第27話

 それは、かなり昔の話になる。

 彼に夢や希望しかなかった頃、毎日が向こう見ずな子供時代。


 その日は雨の日だった。

 記録的な大雨で、それは彼がいた街でも同じだった。辺りが白みがかるほど雨が濃く降り、傘が音を立てて重くなった。水たまりを踏むだけで心が躍り、溜まった水の深さを脚で確かめるだけで面白い。そんな子供の感動が、大安売りをしていた日だった。


 いつもの帰り道を、彼はちょっとした冒険気分で歩いていた。

 そして彼の意識が、自分が歩いている歩道の脇に向いた。


 そこは鬱蒼とした森――というには、小ぢんまりとした木立がある。木々もほぼ等間隔に植わっていて、有り体に言えば畑だった。植わっていたのが梅だったのか杏だったのか、彼は今一覚えていない。だがバラ科系の果実がなる木だった事は確かだ。


 畑の土は雨でぐじゅぐじゅになっていて、土が歩道に流れ出していた。彼は茶色い流れを目で追っていて、気付いた。白い欠片のような、何かが歩道に落ちている事に。これは何かと身をかがめてみた時、彼は理解した。それは、ナメクジだった。雨になるとどこでも這い回るそいつが、彼の足下にいたのだ。一匹だけではなく、隣にも、離れた場所にも、歩道の至る所にナメクジがいる。


 元々、彼はナメクジが好きではなかった。妙に湿った体に、手足もないのに壁に張り付く姿。蛞蝓の独特な性質を、彼は気味が悪いと感じていたのだ。アリやバッタは気にせず触れたが、ナメクジだけはどうしても触ろうと思えなかった。うわ、踏みたくないな。そう彼が考えて、ナメクジで溢れた道を迂回しようとするのは当然だった。水嵩は多いが車道側に出て、蛞蝓の群れを避けようとしたのだ。


 迂回を実行に移す寸前、彼は何気なく振り返った。そして彼が今まで歩いてきた道にも、ナメクジがいる事に気付いた。彼が進むのを断念した道と、さほど変わらない量のナメクジが群れていたのだ。彼は即座にその意味を理解し、青ざめた。彼は今まで、気付かぬ内にナメクジの海を歩いていたのだと。


 そしてこれだけ沢山ナメクジがいるのに、未だ一匹もふんでいない事などあるのか。既に自分はナメクジを踏んでいるのではないか。そんな疑念が、彼の中で瞬く間に湧き上がった。


 彼はいてもたってもいられなかった。慎重にバランスをとりながら左足を持ち上げ、靴底を覗く。見えたのは、何もない綺麗な靴底だった。杞憂だったのだと、彼は安心した。


 案外踏むものではないのだ。それに踏んでいたとしたなら、感触があるはずだ。つまりただの取り越し苦労でしかなかったのだ。そんな風に、彼は気を抜いた。そしてもう片方の脚を上げ、右足首を捻って靴底を見た。


 ぴろぴろぴろぴろぴろ


 そんな音が聞こえそうなほど、細かくひくつく白く平べったい何か。潰れた米粒のようなそれが、ぺリペリと巻き取られるように靴底から剥がれて行く。しかし重力に抵抗するように、それは靴底に半身をはりつかせていた。その半端な状態で、ひくひくひくひくと痙攣を繰り返している。


 それは、潰れたナメクジだった。一目で死んでいるようにしか見えないのに、生きているかのように痙攣している。絶対に靴底から離れないという執念を、彼は震える死骸に感じ――否、錯覚した。


 彼は衝動的に、靴底を歩道の縁に擦り付ける。何度も何度も、剥がれろ剥がれろと、縁石に足の裏を擦った。雨に濡れた滑りやすい歩道で、力いっぱい片足を擦らせていたのだ。ナメクジ剥がしに躍起になっていた彼は、当然のように軸足を滑らせる。


 衝撃と共に全身に激痛が走り、彼は水浸しになった。

 慌てて起き上がろうとした彼は、気づいてしまった。

 視界の端で、白いものがぴろぴろと動いているのを。

 ランドセルに、服に、脇に、肘に、膝に、手に、頬に、彼は『蛞蝓煎餅』を作っていた。


 そうして、彼のトラウマは完成した。


 彼は蛞蝓を見かけたら、一メートル以内には近付かない。必ず蛞蝓のいる場所を避けるため、雨の日は歩道に目を光らせて歩くようになった。蛞蝓は二度と寄らない、二度と踏まない。それが彼の蛞蝓対策だった。


