第37話

 人間――農婦は、農作業をしていた。柄の長い鍬を握り締め、さく、さく、と慣れた手つきで土を掻いていく。掻かれた土は柔らかく盛られ、蒔かれた種の優しい寝台へと変わっていく。そうして農婦は畝を一列作り終えると、すぐに次の畝へ取り掛かる。


 農婦の顔立ちは整っている方だったが、目の下には隈があり頬もこけている。疲労なのかあまり栄養が取れていないのか、心配になってくる線の細さだ。農婦とは思えない細腕ながら、その仕事振りは力強さを感じる。


 土を踏みしめ、鍬を振り下ろし、土を掻いて、畝を成形し、手の甲で汗を拭う。繰り返す作業は淀みなく、見る者に安心感すら与える。農婦は、畑の上で『生きて』いた。人間の営みを、農婦は空撮画面の向こうで、ヅヱノが向かう先で行なっていた。


 ヅヱノは胸の奥から溢れ出る、熱い気持ちを感じていた。乾いた砂漠の真ん中から湧き水が染み出すように、ヅヱノの乾いていた心は感動によって潤されていく。とっくに諦めて、探すことすら放棄していた生存者。それが、今まさに目の前にいるのだ。


 人が生きているかもしれないという願望を抱き、勝手に落胆していた時とは違う。彼女が無事であるのは、一目瞭然だった。これを喜ばずして、いつ喜ぶか。ヅヱノは漸く間に合ったと、安堵した。だがすぐに、綻んでいた顔が強張る。


「ギエム、は?」


 そう、ギエム。人類に敵対する、人類の仇。

 ギエムがいたから、ヅヱノは人を助けられなかった。

 ギエムがいるから、ヅヱノはこの世界に来ているのだ。

 そもそもヅヱノは、『ギエムの反応を追って』彼女を見つけたのだ。


「どこだッ!! ギエムは!」


 電探画面を見ると、確かに農婦のいる位置にギエム反応がある。

 だが空撮画面を見ても、ギエムの姿はどこにも見当たらない。

 その理由に思い至り、ヅヱノの顔から血の気が引いた。


 今まさに、農婦の足元にギエムがいる。農婦が立っている畑、その直下に潜んでいるのだ。ヅヱノは慌てて、推力桿を最大まで倒した。ヴェーダーはかなりの速度で前進しているが、それでも彼は遅く感じる。気持ちが逸り、全てが遅く見えてくる。


「……急げ、急げ、急げっ」


 間に合わなければ、また前の世界の焼き直しだ。ヴェーダーの本分は報復にあると、ギエムに八つ当たりする時間が始まる。ヅヱノが望む人の救済とは程遠い、ヅヱノの気持ちを整理する為の殺戮が始まってしまう。


 ヅヱノは視認できる、生々しい希望に縋っていた。惨殺された街の住人達や、もう写真の中にしかいない三姉妹、そんな人々を今度こそ救える。目の前に人参を吊るされた馬のように、ヴェーダーを一心不乱に走らせる。


 空撮画面の中で、農婦はまだ呑気に作業を続けていた。自分の目と鼻の先に、ギエムが隠れているのに。足下に潜む死の危険を察知できず、彼女は緩慢な単純労働に精を出している。手を止め、トントンと肩や腰を叩く余裕すら見せていた。


 だが農婦は、突然何かに気づいたように周囲を見回した。

 そして農婦はその場にしゃがみこんで、不安そうに周囲の畑に視線を巡らせる。

 ヅヱノはギエムの襲撃かと力むが、すぐに考えを改めた。


 それは、ヅヱノが推力桿を最大に倒した成果だった。ヴェーダーの歩みで畑が揺れる程に、農婦へと近付いていたのだ。農婦はハッと右に首を向けて、じぃっと目を凝らしている。その目が、段々と驚愕に広げられていく。


 ヅヱノは空撮画面から目を離し、隔壁画面の地平線へと拡大釦を動かす。映像は一気に地平線へと進み、農婦の目が開ききる様を映す。ヅヱノの逸っていた気持ちが安堵の息に変わり、膝の力が抜けてしまいそうになる。危機感で途絶えていた熱い感情が、再び胸の奥からじわじわとこみ上げてくる。


