第31話
朝露に包まれた森。
薄暗い森の懐には、青臭い風が流れている。
ヅヱノは湿った草の絨毯に寝転がり、木漏れ日を見上げていた。
チロロロロッと、聞いたこともないような鳥の鳴き声が頭上から降ってくる。それを木々が真似するように、四方八方からこだまが返る。鳥は気分よさそうに独唱会を続けるが、気持ちよく囀っていられたのは一分かそこらだ。すぐに必死な鳴き声に変わり、がさがさばさばさという逃走劇が幕を開けた。そんな必死な生存競争も、環境音の一つである。
鬱葱と茂る樹冠に、太陽が優しく包まれている。『屋内』にある太陽だというのに、遥か彼方で輝いているような存在感がある。そんな太陽の輝きにさえ負けない、植物の生命力が周りに満ちている。ヅヱノはおもむろに、拳銃を持ち上げた。
ヅヱノは引金を引き、撃鉄を落とす。
カツン――ッと、撃鉄がフレームを叩く音が森に響く。
ヅヱノは弾の出ない拳銃を太陽に向けたまま、何度も撃鉄を落とす。
まるでメトロノームのように、ヅヱノは規則正しく撃鉄で打擲音を奏でる。
金属音でゆり落とされたように、遥か頭上の葉から滴が落ちてきた。静寂を打擲した事への抗議をするが如く、ぴちょりとヅヱノの鼻先を叩く。ヅヱノは飛沫に目を細めるが、拭ったりはしなかった。
続いて二滴三滴と雫がヅヱノの顔を叩き、頬を伝って降りていく。ヅヱノはようやく葉に手を伸ばし、傍の茂みを引き寄せた。滴を受ける葉っぱ越しに、ヅヱノは天を仰ぐ。木漏れ日が葉をセロファンのように透かし、張り巡らされた葉脈が浮き出る。ヅヱノは葉脈をなぞるように、葉の裏を親指で撫でた。そして意味もなく、くすりと笑う。
この森は合成植物の生息域が点在しているが、大半は普通の草木が生える森だ。自分の遺伝子を勘違いしたような色物は、案外少ないのだ。だがそれは植物に限った話で、動物は色物しかいない。二輪怪獣はいわずもがな、一見普通の動物でさえ一皮むけばショートケーキだ。
ヅヱノに森林浴の趣味は無い。だがこの日ヅヱノは、無性に自然の空気を浴びたくなった。普段なら何かしらの変化が訪れたであろう燃料蔵槽は、ヅヱノがヴェードに行く前と何ら変わっていない。変化無しというのは本来退屈で、不満に思う状況だ。だがヅヱノは変わらない環境に、最高に満足していた。
何しろくどい青臭さの森には、『蒼蛞蝓の絶対燃料』が一切ないのだ。身を横たえる草陰にも、服にしみこむ朝露にも、折り重なる深緑にも、澄んだ空気にも、森を構成する全てに蒼蛞蝓の絶対燃料は含まれていない。蒼蛞蝓の残滓を、一切気にせずくつろげる。ただそれだけで、ヅヱノには世界が一層美しく見えていた。
ヅヱノはその悦びを満喫する為に、森の片隅で寝転がっていた。軽い昼寝を挟んだが、まだまだこの場で寝そべっていられる。何か別方向に『突き抜け』つつある自覚はあったが、ヅヱノに辞めるつもりはない。森林浴万歳と、彼は不健全な喜びに浸っていた。
そうしてヅヱノがくつろいでいると、ピクリと彼の眉が動いた。
ミシッミシッと、木の根が悲鳴を上げる足音が近付いてくる。
足音の主は、予想通りンゾジヅだった。
「はりあー、しょくじ」
「ん、ありがとう」
彼女が抱えているのは、いつもの料理の実だ。殻を千切られた上に、食器が刺さっている。香ばしい匂いからすると、揚げ物かなにかだ。受け取った木の実には、天丼が入っていた。キスのような天ぷらが、豪勢に盛られている。
「うま」
さくりと、ヅヱノは熱々の衣に歯を立てる。ふかふかとした身は、滑らかでクリームのようだ。それでいて噛み締めていると、身が解れていくという食感を味わえる。衣に掛かったカツオ出汁のようなタレが、甘みのある身の味わいを引き締めている。
