呪われ続ける、真なる怪物のあるべき姿なのだと。
ヅヱノはそう自分に言い聞かせるように、ンゾジヅへと囁いた。
「了解しました。ですが、ハリアーも気を鎮める必要はあります」
ンゾジヅはヅヱノを、自分の胸へ強引に押し込んだ。
彼女の胸の中で、ヅヱノはもごもごと呟く。
「俺は、ハリアーだ。ハリアーの、ヅヱノだ」
「そうです。私のハリアーです」
二人は暫くそうしてから、ふっと軽く離れて見詰め合う。
まるで語らっているかのように、二つの視線は濃厚に絡み合っていた。
「ぬぅーっ!」
わたしもいるぞーとばかりに、ヌメが横から頭突きする。ぺちぺちと触角をぶつけて、わたしを忘れるなーと抗議してくる。ひんやりと冷たくて気持ちいい、可愛らしい非難だった。ヅヱノは謝罪を込めて、あやすようにヌメの頭をぐにぐにと撫でる。
「あぁ、ヌメのハリアーでもある」
「ぬー♪ ぬ~……♪」
ンゾジヅに対抗するようにハグするヌメ。ンゾジヅはヌメごとヅヱノを抱きしめた。ヌメは驚いたようにンゾジヅを見たが、気持ちいいのかぐでーっと表情を崩した。そしてヌメは、ご機嫌な声を上げ始める。二人の腕の中は、よほど居心地がいいらしかった。
「……ンゾジヅ。食事を、頼んでいいか?」
「……はい、今用意します」
ンゾジヅはヌメにヅヱノを預けると、料理の実を取りに行く。身体も胃も重いのに、食物が受け付けるかどうかわからない。だが食べねばと、そんな使命感に駆られた。ンゾジヅが持ってきたのは、奇しくも界宙戦艦で初めて食べた料理の実――カツ丼だった。
「…………いただきます」
カツ丼を前にして、ヅヱノは力強く手を合わせた。様々な感情が、頭をよぎっていく。小鬼、大鬼。犬頭、老狼。蒼蛞蝓、金字塔。人間、単眼天使。そして、少女。写真の中の、三姉妹。脳裏に浮んでは消える彼らへと、ヅヱノは祈りを捧げる。
目をあけると、胃の重さが嘘のように消えていた。香ばしい香りが食欲をそそり、軽くなった胃はぎゅうぎゅうと肉を求める。一口カツ丼を含むと、舌に一つ一つの味がはっきりと染みこんで行く。砕ける衣、染み出る肉汁。塩気とスパイスの効いた肉の味が、じんわりと舌に広がっていく。濃く深い味わいが、舌に焼きつくように馴染んでいく。ヅヱノは緩みそうになる涙腺を堪えて、うまいうまいとカツ丼を掻きこんでいった。
「……御馳走様でした」
そしてカツ丼を米粒一つ残さず平らげると、ヅヱノは力一杯合掌してまた祈る。彼等から頂戴した力を、その命の強さを、身体に染み込んでいく熱量に感謝する。そうして祈りを終えると、ヌメが絡み付いてくる。
「ぬー!」
「ん、どうした……? ゲーム機か? ……おぉ、ンゾジヅがクリアしたのか?」
ヌメの掲げるゲーム機には、ポーズ画面が映っている。それは絶対衛星が、コアを破壊された姿だった。ンゾジヅが、心なしか恥ずかしそうに補足する。
「……その、数日前にボスは撃破しました。ですが結末の視聴はハリアーのヴェードと、凱旋を待とうかと」
ンゾジヅは絶対衛星に勝利した時で止め、凱旋の願掛けにしてくれていたのだ。ヅヱノはありがたいと思いつつ、三人で一緒に画面を見る。コアを喪った絶対衛星は、ゆっくりと宇宙を流れていく。ツバイバインは絶対衛星を脚で掴むと、月でも地球でもない宙へと運んでいく。
新たなる戦争の火種。それをツバイバインは、誰の手にも届かぬ無限の果てへと連れ去った。月面を焼いた絶対なる白龍は、大いなる『蛇足』を生やして星空に消えた。そして自機すらもいない星空に、リザルト画面だけが静かに現れた。空しく、冷やかで、そしてどこか奥行きを感じさせる幕切だった。
「……どこに行ったのでしょうか」
「どうかな……けど、『前』である事は確かさ。ツバイバインには、脚があるんだ」
「ハリアー、宇宙では歩けませんが」
「ぬー?」
比喩に首を傾げるンゾジヅとヌメに、ヅヱノはくすりと笑った。そしてヅヱノが言った事は、彼自身にも当てはまる。どこでもない場所に、ただ前に。ツバイバインのように、ヅヱノも進み続けるのだ。ヅヱノに宿った『彼』の血肉と、この界宙戦艦を巡る全ての『彼ら』と共に。
それが例え自己満足に過ぎなかったとしても、醜悪な決意であったとしても。回り続ける歯車の、機軸になる事をヅヱノは決めた。進み続けると決めた『ハリアー』は、もう決して止まる事はないのだ。
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