「間に合った……漸く……よう、やく」


 最初にヲズブヌで目覚めて、初めてのヴェードに移る直前。画面の中でギエムの蛮行を見た時に、ヅヱノはギエムを殺さねばと心に決めた。だがそれは、同時に殺される人の救済も伴っていた。襲うモノを排除すれば、襲われるはずだったヒトは生かされる。ごくごく、単純な理屈だ。だが、一度も成功はしなかった。


 理由は単純、ヅヱノは常に『ギエムの殺戮後』に到着したからだ。ギエムは人を殺したからギエムなのだと理由付けし、救出は間に合わない物なのだとヅヱノは納得した。しかし状況を端的に表現するなら、常にギエムに先を越されてきたのだ。


 だが今回は、この世界では、ヅヱノはギエムに先んじた。いつもならこの農婦が殺された後に、おっとり刀で駆けつける破目になっていた。それが今日は、先回りしてギエムを待ち構えることができる。救う為の戦いを、する事ができる。


 ヅヱノは喜びに身を震わせたが、気を引き締めて推力桿を引き起こす。今の状況は、ギエムより先行できたというだけ。農婦を守れた訳でも、無事にここから逃がした訳でもない。気を抜けば、今度は目の前で殺される。それだけは絶対に避けねばと、ヅヱノは意気込む。


 農婦は近付いてくる巨大な怪物に凍りつき、目の前で止まると遂に腰を抜かした。ヅヱノは申し訳なさを感じつつも、索敵と警護に移る。ヅヱノは操首桿をぐりぐりと回し、首をグネグネと動かして農婦の周りを見る。


 ギエムの姿を視覚では捉えられない以上、いるとすれば地下だ。小鬼の地下通路よりも高度に地中移動する、モグラかミミズのようなギエムなのだ。だがヴェーダーに備わっている装置の中に、地下のギエムを探る物はない。水平方向の位置関係は確認できるが、垂直方向へはできない。そもそも、ヴェーダーには地下への攻撃手段がないのだ。


 このままでは後手に回ってしまう。だが取れる手段といえば、ギエムが顔を見せた瞬間に殺す程度だ。だがヴェーダーの火器は、農婦を避けてギエムのみを撃つには威力過剰だ。最も威力の低い奇環砲とて、容易に農婦を巻き込む火力を持つ。


 だが何もしないよりはマシだと、上口から奇環砲を吐かせる。農婦は怪物の口から現れた近代兵器に、ますます身を縮こまらせた。そしてヅヱノは、ギエムが顔を出すのを待った。威嚇で追い払い、農婦より遠ざけてから殺す為に。


 そんなヴェーダーと見えざるギエムの睨み合いは、十分以上続いた。ヅヱノは敵がこれまでで最も忍耐強く、狡猾なギエムだと感じる。今までならヴェーダーを近づけると、ギエムは呑気に姿を現した。このように人間の陰に隠れて、ヴェーダーの姿を目視すらしないなど初めてだ。


 だがこの睨み合いは、先に折れた方が負けだ。農婦は間に立たされたままで、今にも気を失いそうなほど顔面蒼白だ。ヅヱノはできれば農婦を逃がしたかったが、農婦が動くと逆三角も動く。逃がすに逃がせなかった。


 そうしてヅヱノとギエムが静かな戦いを行なっていると、次々と探知画面に逆三角が増え始めた。ギエムの大群が、畑に向かって来ている。ヅヱノは農婦越しのギエムを睨みながらも、黒鳥の進路をギエムの大群へと向ける。


 黒鳥が畑を越えたところで見つけたのは、鋼の大群。戦車や兵員輸送車といった、機動性に長けた機甲戦力だった。陸軍の展示場で見かけて以来の、現代的な兵器の行進だ。ヅヱノは思わず、目を奪われる。人類が完成させた英知の結晶に、感動すら覚えた。


 興奮していたヅヱノの顔が、さっと苦々しいものに変わる。機甲部隊と重なるように、逆三角が動いているのを電探画面で確認したからだ。まるで車輌の底に張り付いているかのように、逆三角はぴったりと装甲車両を追いかけている。


 ヅヱノは人類の援軍を頼もしく思うも、しかし不安は残った。現代兵器とて、ギエムへの確実な切り札とはならない。ましてや直下のギエムに気付かない彼らでは、戦力として数えられるかどうかも怪しい。むしろ『人質』が増えただけ、そんな考えすら浮ぶ。だがその上でヅヱノは彼らと共闘し、守ろうという覚悟も抱いた。


