第42話

 ヅヱノは燃料蔵槽に足を踏み入れていた。

 青々とした草木が茂り、爽やかな空気が流れる場所。

 暗い感情を枝葉のざわめきが慰め、湿った気持ちを拭い取るような道だ。


 そんな場所を、ヅヱノは暗い目で歩いていた。

 その足取りは不確かで、まるで下手糞に操られた人形のようだった。

 簡単な段差で躓いてしまいそうな歩き方だが、辛うじて爪先を引っ掛けずに進んでいる。


 踏み締める腐葉土が、堆積した死肉のように感じる。

 風に揺れる草木のざわめきが、怨嗟の声に聞こえる。

 草花から香る青臭さが、耐え難い腐臭に感じられる。

 頬をなでる涼やかな風が、身も凍る死霊の指先に思えた。


 ヅヱノは取り巻くありとあらゆる物が、彼を責め立て呪っているように感じた。食品の添加物を見て、その抽出元そのものを想像するように。ギエムの犠牲で作られた世界全てが、ヅヱノを呪う屍山に変わる。


 耳を塞ごうとも、目から視覚で、鼻の奥から嗅覚で、皮膚の表面から触覚で、代替しうる全ての感覚器官からヅヱノを追及する。仮に全てを遮断したとしても、最後には暗闇が待っている。どこにも逃げ場のない闇の中では、ヅヱノの記憶が彼を追い詰めた。


 ヅヱノは五感を開いて、前に進むしかなかった。ありとあらゆる物に死の気配を感じても、ヅヱノへの憎悪を感じても、ヅヱノは前へと踏み出し続ける。行き先は決まっているというように、ふらついたりせず一直線に進む。


 その道のりは、平坦ではない。隆起した根っこや、段差が存在する。足が引っ掛かり、ぶつけたりすっ転んだりしていた。だがンゾジヅは動かない。普段なら、倒れる前に彼女が抱えあげているところだ。


 ンゾジヅが動かないのは、ヅヱノがそう命令したからだ。最初にこけかけた時に、ンゾジヅはいつものようにヅヱノを抱き上げた。だがヅヱノは、致命的な場合以外は助けなくていいと言った。ンゾジヅは命令を撤回するように頼んだが、結局ヅヱノは命令を押し通した。


 彼女の髪や瞳で揺れる、美しく不思議な緑光粒。絶対燃料に近しいであろうその光を、ヅヱノは直視できなくなっていた。その光で形作られたンゾジヅに、自分の奉仕をさせる――そんな仕打ちを、ヅヱノは許せなかった。


 その結果、ヅヱノは生傷だらけになっている。ここに来てから、彼は生傷を負った事はない。傷を負いそうな時は、何より早くンゾジヅが盾となり杖となるからだ。その守りがないヅヱノが、歩くだけで傷だらけになるのは必然だった。重傷を負っていないだけ、健闘しているとさえいえる。


 ヅヱノの歩みは遅い。道はどんどん曲がりくねって、道なき道へと変わっていくからだ。ヅヱノの脚では、跨いで踏み越えるのも難儀する場所が増えていく。疲労が溜まって足をずるりと滑らせ、やすりのような樹皮で皮を擦る。血がじんわりと滲んでも、ヅヱノは構わず前に進む。


 合成植物の森に踏み込むと、ヅヱノの『被害妄想』は一層酷くなった。乱雑に埋め込まれた多種多様な人工物は、まるで怨霊のようにヅヱノを睨んでいる。噛み合わない物同士が集合している様が、物に残留した恨めしさの現れに見えていた。


 歩きながら、ヅヱノは拾った石を投げ始めた。まるで子供が暇つぶしに遊んでいるような姿だが、その顔は真剣だ。彼の投擲は繰り返されて、樹皮や人工物の上で何度も石が跳ねる。その石が、突然銃声と共に弾き飛ばされた。


 射手は、甲冑植物だ。ヅヱノが石を投げていたのは、安全確保の為である。彼は更に繰り返し投擲して、投石を銃撃されなくなるまで繰り返す。そして銃撃されていた地点に左腕を晒して、撃たれない事を確認してから前に進む。そしてまた、同じように石ころを行き先へ投げつけながら前に進む。