 だからこそ彼――ヅヱノは、人間以上に大きい蒼蛞蝓に脳みそが拒否反応を起こした。見ているだけで、眼底や頭蓋を這い回られているような怖気が走る。ヅヱノは深呼吸して、選熕釦を押し上げた。


『銃郭:デススターブルドッグ:状態:待機:残弾:100』


 幸いなことに、ヴェーダーは兵器だ。そして主兵装は重火器。近付かなくていい、踏まなくて済む。やることは唯一つ、引金を引くだけだ。人差し指を曲げる、その単純な動作で対処できる。


『銃郭:デススターブルドッグ:状態:発射:残弾:100……90……80……』


 奇環砲が高速回転し、発砲炎が発煙筒のように焚かれる。ヴェーダーへと角を向けていた蒼蛞蝓が、一瞬にして爆煙に埋もれた。その煙が晴れると、蒼蛞蝓ごと抉ったように街の一角が消えていた。


「……ふぅー。……よし。よし。いいぞ。これならやれる、問題なく殺せる」


 存在の痕跡すら消し去るような攻撃は、ヅヱノの精神衛生上でも有効だった。それに問題なく攻撃する手段はそれだけではない。セレクタスイッチを偵察にあわせ、機龍を二機とも偵察で港湾都市に射出する。俯瞰地図が広がっていく空撮画面を見て、ギエムの位置を確認。セレクタスイッチを襲撃へ回し、機龍に眼下のギエムを襲わせる。なお主観映像にはせず、逆三角が消える事だけを確認する。


 近い場所にいるギエムへと、光線砲を吐かせたヴェーダーの首を向ける。街に流星が落ちると共に、連鎖的に爆発が起こる。地表に広がるような爆発を見るに、城塞都市と違って地下に入り組んだ施設がない。だからこそ、波紋が広がるように爆発が起きているのだ。


「……そういや、新しい銃郭あったんだった。試しに使ってみるか」


『銃郭:デススターマインスロア:展開:残弾:09』


 放熱中の光線砲を呑み込ませ、新銃郭を吐き出させる。出てきたのは奇環砲とは違う、大口径の迫撃砲のような兵器だった。照準線もかなり独特だ。直線の照準線に球体の加害半径がつき、その照準球を照準釦で前後できる。伸び縮みする、でかい林檎飴のようだった。とりあえず照準線を俯瞰地図で蒼蛞蝓の多い場所へ向け、その頭上へ照準球を移動させる。


『銃郭:デススターマインスロア:発射:残弾:09……08……07……』


 どんっどんっどんっと、断続して弾丸が飛び出していく。それらは殆ど直線に近い軌道で飛翔し、途中で花が咲くように爆炎を広げた。そうして街に花火が上がると、地表に何かが降り注ぐ。道や建物が土埃で覆われ、急激に蒼蛞蝓の反応が減る。花火は花火でも、燃え滓の代わりに散弾を撒く花火だったのだ。


『銃郭:デススターマインスロア:発射:残弾:……02……01……00』


 それが連続して、九発。続けざまに撃ち上げられた花火は、蒼蛞蝓の頭上に散弾の雨を降らせた。撃った辺りのギエムを一気に殲滅できる、非常に便利な機銃だった。しかし装弾数が少なく、炸裂位置まで指示する必要がある。咄嗟に使うのは難しい装備だ。


 ヅヱノが瓦礫の山に焦点を絞ると、物陰から蒼蛞蝓が這い出てくる。瓦礫を盾にして散弾を凌いだのだ。だが花火で撒かれたのは、散弾だけではない。その場から逃げようとする蒼蛞蝓の前で何かが跳躍し、空中でどかんと炸裂した。


「空中炸裂式の擲弾かと思ったが、クラスター爆弾みたいに子弾を撒くのか……それも、感応式の跳躍地雷だな。思った以上に、エグい兵器だ」


 子弾の爆発で蒼蛞蝓が破裂し、青い体液を撒き散らせて絶命する。そんな風景が、そこかしこで繰り広げられている。親弾の散弾で無防備な敵を排除してから、子弾地雷で隠れた敵に罠をかける。遮蔽物で散弾を防いでも、辺りは必死の地雷原に変わっている。二段構えの殲滅装置は、使用者のヅヱノさえ悪辣に感じた。


