第43話

 黒扉の先に広がっていたのは、下水のようなトンネルだった。

 だが下水のような悪臭もなく、鼻腔に湿り気も感じない。そして空気が気道を流れて肺に入る度に、鉛が入ってくるような『重み』をヅヱノは感じた。単純な息苦しさとも違う、奇妙な不快感だった。


 通路の奥からは、ガゴンガガゴンと凄まじい轟音が聞こえる。何かやっているのは確かだが、ヅヱノのいる場所からは見えなかった。もっと奥に進む必要がある。


 ヅヱノは一歩踏み出すも、すぐに歩みは止まった。足場が途切れていたからだ。途切れた足場の先には、下方に平たい床が伸びている。そこには、黒い液体がゆっくりと流れていた。


「……ンゾジヅ。この水は、触れても大丈夫なのか」

「問題ありません」

「よし……じゃあ、降りるか」


 ヅヱノはしゃがみこんで、途切れた足場に腰掛けて足を下ろす。ヅヱノが意を決して飛び降りると、カツンッと硬質な音が響いた。液体を踏んだ時の飛沫も、滑りそうな不安定さもない。少しも沈まない硬い反発を、彼は足の裏に感じた。まるでガラスか、大理石にでも飛び降りたような感触だった。


 ヅヱノが驚いて足を持ち上げると、今度は粘っこい泥を踏んだように靴底が引っ張られる。気のせいではなく、タールのように黒い物体が糸を引いていた。まるで、黒いトリモチでも踏んだような有様だ。固い感触だったはずなのに何故と、ヅヱノは困惑する。


 だがヅヱノが動きを止めて観察すると、伸びていた黒いものは途端に崩れ始めた。さらさらと、砂のように零れ落ちていく。まるで水分など一切ないかのように、黒い粉塵がゆっくりと舞い降りていく。そしてヅヱノが上げた足を下ろせば、やはりガラスのような感触がした。


 ヅヱノがしゃがんで床面を見てみると、それは確かに液体に見えた。さざなみのような流れがあり、確実に流動している。その表面に指を乗せると、ガラスのように固く冷たい。そして指を引くとタールに変わり、指を止めると砂になる。どうなってるんだと、ヅヱノは眉を寄せる。


「ンゾジヅ、こいつはなんだ?」

「絶対燃料のもう一つの側面です。朽ちた因力、滞った加速律。躍らぬ進歩、可能性だけの塊です」


 ヅヱノは何となく理解した。優れた文明を生み出す高等生物も、過去――あるいは未来では野蛮な動物に成り下がる。どんな豊かな動植物を生む土地も、時が違えば砂と岩の不毛な荒地になる。


 水と緑の惑星地球だって、時が変われば炎と砂の惑星になる。可能性はあっても、進まない世界。その残滓がこの奇妙な物体なのだと、ヅヱノは今一度指先で黒水を引っ張り上げた。


「……いくか」


 ヅヱノは零れ落ちる砂を払い、歩いていく。脚を高く持ち上げると、黒水に足をとられる。なのでヅヱノは、すり足気味に通路を進んでいく。ヅヱノが振り返ると、ンゾジヅは黒水もお構い無しに歩いていた。黒水はンゾジヅの足を引っ張っているが、彼女の歩みは普段通りで一切遅れがなかった。


 二人が通路を進んでいくと、音がどんどん大きくなっていく。その音は一定の規則正しさがあり、足音のようにも聞こえる。まるで巨人が足踏みしているようだった。ヅヱノは音圧に気圧されつつも、すぐ傍の出口に近づいた。


「ッ!!」


 明るい光が、ヅヱノを正面から照らす。その色は緑で、ヅヱノがよく見かける絶対燃料の色に良く似ていた。だがそれは、強烈な火だった。ぼうぼうと燃え盛る炎だった。それほど広くない空間を、煌々と照らす眩い炎。それを噴いたのは、ヴェーダーを髣髴とさせる巨大機械だった。