 地平線から現れた戦車達は、ヴェーダーを見て動きを乱す。だが動揺は一瞬で、まるでヴェーダーを取り囲むように位置取りしていく。敵視されているのは、ヅヱノにもわかる。突然このような怪物が現れては、敵としか思えまい。彼らも農婦の安全を考え、攻撃を待っているだけなのだ。


 ヅヱノは砲口を向けられるも、攻撃するつもりはなかった。仮に撃たれたとしても迎撃するつもりはない。敵はギエムであり、現地の軍隊ではないのだから。しかしその肝心のギエムが、未だに見つからない。


 電探画面が、急激に近付いてくる別の逆三角を捉えた。地平線から現れたのは、戦闘機だった。翼下に吊られた航空爆弾を見るに、戦闘爆撃機である。目的は偵察か攻撃かはわからないが、二機一組で真っ直ぐこちらに飛んでくる。ヅヱノは戦車があるのだから、戦闘機もあるかと納得した。だが、ふと違和感に手を止める。


 あの戦闘機は、高速で空を飛んでいる。だというのに逆三角は、戦闘機と完全に重なっていた。ヅヱノはこの世界のギエムが、『地中を移動している』と思っていた。そうであるなら、なぜ『空を飛んでいる』戦闘機を追いかけられる。それも、全く同じ速度で。


 仮にこの反応通りにするなら、ギエムは機体にしがみつく必要がある。だがギエムの姿はなく、だというのに逆三角はぴったりと戦闘機を追っている。戦闘機を観察すればするほど、ギエムの気配が見当たらないと判明する。それと同時に、ヅヱノの顔色が急激に悪くなっていく。


「……いや、まさか」


 そんなはずはない。そんなバカなことが、あるはずがない。

 ヅヱノは自分にそう言い聞かせながら、操首桿を動かした。

 ヴェーダーの首を動かし、農婦を左右から見る。農婦が怯えて右往左往すると、逆三角も同じように右往左往した。農婦の動きと、逆三角の動きは、『完全に一致』していた。


「…………これが、『ギエム』?」


 人だった。

 何の力もない、農婦。

 だが逆三角の記号は、彼女を殺せといっていた。


「ち、違う、何かの間違いだ」


 もう少し、もう少しだけ。確認したい、調べたい。違うと証明したい。

 だがヅヱノが情報を求めるほどに、農婦が怯えて後ずさる毎に、証拠は揃っていく。

 彼女が、彼女の同胞が、『ギエム』であるという証拠が。


『警報:敵襲:乙標的:攻撃態勢』

「ッ!!」


 ヅヱノが警報に頭を振り上げると、戦闘機が急降下していた。

 威嚇で飛び込むような角度ではない。普段翼竜が行なっている、終端誘導に近い急降下だ。だが終端誘導と違い、機銃掃射か投弾を行なうつもりなのだ。そのまま戦闘機に攻撃させれば、流れ弾が農婦に当たるかもしれない。


 ヅヱノは咄嗟に操首桿を引き起こし、引金を引いた。威嚇のつもりだった。

 だが散々ギエムを狙った腕は、反射的に射線を戦闘機に合わせていた。

 連なる弾丸の線が、戦闘機を縦断する。機体は爆竹のように弾け飛び、遅れて引火した燃料が火の玉を作った。


「……あ」


 ヅヱノは呆然と、見上げていた。

 戦闘機は、鉄の雨となって降って来る。ヴェーダーの装甲槽で跳ねる破片、それには人間が乗っていたのだ。ヅヱノは実感が湧かなかった。人を殺したのだという感覚が。あまりにも唐突で、そして『いつも通り』過ぎていて。


 だが、はっとしてヅヱノは首を下ろす。農婦は、隙を見て這う這うの体で逃げている。ヅヱノはその逃げる背中を見て、安堵の気持ちに包まれた。仮に農婦が『ギエム』だとしても、ヅヱノは彼女を殺すつもりが無かった。このまま逃げてくれとすら思っていた。だが農婦は、突然躓いて転んだ。そして倒れたまま、起き上がらない。