 途中で二輪怪獣とも遠目に遭遇したが、ヅヱノを襲わず走り去っていった。ヅヱノは今武装しておらず、餌となる輪胴拳銃もない。歓楽目的で嬲るにしても、ヅヱノの後ろではンゾジヅが殺気立っている。今の彼女に喧嘩を売るほど、二輪怪獣も馬鹿ではなかった。


 ヅヱノは石や何かの部品やらを前に投げ、時たま銃声を響かせつつ前に進んでいく。そうして到着したのは、あの城塞都市だった。白く、穢れない城壁に守られた街。ヅヱノが最初に破壊した、小鬼が住んでいた街だ。その証拠に、ヅヱノがいの一番に破壊した塔が街の中心に立っていた。


 ヅヱノは街に足を踏み入れる。

 ヅヱノを迎える、閑散とした大通りと人気のない建物。

 だがそれが小鬼から採取した絶対燃料で生み出されたとなると、あそこに住んでいた者達の遺志で再建したとなると、ヅヱノは特別な意味を持っているように感じた。


 ヅヱノは、まるで街自体が重くのしかかってくるように錯覚する。

 一片も残さず消し去ったものが、寸分違わず作り直されている。道具は使い込まれた分だけ磨耗し、建物は長く利用された分だけ劣化している。その生活していた者達の時間と足跡が、いたるところに刻まれている。


 小鬼の残滓が、『消しきれぬぞ』とヅヱノに呻いている。

 『死滅なぞしてやらぬぞ』と、ヅヱノに唸っている。

 ヅヱノは小鬼達の呪詛を踏みながら、石畳を進んでいく。


 色濃く残った生活感が、街並みの空白に質量を与える。

 重みを、臭いを、体温を、足音を、何もない場所に生み出していく。

 ヅヱノはその『何もない場所』を、コツリコツリと歩んでいく。


 そしてヅヱノは、立ち竦んだ。

 外から見えた塔。その根元は、ヅヱノが立ち寄った市庁舎だった。

 途中までしかできていなかった建物の先が、天高く伸びている。

 ヅヱノは中に入って、階段を昇る。長い塔を縫うように、ジグザグに階段を昇っていく。


 数分後、ヅヱノは屋上に出た。

 そこは街を一望できる、景観に富んだ場所だ。

 既に存在していない展望台から、彼は失われた街並みを眺める。

 そうして辺りを見回していたヅヱノの目に、あるものが写った。


 山よりも大きい、巨大な影。

 白く、街よりも白く、しかし色褪せていて、濁ってもいるようで。

 まるで朽ちた骨が、癒えない怨念を接着剤に積み上がったような塊。


 それは単なる無機物ではなく、手足もあれば頭もある。見る必要がないと言わんばかりに目のない頭。何でも噛み千切ろうと、牙を剥き出しにした口。その口は一つでは足らぬとばかりに、貪欲に上下二つも備えている。そんな異形の頭を、そいつは持っていた。


 あえて表現するなら、竜であった。

 だがこれを竜と言うには、あまりにも道理を逸している。

 竜が纏うべき鱗もなければ、威厳も邪悪さも持ち合わせていない。

 なにせその白い巨躯に詰まっているのは、血潮でもなければ筋骨でもないのだ。


 文明生物の命から搾られた、進歩。

 彼らの血肉と魂から抽出した、文明が進む為の力。

 それがかろうじて、生き物の形を模しているだけなのだ。


 そんな怪物とも呼べないおぞましい『現象』が、一歩ずつ前に進んでくる。そしておもむろに下の口を開いた。喉の奥から出てきたのは、奇妙な形をした機械仕掛けの舌だった。白い怪物の中に詰まっていた『進歩』が、その舌先へと緑光を迸らせながら集束していく。


 そして一瞬、舌先は煌めき。

 ヅヱノを、緑の流星が貫いた。


「――ッ!! はぁ、はぁ、はぁっ!!」

「ハリアー、大丈夫ですか」

「……ああ、ありがとう。大丈夫だ、大丈夫だから、離してくれ」


 ヅヱノはンゾジヅに支えられていた。まるで頭でも撃たれて、力なく倒れていく死体のようにヅヱノは傾いだ。それを背後にいたンゾジヅが、致命の範疇と考え受け止めたのだ。ヅヱノは軽く礼を言うと、立ち上がった。彼女の中で揺れる緑光粒から、逃れるように。