 だが同時に、ヅヱノは頼もしいと思った。何しろ適当に撃つだけで、敵を着実に排除できるのだ。開けた場所で敵が軟標的であったなら、これほど強力な武器もない。惜しむらくは、その遅すぎる装填速度だ。装填時間は砲郭よりも長く、奇環砲感覚で使うのは無理だ。最初に使いやすい奇環砲が来てくれて助かったと、ヅヱノは愛用の機銃に感謝した。


 次々と瓦礫で跳躍する子弾地雷を眺めながら、ヅヱノは尻尾を持ち上げ機龍を着艦させる。ロータリーボタンを補給へ回し、空撮映像を巻き戻して精査する。街の至る所を青蛞蝓が徘徊し、千切れた人体が転がっている。なるべく蒼蛞蝓の直視を避けつつ、ヅヱノは情報を集める。


 光線砲で焼いた場所からは、完全に蒼蛞蝓が消えた。擲弾砲を撃った場所にはまだ蒼蛞蝓がいるが、地雷で着々と減り続けている。瓦礫に隠れていた蒼蛞蝓だけでなく、逃げ惑う個体も地雷に引っ掛かっている。


「集中的に撃つより、一発ずつ撒いていった方が利口か? ……まぁ、直接見ずに済むのは助かるけどな」


 再び機龍を偵察で飛ばし、奇環砲で手近な建物を蒼蛞蝓ごと磨り潰す。蒼蛞蝓の直視を避けるため視点は照準線に置き、視界の端で蒼蛞蝓の姿を確認しつつの銃撃だった。そんな風に蒼蛞蝓を撃ちつつ、ヅヱノはふと電探画面に目をやり――眉を顰めた。


「……なんだこれ? 何でこんなにギエムが集まってんだ?」


 妙にギエム反応が集まっている場所があった。空撮画面で確認してみると、そこは街の中心部にある大きな建物だった。建物前の大通りには、人や蒼蛞蝓の死体が無数に折り重なっている。人の死体は鎧を纏っており、ここの兵士と思われる。彼らと蒼蛞蝓がした血戦の痕跡が、大通りに生々しく残されていた。


 そして戦いの軍配は、蒼蛞蝓に上がった。人間は死体しかないが、蒼蛞蝓はまだ多くが動いている。生き残りの蒼蛞蝓達は、建物の門扉に群がっている。閉じられた扉を、こじ開けようとしているのだ。


 ヅヱノは空撮映像を見ながら考える。一体ここは、何の建物なのかと。扉へ蒼蛞蝓が群がり、周囲には兵士が多数死んでいる。人や蒼蛞蝓の死体は他の場所でも見られるが、これほど高い密度で集まっているのはここだけだ。明らかに他とは違う。


「……中に、何がある? 何を守っていた……? いや、決まっているか」


 兵士達は襲来する蒼蛞蝓から、その身を盾にして建物を守っていた。そうまでして、兵士達は一体何を守っていたのか。ヅヱノは考え、一番高い可能性に辿り着く。蒼蛞蝓――ギエムがギエムである由縁、『人間の敵』。


 子鬼は住人を嬲り物にし、犬頭は人を食料にしていた。街の惨状を見る限り、蒼蛞蝓も人間に強い害意を持っている。そんな蒼蛞蝓が大量に集まり狙う物といえば、それは人であるはずなのだ。恐らくは非戦闘員――老人や女子供だ。兵士達は彼らを建物に押し込め、襲来する蒼蛞蝓から死力を尽くして守ろうとしたのだ。


 だが結果は――そう考えて、ヅヱノは気づいた。未だ蒼蛞蝓の群れが門扉の前にいて、建物内に侵入していない事に。


「……まだ、開いてない……って事は……もしかし、て」


 まだ中で誰か生きているんじゃないか、その言葉が漏れる。兵士達は死んだが、彼らが守ろうとした扉は開いていない。ならば閉じられた缶詰のように、まだ『中身』は無事な筈だ。


 溶接されたブリキ缶に詰められた、糖蜜漬けの白桃のように。その『入っているもの』は、辺りに転がる死体のように損傷していないはずなのだ。兵士達が守ろうとした姿のまま、守りたかった状態で建物の中にいる。その可能性が、非常に高い。