タレが染みた米と一緒に口に含むと、口の中でなんともいえない絶妙な混ざり具合になる。ヅヱノはもっしゅもっしゅと咀嚼し、咥内に旨味を広げていく。『異物混入』の心配がないおかげで、より一層おいしく感じられる。
ヅヱノが安心安全の美味を噛み締めていると、ンゾジヅも傍でもしょもしょと食べ始める。だがンゾジヅはふと手を止めると、突然しぱっと横蹴りを放った。
「でざーと、とれた」
「お、流石だな」
「うー」
そして折りたたんだ足の先には、親指ほどの小ネズミ風生物が暴れていた。ンゾジヅは皮を器用にむくと、口に放り込んでゴリパキと咀嚼する。見た目は凄惨だが、ンゾジヅの咥内に溶けていく味は『黒い稲妻』だ。その顔も、菓子に顔を綻ばせる女子そのものである。
蒼蛞蝓の気配さえ嫌うヅヱノと違って、ンゾジヅは仮に蒼蛞蝓が丸々入っていても気にしない。それが食べられるものであれば、今のように躊躇なく口にする。最近ンゾジヅは小動物を捕まえては口に運ぶようになりつつあり、蛞蝓であっても同じなのは想像に難くない。衛生的に考えると褒められた癖ではないが、この燃料蔵槽に限っては問題ない。
燃料蔵槽では、ばい菌、ウイルス、寄生虫といった、衛生的に害をなすものが軒並み存在していない可能性があるからだ。ヅヱノは暫く燃料蔵槽で活動しているが、未だ物が腐る光景を見た事がない。発酵食品は料理の実で確認しているが、生ものを放置しても一向に腐る気配がないのだ。
腐敗しうるものは、気がついたら消え去っている。菓子動物が食べているのかもしれないが、その菓子動物も死骸が微生物に分解される過程がない。誰かの胃袋に収まるか、その場に残り続けるかだ。森に腐葉土という結果はあるのに、腐るという過程が見当たらない。文字通りの『ミッシングリンク』なのだ。もしこれが事実なら、衛生対策を全く無視して食品を保存できる。
しかし腐敗現象が発生したとしても、燃料蔵槽の食べ物が腐るとは限らない。例えば本来最も腐りやすい動物の肉だが、この再構築層の菓子動物は腐りにくい。何しろ菓子動物は、皮から下が丸ごと砂糖たっぷりの菓子に置き換わっているからだ。
砂糖同然の体というのは、微生物の苗床としては適さない。砂糖という物質が、微生物の活動に必須の水分を奪ってしまうからだ。古来より砂糖漬けという保存方法があるのも、砂糖という食品が強度の防腐剤になるからだ。砂糖とは強力なエネルギー源であると同時に、純度が上がると生物を寄せ付けなくなる物質でもある。
とはいえ防腐機能を百パーセントにするには、ほぼ『砂糖のみ』にする必要がある。普通の菓子で使われる量では、防腐能力が不十分だ。特に甘さ控えめな生菓子は、非常に腐りやすい。だがそうした足が早い部分でも、菓子動物は腐る兆しが無い。
そもそも料理の実がずっとできたて熱々状態であるように、菓子動物の肉体も『最良の状態』で維持されている可能性が高い。だがもしそうなら微生物が存在する可能性も出てくるが、顕微鏡等で調べない限り判別できない事だ。
野生動物にありがちな寄生虫についても、ヅヱノは仮に存在しても心配はないと考えている。何しろ菓子動物の身体は、『肉』ではない。肉に寄生する寄生虫は、人間にとっても害だ。しかし『菓子動物の寄生虫』が、ヅヱノやンゾジヅに寄生するのは難しい。
寄生虫というのは消化能力を宿主に依存するなど、単独では生存できない欠点を抱える。宿主から最大限に恩恵を受けるには、宿主に近しい肉体を持つ必要がある。菓子の身体に寄生できるなら、糖液やホイップクリーム等から直接栄養を得ている事になる。
もしも菓子動物に寄生虫がいるとしたら、その身体は宿主と同じ菓子でできている。食べた所で、消化されて終わりだ。上手く傷口から潜り込めたとしても、肉の身体に適応できない。寄生虫というのは非常に繊細であり、どこでも生きられる逞しい生物ではないのだ。それができるなら、そもそも寄生していない。