 三つの首と、三つの尻尾、二つの野太い脚を持つ怪物だ。ヴェーダーと違って体表は黒く、機械構造が剥き出しになっている部分が多い。最も目を引くのは、緑色の炎翼だ。胴体の左右から、緑の炎が翼のように噴きだしていた。


 怪物は脚で黒水を踏む度に、何か光の波紋のような物を広げる。すると黒水から、黒い電気が跳ねる。界宙戦艦の外――界宙で無数に奔る、黒い稲妻にも似た物だ。その黒電が飛び跳ねる度に、三つの首が我先にと食らう。首が黒電を飲み込むと、怪物は胴体から緑の炎翼をゴォッと噴射する。そうして最後に、三つの尻尾に絶対燃料の緑光が流れていった。


 怪物は歩き回りながら、そんな作業を繰り返している。どことなく、作業用の重機といった印象を受ける装置だった。ゴミ捨て場でショベルカーなどが、掘ったり運んだりするような光景をヅヱノは思い出した。


「アレは三重加速機です。絶対燃料再処理用の重機です」


 訊ねたヅヱノに、ンゾジヅはそう答えた。ヅヱノは三本の尻尾に流れる、見覚えのある緑光を眼で追う。この三重加速機による作業で、使用済みの絶対燃料を元に戻すのかとヅヱノは納得する。


「アレは、自動で動いてるのか? それとも、中に誰か?」

「自動で動かすこともできますが、現在は作業子機が入って動かしています」

「……ッ! 中に、入れるか?」

「少々お待ちを」


 作業子機。恐らくはンゾジヅと、同じような存在なのだ。それがあの重機の中で作業している。ンゾジヅが傍にある機械を弄ると、目の前に足場が現れた。黒水は流れておらず、手すりもある。


 ヅヱノとンゾジヅが乗ると、足場はゆっくりと宙を進み始めた。そして三重加速機の背後をとるように回ると、後部についているハッチに接続する。足場が繋がると同時に、勝手にハッチは開放された。


 ヅヱノがハッチの中に入ると、様々な機械が剥き出しで密集する通路があった。狭いので機械に触らぬよう、ヅヱノは手すりを伝って進んでいく。通路には所々に黒水があり、足をとられながらの移動となった。


 そして奥にいくと、開けた空間に出る。あまり広くはないが、三方に隔壁画面に似た画面壁がはめ込まれている。展望台の様に周囲の風景が画面壁に映され、視界が確保されていた。画面壁には無数の文字や図形が浮び、その向こうで三つの首が作業している。緑の炎があがると、画面壁の前に立つ影がはっきりと浮かぶ。


 それは、人影だった。ヅヱノがこの艦で、ンゾジヅ以外に見る人の後姿。甲冑植物や二輪怪獣のような、紛い物とも違う。知性と理性のある、親しみの感じる動きをしている。ヅヱノが震える足で一歩踏み出すと、後姿は手を止めて振り返った。


 まるで陽光を孕んだ浅瀬のように、透き通った青い髪。

 パッチリと大きく開いた目は、どこまでも深い青を宿している。

 肌は真珠をちりばめたようで、深窓の令嬢のように陽光を知らぬ美肌だ。

 顔立ちは美女といえる整い具合だが、美少女と言い換えてもいい幼さもある。

 だが彼女が、単なる美少女で終わらないのは一目瞭然だった。


 頭からは青い小さな翼が生え、ヒラヒラと優雅に揺れ動いている。ウミウシのような、平たい羽のような触角だ。作業着をドレスに仕立て直したようなツーピースの下から、青い下半身が見えている。ぬるりとぬめった表面に、ヒラヒラと蠢くヒダ。見ているだけでヅヱノは鳥肌が立つ、蒼蛞蝓のような下半身だった。


 やはりそうなのかとヅヱノは確信する。

 集中した蒼蛞蝓の絶対燃料から、彼女は生まれたのだ。

 そしてヅヱノに気付かれぬまま、今日まで一人で作業をしていたのだ。


 何故彼女の存在を教えなかったのかと、ンゾジヅにあたるのも筋違いだ。ンゾジヅの役目はヅヱノの世話であり、艦内施設の管理や報告ではない。その役目を担うのは、どちらかといえばヅヱノの方だ。ヅヱノが気付かなければいけない事だったのだ。