 生きた人。

 生存者。

 漸く、生きた人間に逢えるのだ。


 その可能性を見出した途端、眼の前に人参を吊られた馬のようにヅヱノは興奮する。ヅヱノは左旋板を蹴り、ヴェーダーの進路を件の建物へと向ける。そして推力桿を少しだけ傾け、ヴェーダーを静かに歩かせた。


 ヅヱノは内心一気に近づきたかったが、道中の蒼蛞蝓をしっかり始末していく。ヅヱノが取りこぼした蒼蛞蝓が、生存者を殺してしまうかもしれない。生き残った人々が襲われないように、徹底した掃討を行いながらの移動となった。


 万が一にも、生き残った人間が死ぬ事態は避けねばならない。建物前で命を落とした兵士の覚悟を、果たした功績を無為にするのは許されない。ヅヱノは短い時間とはいえ、曲がりなりにも人類種の復讐者をやっているのだ。そんな彼が人の残した希望を摘むなど、あってはならない。


 目につく蒼蛞蝓は奇環砲で潰し、区画ごと光線砲で焼き殺す。逃げ隠れする蒼蛞蝓も、向かってくる蒼蛞蝓も、徹底的に殲滅する。そうした作業を伴う道中を経て、ヴェーダーは建物前に到着した。なお建物前の蒼蛞蝓は、慎重に駆除した。具体的には操首桿を倒しての、頭突きである。ヅヱノは吐きそうになりながらも、ヴェーダーの鼻先でぷちぷちと蒼蛞蝓を潰した。生存者のためだと、顔面蒼白で蒼蛞蝓を全て処理したのだ。もうヅヱノは、一杯一杯だった。


「……さて、一体どうしたものか」


 蒼蛞蝓の血で染まった扉を眺めながら、ヅヱノは悩む。安全だから出てきてくれと、呼びかけるわけにもいかない。ヅヱノの言語は通じないだろうし、仮に通じた所で『言葉を弄する化け物』止まりだ。


 そもそもヴェーダー自体が問題なのだ。ヅヱノはヴェーダーが巨大兵器であると知っているが、現地人からすれば蒼蛞蝓を超えるバケモノだ。そんな桁違いのバケモノがいる外に、ノコノコ出てくる人間はいない。


 だがどうにかして、ヅヱノは中の状況を確認したかった。本当に無事な人間がいるのかという、確認もある。だがなによりヅヱノには、生きた人間を見たいという衝動があった。


 界宙戦艦の自室で目覚めてより、ヅヱノは一度も生きた人間を見ていない。ンゾジヅは人語を喋るものの、半人半鳥の異種族である。生きた人間の姿を見られるのは、鏡の中だけという有様だ。いい加減『自分以外の動く人間を見たい』という感情を、ヅヱノは抑えきれなくなりつつあった。


 ヅヱノはどうしたものかと悩みながら、周囲を警戒する。その過程で電探画面を見た時、彼の動きが止まる。電探画面には、目と鼻の先に無数のギエム反応があった。扉前の蒼蛞蝓を殲滅した事で、消えた筈の逆三角がまだ残っていた。


「反応……? 目の前って、この……建物の中か?」


 建物の前にいた蒼蛞蝓は、当然死んでいる。生き残りも見当たらない。それでもギエム反応があるという事は、蒼蛞蝓が扉の奥――建物内にもいる事を示している。


「……まさか、遅かったのか? ……いや、まだそうと決まった訳じゃない。部屋に立てこもってるとか、生きている可能性はある。まだ、持ちこたえている可能性はある」


 そう自分に言い聞かせつつも、ヅヱノは焦燥感を拭えない。早急に中を確認せねばならなかった。手荒であると判りつつも、操首桿でヴェーダーの首を動かす。慎重に下顎の先を建物に引っ掛け、ゆっくりと仰角を取っていく。みしみしめりめりと、建物の屋根が捲れていく。慎重に、セロテープを剥がすように、ゆっくりゆっくりと、操首桿を手前に引き起こす。


 そうして屋根を捲りあげると、ヅヱノはそっと静かにヴェーダーの顎を外す。

 屋根は崩れたりせず、アルミホイルのように押し上げられた形のまま止まった。

 ヅヱノは安全を確認してから、押し広げた隙間から中を覗き込んだ。

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