故に多少ばっちくても安心。そうした雑な考証で、ヅヱノは衛生問題に納得をつけた。だがヅヱノが安心する最大の理由は、浄化光線の存在である。風呂代わりに使っているお掃除光線を浴びれば、害をなそうとする物も軒並み消し去ってしまう。排泄物含めた老廃物を除去する謎光線なら、寄生虫やウイルス等も一撃だ。だからこそ、ヅヱノは呑気にンゾジヅの捕食風景を眺めていた。
ヅヱノがキス丼を一杯食べ終わる頃には、ンゾジヅは三つ目の木の実を貪っている。彼女の口先では必死にキスの尻尾が揺れていたが、力尽きたように咥内へ消えた。ンゾジヅは衣から染みた油で照った唇を舐めると、ごそごそと懐をまさぐる。
「……でざーと」
ンゾジヅが出したのは、〆られた野鳥だった。ハゲワシのような、中々立派な大きさの鳥さんだった。突き出された勢いで翼がびろんと垂れ、据わっていない首がぶらぶらと揺れている。恨めしそうに眺めてくる虚ろな瞳から、ヅヱノはそっと目を逸らす。
「少なめでいいぞ。もう割とお腹一杯だし」
「……はりあー、しょうしょく。たべると、げんきでる」
(……ンゾジヅは食べすぎな気もするがな)
ンゾジヅは野鳥の脚を握ったまま、総排泄口辺りに指を引っ掛ける。そして勢いよく、指を引き降ろした。するとずるぺっと皮が捲れ、ゴム手袋のように綺麗に剥がれた。中身は一見すると普通の肉に見えたが、香ってくるのはチョコレート臭だ。
ンゾジヅは道具を使わず、その指一つでぺきぱきと野鳥の身体を取り外していく。そしてヅヱノが摘みやすい形へと、小さめに取り分けていく。大きさや形もそうだが、何より種類を重視して選んでいる。あまり食べられないと申告した、ヅヱノの意を汲んだのだ。あっという間に、小皿一つ分のお菓子盛り合わせが完成した。
差し出された小皿は、色とりどりの菓子が手の平サイズに納まっている。色合いは赤系統が多い。紅系統というと、ヅヱノとしてはベリー系が思い浮かぶ。ストロベリーとか、ラズベリーとかそのあたりだ。透き通った菓子が多く、飴なのか、グミなのか、ゼリーなのか、見ただけでは今一判別できない。だが共通して、チョコレートの甘い香りが漂っていた。ヅヱノは用意してもらった一皿を受け取る。
「ありがとう、いただくよ」
「どーぞ」
まず、一番天辺に置かれた菓子に手を伸ばす。口に含んだ途端、一気に咥内に甘く爽やかな香りが広がる。見た目通り、苺系の菓子だった。まるで瑞々しい苺を口に含んだ時のような、外側から内側へと至る味の変化が一粒に再現されている。チョコレートの香りがなければ、苺をそのまま菓子にしましたといわれても肯ける味だった。
薄くチョコレートを絡めた、熟れた苺を噛み締めているような味だ。苺の瑞々しさと甘みが前面に出ていながら、しかしほんのりとチョコレートの風味が存在感を主張する。苺を主役としながらも、絶対に隠れないチョコレートの香り。苺とチョコの甘みが絡み合ったかと思えば、苺の酸味とチョコレートの苦味に解れる。ヅヱノは、口の中で手品でもされているような気分になった。不思議で甘美な時間は、鼻から苺チョコの香りが抜けていく事で終わりを迎えた。
次にヅヱノは、チョコレートケーキらしきものを匙で掬いとって口に運ぶ。チョコレートクリームのコクがある甘みが、滑らかに舌を覆う。そこに甘酸っぱいベリーソースが垂れ落ちた。クリーミーなチョコレートの甘さが、ベリー系の酸味に掻き乱される。
ラズベリーにも似た風味のソースで、味蕾を強く刺激される。酸味が強めだが、甘さがしっかり補助している。顔を顰めるほどの酸っぱさはなく、味のアクセントとして楽しめるぐらいに抑えられている。それが乳脂由来のホイップクリームに溶けたチョコと絡み合い、二つの味が一体化していく過程を楽しめる。