 自責の念に打ちのめされるヅヱノを、少女はぼーっとみていた。

 そしてその目が次第に開かれていき、瞳にはキラキラと青い星が宿り始める。


「ぬー!」


 そう声と両手を上げると、少女は『うれしい!』と全身で感情を表現する。まるで生まれて初めて誕生日を祝ってもらったというように、信じられないプレゼントが届いたというように興奮している。ヅヱノの訪問を喜ぶという、価値観が少女にはあるのだ。だがそれに、ヅヱノは邪悪さを感じた。彼女にではない、彼女にその価値観を与えた者に対してだ。


 彼女の『元』となった者達は、天地がひっくり返ってもヅヱノを歓迎しない。神の世界に届く塔より、彼らの呪詛は高く積みあがる。そんな者達から生み出された彼女が、ヅヱノの来訪を喜んでいるのだ。ヅヱノを慕うように、感情すら捻じ曲げられている。そうするよう、人格を『設計』されたのだ。


 ヅヱノは途端に、胃から猛烈な吐き気がこみ上げた。

 ゲェーッと、その場に吐いてしまう。今までずっと吐き気すら出ないほどの、ショックに陥っていた。だが今回ばかりは、生理的な拒絶反応が強く生じる。いつ食べたかも覚えていないものが、床に広がった。


 ヅヱノの吐瀉物を見た少女は驚き――喜んだ。

 まるで極上のご馳走を見つけたように、それを手で掬って食べたのだ。

 そして嚥下した少女は、楽しそうに触覚から緑の炎をぼーっと広げた。

 絶句するヅヱノに、静かなンゾジヅの言葉が聞こえる。


「彼女自身にも三重加速機の機能があります。このように、直に処理することも可能です」


 ひどすぎる。余りにも、惨すぎる。

 冷静に解説するンゾジヅと、満面の笑みで吐瀉物をすする少女。

 出し切った筈の吐き気がこみ上げ、おえっと吐こうとするがもう吐瀉物は出てこない。最早臓腑すら吐き出そうとするように、彼の嘔吐運動は止まらない。彼は、吐いて、吐いて、吐こうとして。


 じんわりと脳から酸素が抜けていく、虚脱感に襲われた。

 とっくにヅヱノの酸素は、肺から吐ききられていた。

 酸欠に陥ったヅヱノの意識は、急激に暗転していった。



 §



 目覚めると、ヅヱノはンゾジヅに背中を預けていた。

 今度ばかりは離さぬとばかりに、ンゾジヅはヅヱノを抱いていた。

 少女はヅヱノとンゾジヅを交互に見ながら、心配そうに作業をしている。


「大丈夫ですか、ハリアー」

「いいとは、いえないな……いや、体調の問題じゃない。俺の、精神の問題だ」


 思っていたのと、違っていた。認識に、齟齬があった。言ってしまえば、只それだけの事。だがそれが、余りにも大きすぎた。その差が、ヅヱノの精神を軋ませている。


「俺は、人を救っていると思っていた。勇者とか、そんな感じにだ。だが実際は、むしろ苦しめていたんだ。人を襲って、食い散らかしていたんだ。彼らの幸せを、生涯を」

「確かに、ヴェードは何かを救う行為ではありません」


 当然の事であると、ンゾジヅは肯く。彼女はヅヱノと違い、既にヴェードがいかなる行為かを理解していた。ヅヱノは彼女の肯定に、『今更気付いたのか』と呆れられているように錯覚する。彼の後ろめたさが、そう見せた。


「ンゾジヅも滑稽だっただろ。ここに現れる全ては、ギエムの生まれ変わりみたいなものなのに。ンゾジヅも、そうなんだろ……殺されたギエムから、絶対燃料から作られたんだろ」