「白昼夢、か……あるいは、誰かの記憶……か」


 屋上から見える風景には、あの白い怪物――ヴェーダーはいない。

 ヅヱノがいつも格納庫で見ている、生気のない姿ではない。

 漲る力を蓄え、命が宿ったように、生々しく動いていた。

 真っ向から見るとあれ程までに印象が変わるのだと、ヅヱノは痛感する。


「あんな怪物に、よく挑んだもんだ……本当に、勇敢な奴らだ」


 怪物の頭脳であり心臓は、他人事のように呟いた。

 誰かを護るためとはいえ、正面から挑んだ彼らには敬意を抱くしかない。

 逃げたって許される、仲間を見捨てたって誰も文句は言わない、そんな怪物なのだ。


 だのに退かずに、立ち向かうどころか手傷を与えてくる。そんな勇者ばかりだった。そう、勇者。彼らは勇者だったのだ。ヴェーダーという世界を股に駆けて殺戮する、おぞましい魔王に抗う勇者達だった。聖剣の代わりに生存装甲が与えられるも、しかしそれを自覚する事は無く。強い意思と覚悟を持って、強大な敵に立ち向かった勇者達なのだ。


 顔を暗くしたヅヱノは塔を降りて、白亜の街の外に出る。そして歩いてきた道を遡り、彼は燃料蔵槽から出て自室に戻った。自室に入ってすぐ、写真立てが目に入る。三姉妹が写る写真だ。ヅヱノがギエムを攻撃する、理由の一つになっていたものだ。


「これは……誰なんだろうな。人の姿である以上、ギエムって訳ではないんだろうが……いや、まてよ。本当に、そうなのか?」


 ヅヱノが持つ写真は、二枚とも同じ姉妹を写した物だ。

 そしてあの塔にある部屋の主が写真の持ち主だとしたら、小鬼の世界にいたギエムの持ち物と考えるべきだ。だが小鬼の世界における人間のような生物の正体は、知性の欠片もない害獣だ。


 つまりこの写真は、害獣を着飾って撮った写真になる。だが普通に考えれば、そんな非合理的なことはしない。それにヅヱノには、この三姉妹が単なるケダモノとは思えなかった。知性的な感情を読み取れる表情に、無邪気な笑顔が並んでいる。


「もしかして……俺が、『俺の姿』が原因か?」


 ひょっとしてこれは自分用に『変換』されたものではないかと、ヅヱノは考える。あの子鬼が、もしヅヱノと同じ人間種であったなら。そうだった場合の容姿に、外見が書き換えられているのではないか。そう考えれば、この写真にも納得がいく。この三姉妹は、あの一室を『使っていた人』とその親族なのだ。つまりそれは、ヅヱノが焼き払った相手に他ならない。


「殺した相手の写真を後生大事に抱えて、殺す理由にしてたとはな。とんだサイコ野朗だ。倒錯的にも、程がある……遺した思い出すら、歪めるか。クソ野朗が」


 三姉妹の満面の笑顔、幸せな光景に気圧されるようにヅヱノは後ずさる。

 そして壁に背を預けて座り込み、ぼーっと正面の壁を眺める。

 何をするわけでもない、空虚な時間が流れていく。


 ヅヱノはふと尻に痛みを感じ、ポケットに手を突っ込んだ。中から出てきたのは、何の部品かも判らない金属片だ。ヅヱノが歩いている際、甲冑植物対策に投げつけていたものだ。もういらないかと、ヅヱノはダストシュートに金属片を投げ入れた。そしてダストシュートを閉じようとして、じぃっと暗い穴を凝視する。


 今落ちていった金属片は、輪廻転槽という場所に送られる。そのヅヱノが与り知らぬ場所で、金属片はひっそりと処理されるのだ。他のゴミと一緒に、何かしらの処理が施される。つまり、穴の先にはゴミ処理場がある。ヅヱノがこれまで関わろうとしなかった場所であり、自分は出入りしなくていいと考えていた施設だ。


 それが『都合が良い』とヅヱノが考えた事があった。ヅヱノは蒼蛞蝓のヴェード後に、その絶対燃料への激しい嫌悪感から、絶対燃料の配分変更をした。普段立ち寄らないからこそ、輪廻転槽に回収した全ての絶対燃料を注いだのだ。


 絶対燃料は、ンゾジヅを『進歩』させた。それはつまり、ンゾジヅも絶対燃料から産まれた存在である事の証明だ。ヅヱノが目覚める以前に、ンゾジヅは燃料蔵槽の合成植物よろしく誕生したのだ。どこかは判らないが、間違いなく艦内施設のいずこかでだ。


 もしも絶対燃料を蓄えた施設で、ンゾジヅが生まれたのだとしたら。似たよう存在が、生まれたりするのではないか。例えば『大量に絶対燃料を供給された輪廻転槽』で。ヅヱノの顔から、さぁっと血の気が引いていく。


 艦内の中でも、ゴミとされる物が集められた場所。もしもそんなゴミ溜めに何かが誕生し、誰とも会わずに日々を過ごしていたなら。そんな光景を想像して、ヅヱノはぞっとした。


 ヅヱノは確認しなければという、焦燥に駆られた。杞憂かもしれない、だがそうだとしても関係ない。蒼蛞蝓から奪った絶対燃料を、丸ごと押し込んだ場所だ。どんな施設であるのか、ヅヱノは確認する必要がある。その義務があると、ヅヱノは感じていた。


「ンゾジヅ。輪廻転槽って、俺は行けるのか?」

「可能です。今から向かいますか?」

「ああ、案内してくれ」


 ンゾジヅが、ヅヱノの前を歩き出す。

 いつもと違って、ヅヱノは彼女の背中を追いかけていく。

 楚々としているのに、脇から豊穣の証が揺れ動く魅惑の上半身。

 普通に歩くだけで周囲を威圧する、筋骨逞しい禽脚を持つ獰猛な下半身。


 相反する美女と野獣という概念を、骨盤を境に合体させたような身体。猛々しくも嫋やかであり、厳めしくも穏やかである。不思議と、ンゾジヅにこれ以上なく似合っている後ろ姿だ。


 その血肉を、宿る魂を、形作っているモノの崇高さが現れたような姿だ。

 汚らわしい怪物の心臓を担い、命を啜っていた卑しい脳髄とは違う。今にもその翼で清らかな空に飛び立ちそうな、手の届かない場所に行ってしまいそうな姿だ。いっそそうなって欲しいとさえ、ヅヱノは思う。彼女に世話をさせているという事に、自分のような存在がそれを強いている事に、ヅヱノは激しいストレスを感じていた。


 だがそれをンゾジヅに伝えても、彼女を苦しめる事にしかならない。

 ンゾジヅにとって、ヅヱノに奉仕する事こそが命題なのだ。

 そうなるように、彼女の意思は歪められているのだから。

 申し訳なさで、自然とヅヱノの目はンゾジヅから逸らされていった。


「到着しました」


 ンゾジヅの言葉にヅヱノが前を向くと、黒い扉が目に入った。その妙に機械錠の多い扉の前に立つと、機械錠が次々と開錠されていく。明らかに過剰と思える数の機械錠全てが外れると、扉がゆっくりと開き始める。


 扉の動きは妙に遅く、『開ける事を想定していない』とでもいうような速度だ。漸く開いた扉に入ると、そこは小部屋だった。そしてまた、目の前に白い扉がある。こちらも黒い扉のように、無数の機械錠で施錠されている。背後の扉が閉まって機械錠が閉じると、部屋を浄化光線が横断した。そして漸く、前の扉が機械錠を外し始めた。


 ヅヱノは浄化光線が通過した時、一瞬空気が変わったのを感じた。普段は肉体等を浄化する光線が、室内の空気も纏めて浄化している。つまりこの先にある空気は、一呼吸分さえも艦内に出したくないのだ。


 そんな工程が、二度三度と繰り返される。まるで『この先にある物は何としても出さぬ』というように。そんな厳重に封じられた通路を、二人はゆっくりと進んでいく。


 余りにも徹底した手順に、『そこまでの施設がこの先にあるのか』とヅヱノは戦慄する。それと同時に、いるかもしれない『ンゾジヅのような存在』へ罪悪感が強くなっていく。


 最後に残った扉は、入り口にあった物のように黒かった。

 これが最後の扉だと、ヅヱノは気を引き締めて機械錠が開くのを待つ。

 黒扉は全ての機械錠を外し、ヅヱノの目の前でゆっくりと開き始めた。

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