 農婦は、ピクリとも動かない。

 赤黒い染みが、彼女の服に広がっていく。

 拡大釦を圧し折るように押し込むと、頭に何かが刺さっているのが見えた。

 ヅヱノが撃墜した機体の欠片が、彼女の頭に当たったのだ。


 農婦は死んだのだ。

 ヅヱノが撃ち落とした戦闘機の破片で、間接的に殺されたのだ――ヅヱノによって。


 あの戦闘機の行動の意味を、今更ながらにヅヱノは理解した。ヴェーダーが首を農婦へ近づける姿を見て、農婦を食おうとしていると勘違いしたのだ。無力な農婦を守ろうと、決死の攻撃でヴェーダーの気を逸らせようとしたのだ。


 ヅヱノが焦って戦闘機を攻撃しなければ、農婦は死ななかった。あの戦闘機の銃撃を受けて、そのままやり過ごせば。恐らく戦闘機は、ヴェーダーの装甲槽を多少削るだけで終わった。農婦と戦闘機乗り。ヅヱノは一度に二人の『人間』を殺したのだ。


『警報:敵襲:乙標的:遷文速攻撃:第五文明速度:Cs5141』

『敵襲直撃:一番頭部:一番頸部:二番頭部:二番頸部:三番頭部:三番頸部:中央基部:機体損傷:装甲槽数:253』


 ヅヱノの脳が目の前の現実を飲み込む間も無く、鋼の山が噴火した。寸法が揃えられた火山弾が、意思を持ったようにヴェーダーへと飛んでいく。指向性を持った文明の火砕流が、ヴェーダーの表面に到達する。


 更に上空では爆装した戦闘機が来襲し、続々と爆撃に加わっていく。

 装甲槽が、隔壁画面が、舐めるような爆炎で覆い尽くされた。

 殺意が、敵意が、轟音を伴ってヴェーダー――ヅヱノに突き刺さる。


「違う、そんなつもりじゃなかったんだ……そんなつもりじゃッ」


 まるで自分の物ではないかのように、手が固まる。

 あれほど滑らかに動いていた手足が、微動だにしない。

 砂漠のど真ん中で行き先を見失ったように、何もできない。

 ヅヱノはヴェーダーの動かし方を忘れたように、まごついている。

 操首桿を握るというよりも、溺者が藁を掴むように『縋って』いた。


『緊急警告:艤核異常:反応悪化:自己診断:診断中……、……、……』


 攻撃したくない。殺したくない。故意ではなかったのだ。そんな通らぬ言い訳を、ヅヱノは脳内で繰り返す。ヅヱノの頭上からは等身大の殺意が急降下し、身体を押し潰すような感情が無数に迫ってくる。ヅヱノの錯乱状態に陥りかけた精神を、更に近代兵器の砲火が削り取っていく。


 ヅヱノの『人類の復讐者』という自己認識が崩れていく。

 濫用した街破壊の免罪符が、護摩木のように燃え尽きる。

 ヅヱノの精神が蜂の巣にされ、ボロボロと崩れていく。


『緊急警告:艤核異常:反応悪化:自己診断:……、……、……診断完了:規定抵触』


「違う、違う……違うんだ、俺は……違う、違う違う……そんなつもりじゃ、そんなつもりじゃ……違うんだ、違う……違うッ」


 ヅヱノの咥内で無意味に繰り返される、支離滅裂な言動。

 それは次第に、作為的に、別の方向へとねじ曲がる。

 孔だらけになって、崩れかけるヅヱノの精神に、何かが注がれ始めた。


『緊急警告:規定参照:艤核規定:確認完了:対策選定:艤核増速:増速開始』

「違う、俺はただ、ギエムを……いや、『敵』を殺しに……あ、敵? 敵、敵? 攻撃するのは敵、だぞ。アレ、敵だ。アレは……『敵』。敵、敵敵、敵テキてき」


 ヅヱノの心に開いた穴を、黒く淀んだ、硬く生暖かい物が、埋めて繋ぐ。

 ヅヱノの暗い瞳が、亡者の眼窩のような瞳孔が、鈍色の群れを映した。

 縋りつくだけだった操首桿を、猛禽が小鳥を掴むように握りこむ。


「……敵、殲滅……敵、……滅、……殺! ……ッ! ――ッッ!!」

『緊急規定:艤核増速:増速完了』


 理性的な意味のある言葉は、急激に野生の吐息へと塗り替えられる。

 ヅヱノの喉から人語は消え、生存本能だけが歯の隙間から漏れ出した。

 ヅヱノの人差し指が、何かを断ち切るように引金を引いた。

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