「はい。ンゾジヅも、絶対燃料から形成されました」

「そんな相手に、仇敵の奉仕させて……何様のつもりだ、クソッタレが」


 歯を食いしばるヅヱノに、ンゾジヅは首を傾げる。


「ハリアーはンゾジヅのハリアーであり、敵ではありません」

「俺が殺した人々の絶対燃料……ギエムの因子を継承しているんだろ? 彼等を殺した俺は、ンゾジヅの敵じゃないか」

「確かにギエムの因子を一部継承しますが、かといって活動に支障をきたす要素――記憶等は継ぎません。確かに絶対燃料が利用されていますが、我々はギエムとは違うモノです」

「……違うもの、か。因子を持つだけで、本人ではないと」

「はい。そして故に、ンゾジヅのような子機は絶対燃料を必要とします。ンゾジヅは、常に感謝しています。ハリアーはンゾジヅの英雄、ンゾジヅ達の救世主です」


 ンゾジヅのまっすぐな言葉に皮肉は無く、心に訴えるものがあった。背後でも、少女がこくこくと同意している。嘘偽りない、彼女達の本心なのだ。


 ヅヱノが最初にヴェードを志した時、人を助けることが自分の役目だと考えた。それは真実を知り間違いだと判ったが、ある意味でそれは正しかった。彼女たちを救えている、それだけで充分ではないのかとヅヱノは考えを改める。


「因子を継ぐが本人ではない、か……あれ? 因子を継ぐ、が? 本人では……ない?」


 ヅヱノは反芻するように口にして、その内容にひっかかった。

 因子を継ぐとは、非常に曖昧な表現だ。ンゾジヅと少女は、容姿に影響が出るほど強くギエムの因子を継いだ。そうでありながら、『記憶』どころか『感情』も継承していない。そしてンゾジヅはヴェードを重ねても、鳥という形質を維持している。対する少女も人間ギエムの絶対燃料を得たが、蒼蛞蝓の身体的特徴を強く残したままだ。


 絶対燃料から取得した因子は、反映の度合いに相性や個体差があるのだ。そうでなければ、ンゾジヅも少女も同じ見た目の種族になっていなければおかしい。どちらも、供給されている絶対燃料は同じなのだから。


 そんな因子の曖昧な継承が許され、個体差による大きな違いが存在するならば。『逆』も、ありうるのではないか。曖昧ではなく、生々しいほどにはっきりと因子を継いだ者が。


 ギエムの『記憶』と『感情』を色濃く継承している、子機が。

 自分を『転移したただの人間』だと思い込んでいる子機が。


「まさか、俺は……ンゾジヅ、『ハリアー』はンゾジヅ達と同じ『子機』なのか?」


 艦内にある全ての物は、絶対燃料から生み出されている。草木、建物、甲冑植物、二輪怪獣、少女、ンゾジヅ、ヴェーダー、全て絶対燃料によって作られた物だ。その中で、ハリアー――ヅヱノだけが例外なんてありうるのか。


 ハリアーという界宙戦艦で最重要の存在に、縁もゆかりもない無力な人間が選ばれるのか。どこかの世界から偶然呼び出されて、界宙戦艦の要に据えられるなんて事が起こり得るのか。


「はい、その通りです。仕様の違いはあれど、ハリアーはンゾジヅや彼女の同胞です」


 答えは、至極単純だった。

 艦内には、絶対燃料で作られたものしかない。

 それはハリアーとて、例外ではないのだ。


「そう……か」


 ヅヱノは自分が、『普通の人間』だと思っていた。そう思い込んでいた。

 ただの人間が、突然この奇妙な空間に転移したものだと認識していた。

 だが事実は違った。


 ヅヱノもンゾジヅ達のように、ヴェードによって『ギエム』から生み出されたのだ。この記憶を持っていたギエムが撃破され、その残骸からヅヱノは形作られた。ヅヱノにはギエムの断片――記憶が色濃く残留しているが、『彼』ではないのだ。


 名も、体も、ヅヱノ――いや、『ヅヱノ』と呼んでいいかも判らない『彼』とは違う。初めて乗ったヴェーダーの画面に表示された『初めて見る名前』に、自分の名前だったと納得する男でもない。あの瞬間まで自分の名前がなかった事にも気付かない、自らの空虚さを自覚できない人形ではない。


「むしろ『今までの俺』の方が、混乱して頓珍漢な振る舞いをしていたのか」


 ヅヱノは記憶を持つ本人ではなく、記憶主の肩を持つ事すら筋違いだった。本当に記憶通りの男だったら、そもそも義憤に駆られたからといって戦いを選ぶのか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。だがヅヱノが考えるに、記憶主ならば戦いに強い忌避感を抱いた筈だ。確かなのは、『ギエム』との戦いを選んだのは『ヅヱノ』だということだ。


「俺は……とんだ間抜けだ」


 人食いドラゴンが、まるで人を護る龍殺しのように振舞っていたのだ。龍殺しの剣を握り鎧を纏ったつもりで、人を頭からバリバリ食べていたのだ。人の死体で腹を満たしながら、龍を許さぬと気炎を上げていたのだ。


 なんと滑稽で、犠牲者達をコケにする醜態であっただろうか。

 ヅヱノは足元が、ボロボロと崩れ落ちていくような感覚に襲われた。

 そのまま奈落の底に零れ落ちて、『ヅヱノ』の自我と共に消えてしまいたくなった。


 倒れかけたヅヱノの身体を支えたのは、ンゾジヅの両腕だった。崩れ落ちそうなヅヱノの心を繋ぎとめるように、しっかりと両腕で彼の身体を締め付ける。


「艦内の子機の中で、ハリアーは肝心要の先導手です。ンゾジヅらと仕様が異なり、記憶や認識に著しい齟齬が出ていると早期に気付くべきでした」


 気付いても、前のンゾジヅであればどうする事もできなかっただろうに。そうヅヱノは考えて、ふと気付いた。ンゾジヅは喋れないながらも、ヅヱノの世話をしてくれた。だが彼女の世話は一体誰がするのか、と。


 ンゾジヅはヅヱノと違って、一人でも生きていける逞しさがある。だがその逞しさは、絶対燃料の供給を受けて発揮されるものだ。ヅヱノは絶対燃料を回収してくる事で、間接的にンゾジヅの世話をしていたのだ。


 だが仮に今ヅヱノがいなくなったら、残されたンゾジヅ達はどうするのか。ギガムを失ったギエムのようになり、この界宙戦艦に朽ちるまで取り残されるのではないか。そんな惨いことは、させられなかった。その一心が、ヅヱノの精神を再結合させる。


「……いや。俺の方こそ悪かった。今更、投げ出していい身分じゃないんだ」


 ヅヱノの中でンゾジヅ達を守り、尽くさねばという意識が強く芽生える。

 だが、それでもやはり『人間』を殺すことには抵抗感があった。

 ンゾジヅがその感情を見抜いたように、考えを説く。


「殺すのではなく、命を摂取すると思えばよいのです。無為にする訳ではないと」

「……いや、人間を食べるって思うと更に抵抗感が湧くんだが」

「人間といっても、正確にはハリアーの考える種とは別です。人の形をしていますが、厳密には身体構造や遺伝子上に明確な違いを持つ異種です」

「それは解るんだが……見た目も似ていて、何より同じくらいの知能や感情を持っている相手となるとな」


 ヅヱノが難色を示すと、ンゾジヅは首を傾げた。


「知能や感情を持つものを捕食するのは、悪いことなのですか?」

「悪いだろうさ。彼らは高度な感情があって、知性があって……そうした相手を食べるのは、な」

「ハリアーの記憶では、『本艦に来る以前』は植物系あるいは鉱物系種族だったのですか?」


 ヅヱノの混乱を減らそうと、『彼』と同一視するンゾジヅの配慮に感謝しながら、彼は答える。


「いや、違う。人間……動物種族だった。雑食で、何でも食べられた」

「ならば下位に位置する知性体含む『命』を摂食し、生存してきた筈です。なぜ、これまで抵抗なく食べてこられたのですか? 捕食対象には、高度な知能を持った種もいたはずです」


 ヅヱノは考える。植物は生き物感が薄く、魚や貝も問題なく食べられる。牛や豚は知性もあり賢いが、食べられる。屠殺映像を見た時はショックだったが、だからといって食べないという選択はしなかった。だが犬や猫等の愛玩動物や、言うまでもなく人間などは食べようとも考えなかった。


 ヅヱノは忌避の理由に知性と感情を挙げた。だが、豚は犬より賢いとされる。それでも食肉として消費されても気にならないのは、そういう文化で育ったからだ。豚を食べる習慣、感情や知性があろうと食べる風習。なぜ食べるか、必要だからだ。その積み重ねの先に、『彼』――ヅヱノは生きていた。そうであったと、ヅヱノはンゾジヅの言葉で思い出した。


「植物種や鉱物食種でもなければ、生物は下位の命を燃料とするよう設計されています。感傷や決意では、克服できない本能です。能動か受動か、知能の良し悪しで『命』に等級をつけるのは非合理的です。命は栄養を運び、捕食され、継がれる存在。尊くもなければ、卑しくもない。ギエムも『人間』も、例外はありません……我らを命と定義するなら、あるいは我らも」


 命は等価。命に優劣は無いと。感傷や思想で変わらぬ、唯一絶対の基準を持つものだとンゾジヅは強く断言する。ヅヱノは無意識に抱いていた傲慢を、価値観の歪みを自覚させられた。


 食物連鎖の一部でしかない人間が、他人事の様に知能や性質で命に優劣をつける。それは間違いなく、歪みだ。文明種族を特別尊く思う事だって、一つの『命の選別』に他ならない。


「動物が知恵をつけると神様を気取り出すと言うが……こういう事、か」

「本艦は、我々は、ギエムの命を必要とします。その獲得はハリアーに依存し、ハリアーだけが成し遂げられる事です。その点で言えば、神と称しても相違ないかと」

「天地創造、世界の行く末を決める存在、か。世界を続ける事も、終わらせることも思いのまま……ね。仮に、俺が嫌だといったら……どうなるんだ?」


 餓死に近い状況が生じるのは、ヅヱノにも予想できた。

 それでもンゾジヅは、迷いなく従いますと断言した。


「無論、ヴェードをやめるという選択肢もあります。ハリアーに抵抗があるというのなら、構いません。ンゾジヅは従います……ただ、その時は……一つだけ、お願い事を叶えて欲しいのです」


 ンゾジヅは、優しくヅヱノの手を取り――自分の首へと添えさせる。

 力が入れば簡単に首が絞まり、あるいは折れる姿勢へとヅヱノを導いた。


「ハリアーと共に進み続けるのが、ンゾジヅの本懐。ですが良心が痛むゆえ共に朽ちよというならば……ハリアーの手で、終わらせて欲しいのです。ハリアーを見送る滅びを待つならば、ハリアーの手でンゾジヅの幕を引いて欲しいのです」


 こんなに立派な身体を持つのに。ヅヱノなど、簡単に殺せる力があるのに。

 その強靭な下半身を床に押し付けて、急所をヅヱノの手に差し出している。

 ヅヱノに殺されるかもしれないのに、その顔は安らかで喜びすら見える。

 仮に動かなくなるまでヅヱノが力を篭めても、その表情は変わらないだろう。


 ヅヱノはようやく気付いた。

 彼女の緑光粒が、ヅヱノの手に寄り添おうと集まっているのを。

 緑光粒がただただヅヱノを案じ、優しく彼を包み込もうとしているのを。

 その温かさを手のひらに感じた瞬間、ヅヱノの『スイッチ』が入った。


「……駄目だ」

「ハリアー?」

「駄目だ、駄目だダメだッ! だめだッ!!」


 ヅヱノはンゾジヅの手を振り解き、ガバッと彼女を抱きしめた。目を白黒させるンゾジヅにも構わず、ヅヱノは腕の力を強くする。ンゾジヅはヅヱノの心身を守り、優しく育んできた大切な人だ。そんな彼女を自分のくだらない感傷によるエゴにつき合わせて、道連れにするなど言語道断であると。ヅヱノは彼女に自死の可能性を見せた自分自身に、激しく憤った。


 これがヅヱノ一人の命なら、まだヴェード中止を考える余地はあった。自分が餓死しようが、当然の報いだとヅヱノは受け入れたかもしれない。だがンゾジヅや少女の命がつくとなれば、話は別だ。それが価値観の歪みであろうと、命に優劣をつける行為であろうと、ヅヱノは彼女達を尊重せずにいられない。それに、話は艦内に留まらない。


「俺の記憶の主も壮絶な戦いで、陰惨に命を落として俺が生まれたんだ。俺が犠牲にしてきたギエム達のように……な。今更、抵抗があるとか良心がどうとか言ってる場合じゃないんだ」


 そんな理由で界宙戦艦が止まれば、それこそこれまでの犠牲が無駄になる。たった一人の心変わりで停止する程度の力に、ギエム達は滅ぼされた事になる。人間の感情一つで左右される程度の命だったと、彼等の犠牲を定義する事になる。


「そいつは、侮辱だ。それこそ、許しがたい屈辱を強いる事になる」


 良心が咎めるからと、新たに殺さずヅヱノが痩せ細って死んだとしよう。

 それこそ彼らが殺された意味を奪い、真の『終焉』を与える事になる。

 くだらない最期を選ぶ、半端者の餌食にされた事になってしまう。


 彼らにだって、死の理由はいるのだ。こんな怪物に襲われたのなら、殺されても仕方がない。こんな桁違いの化物であるなら、皆殺しにされても受け入れるしかない。そう犠牲者を納得させる事が、『怪物』のせめてもの礼儀だ。意志薄弱な人間一人によって虐殺されたなどという、不名誉はあってはならない。


 第一ヅヱノがハリアーを放棄しても、ヴェーダーや界宙戦艦が止まるとは限らない。ヅヱノが死のうと、界宙戦艦が動き続ける可能性はある。ヅヱノではない、別のハリアーに代替わりするだけ。あの金属寝台で別の『誰か』が目覚め、また同じ道を歩まされるだけ。写真の三姉妹の誰かが、この罪深い席に着かされるだけ。そうなるだけ、かもしれない。


 そもそもヴェーダーは、ヅヱノのシースターフォート以外にもあるのだ。それらのヴェーダーは、シースターフォートが止まっても動いたまま。世界は既に、そういう構造で回っているのだ。誰かがヴェードする必要があるなら、それはヅヱノでなくてはいけない。ヅヱノは、そう確信した。


「何より、俺はンゾジヅ達を生かしたい。それが罪なら、俺こそが背負いたい」

「……」


 故に、ハリアーは立ち止まってはならない。ハリアーは自分の手足で、前に進み続けねばならないのだ。ヅヱノは、自分の腕の中にいるンゾジヅの目を強く見つめる。


「あの『ギエム』達を……『ギガム』を殺すぞ、ンゾジヅ」

「了解です」

「老いも若きも男も女も、差別も区別もせず、いるだけあるだけ食い尽くす。存在するだけ根絶やすぞ。歴史も、文化も、技術も、栄光も、恥辱も、怨恨も、彼らが抱えて死ねる全てを奪う」

「その通りに」

「骨の髄まで貪り尽くす。だから俺を支え続けろンゾジヅ……いつまでも!」

「…………はい」


 ぎゅっと、ンゾジヅはヅヱノを抱き返した。

 いつもと違って、縋るように弱弱しく、しかし指先は決して離れないと主張する。

 もはや外道畜生になろうとも、ヅヱノはとまらないと決意した。

 ようやく界宙戦艦ヲズブヌに、『ハリアー』は誕生したのだった。


 そのハリアーが、一向に離してくれないンゾジヅに困惑し。

 完全に蚊帳の外に置かれた少女が、ぷくっと頬を膨らませるまで。

 残り45分と、24コンマ03秒。

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