新鮮なフルーツを載せるのとも違う、煮詰めて味を濃厚に調整したソースならではの味の混ざり方だ。口の中でいかにして味が混ざるかを熟慮した、菓子職人の研究が表れたかのような一口だ。
他の菓子も、素人のヅヱノにも手の込みようが判る品々ばかり。菓子動物が元気に野山を駆け回るだけで、これらの逸品が体内に生み出されるのだから驚きだ。だが燃料蔵槽の生物は、植物や動物を食べて血肉を作る生き物とは根本的に違う。同列に比べられないと判っていても、ヅヱノはついついそんな事を考えてしまう。
「おなか、いっぱいー」
「そうだなー」
ヅヱノはもう少し思索に耽っていたかったが、もうンゾジヅは食後モードだ。食後モードといっても、昼寝がしたくなるとかではない。むしろ逆だ。昼寝『させたがる』。ンゾジヅはまるで枕を手繰り寄せるように、ヅヱノの胴体に手を回して引き寄せた。そしてがっちりと雄型を雌型に嵌める様に、ヅヱノの身体は抱きこまれる。
最早慣れたという達観した目で、ヅヱノは南半球と太腿の間に収まる。頭や肩をずっしりとした重量物が押さえ、下からもしっかりと支えられる。更に彼が前後左右に倒れたりしないように、彼女の腕ががっちりと腹を押さえていた。ンゾジヅはあらゆる方向から、万力のようにヅヱノを固定している。
これがンゾジヅの食後モード。『ハリアー絶対寝かすンゾジヅさん』だ。ンゾジヅはなぜかヅヱノに昼寝をさせたがるようになり、一度付き合ってからは毎日の習慣となった。完全に幼児扱いだなとヅヱノは思っても、拒むつもりはない。
いつも甲斐甲斐しく世話をしてくれる事に対して、報いたいという気持ちがあるからだ。ンゾジヅが最も喜ぶことは、ヅヱノとのスキンシップ――世話だ。次点で食事、その次にゲームが入る。つまりンゾジヅのお世話に恩返しするには、ンゾジヅのお世話を受けねばならない。恩返ししようとすると、更なる恩を見舞われる。摩訶不思議なウロボロス構図が完成するのだ。ンゾジヅ式永久機関である。
いずれは彼女に別の楽しみを覚えて貰い、ヅヱノは真っ当な恩返しをするつもりだ。だが現状何かいい代案があるでもなく、ンゾジヅはされるがままになった。ンゾジヅの腕の中にも慣れたもので、最早ヅヱノは彼女の腕――と、南半球含め諸々に安心感を覚えている。
(まぁ……彼女に蒼蛞蝓の絶対燃料が流れこまなかったというのも、安心する大きな理由なんだろうけどな)
燃料蔵槽と同じように、ンゾジヅにも変化はなかった。今までの流れであれば、ンゾジヅはもう少し言葉がうまく使えるようになっていたはずだ。そうならず前回と同じままなのは、しっかり絶対燃料の再分配が機能したからだ。蒼蛞蝓の絶対燃料から、完全にンゾジヅを守れた証なのだ。ヅヱノは、自分で自分を褒めてやりたかった。
ンゾジヅはヅヱノにとって、この界宙戦艦で生きていく上で『最も大事な存在』だ。彼女に蒼蛞蝓の絶対燃料が流れ込むのも嫌だし、万一それを気にして隔意が生じるのも耐えられない。ヅヱノの勝手な好き嫌いで彼女の待遇を悪くしてしてしまう、そんな可能性を排除できた事だけでも喜ばしい。
気恥ずかしさを感じる温もりにも、気兼ねなく身を委ねられる。むしろ恋しさを感じるほど、ンゾジヅの世話を受け入れてしまっている。だからこそ蒼蛞蝓の絶対燃料を防げてよかったと、ヅヱノは心から思う。
後頭部に伝わってくるンゾジヅの心音、揺り篭のような動き。
まるでヅヱノの身体を知り尽くしたように、ンゾジヅは彼の意識を曖昧にしていく。
ンゾジヅの巧みな寝かしつけで招かれた睡魔に、ヅヱノは身を委ねた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます