第15話

 ヅヱノは、ンゾジヅの腕の中で目覚めた。


 食後の腹が満たされた充足感と、人を駄目にするソファーのように暖かく支えてくれるンゾジヅ。この二つにより、ヅヱノは深い眠りに落ちていたのだ。心も身体も休まる、文字通りの安眠に彼は浸っていた。ヴェードの疲労が抜けきらぬ彼の体には、格別の休息だった。


「……」


 そんなヅヱノが、ムクリと起き上がる。

 目は寝惚けていて、ぼんやりと自室の内壁を見つめる。

 周囲を見回し、背後で自分を見下ろすンゾジヅの視線とぶつかった。


 ンゾジヅもヅヱノを寝かしつけてから、彼と一緒に寝ていた。

 だが彼が目覚める直前に、彼女は先んじて覚醒していた。

 寝惚けたヅヱノが起き上がる前から、見守っていたのだ。


 ヅヱノはじっと彼女と見詰めあい、ぺこりと頭を下げる。

 ンゾジヅも、つられるようにぺこりと頭を下げ――それから首を傾げる。


 ヅヱノは今、頭を下げた相手が誰かもわかっていない。よくわかんねーけどとりあえず会釈しとけという、ヅヱノの骨身に染みた処世術が発揮されたのだ。人物を判別するだけの脳機能が、未だ稼働していないという証明であった。


 それだけヅヱノは寝惚けながらも、自分が何で起きたかを本能的に察する。

 そして彼は何かをしようと、立ち上がりかけ――動きを止めた。

 ぼんやりとした瞳に、鋭い理性の光が宿り始める。

 彼の脳味噌が機能し始めたという印だ。


 ヅヱノの頭が回り始めると、その顔色は急激に悪くなっていった。落ち着かなさそうに周囲に視線をやり、どうするべきかと打開策を考える。彼の脳味噌は、稀に見る速度で回転していた。原因は、単純明快。


(……やっべ、クソしたい) 


 生理現象である。

 食べたら出る。

 それは極々当然の事だった。


 問題は、便所がどこにあるかという事だ。男女の記号で表示された、便利な『便所あるよ札』は通路では終ぞ見なかった。恐らくはどこかにあるのだろうと、ヅヱノは予想している。だがこの奇妙な施設だ、便所が無い可能性も捨てきれない。


 排泄関係の問題は、ヅヱノもヴェード前に考えていた。だが直後に来たヴェードで有耶無耶になり、ヴェード後は食事問題が優先された。そうして喫緊の問題が解決され、後回しにされていた排泄問題が顕在化したのだ。


 ヅヱノは立ち上がって、便所を探し回ろうとする。

 だがその脚はピクリとも動かず、ヅヱノは直立姿勢で停止する。

 ンゾジヅに不思議そうに見上げられながら、ヅヱノは内心呻く。


(思った以上に限界状態じゃねぇかよ、もっと前段階で起きてくれねぇかな俺の体さんさぁ……!)


 ヅヱノの便意は、既に一杯一杯だった。かろうじて括約筋が口を塞いでいる、水風船状態である。こんな状態になるまでグースカ寝ていた、自分の身体にヅヱノは腹が立った。だが呑気に憤ってもいられない。もう限界寸前だからだ。


 便所が見つからなかった場合、あの森で排泄するという最終手段もある。だがそれまでに、ヅヱノの括約筋が持つのかという問題がある。最終手段は、廊下で粗相する事だ。そんな中世暗黒時代のような事しとうないと思いつつも、その選択肢が現実味を帯びている。ケツが限界だった。


 ヅヱノは一縷の望みを掛けて、彼の最大の情報源に問う。

 便所は一体どこにありましょうか、と。


「うー?」


 なにそれ?

 そう言いたそうに、ンゾジヅは首を傾げた。


 単純に意味を理解できなかったのか、そもそもそんな施設存在しないのか。ヅヱノは前者であってくれと思いつつも、理性は後者なんじゃないのと無責任に判定していた。


 ヅヱノは、曲がりなりにも文明人の端くれである。彼はその自負があるし、そうした環境の中で育てられた。犬ですら野糞は問題視されるというのに、ましてや人間である。それも建物内でとなれば、動物扱いすらされかねない。人としての瀬戸際に、彼は今立たされていた。


 ひょこひょこと、情けない歩き方で少しずつ進む。少しでも大腸を刺激しないよう、括約筋に負担が無いようにと。負傷したペンギンの様に歩いていると、ぐいと手を引かれる。


「うー?」


 ヅヱノの只ならぬ様子に、心配そうに見守っていたンゾジヅ。だが彼が妙な歩き方を始めた事で、彼女の我慢が限界に達したのだ。腕を引かれて括約筋に軽くダメージを負ったヅヱノだが、努めて笑顔を作る。青白い、死にそうな笑みだった。


「……その、ね? トイレに行きたくてね?」

「……うー?」

「あの……ウンコしたいんだ」

「…………??」


 伝わっていないようなので、彼は身振り手振りで伝える。

 右手をお腹に当てたり、左手で何かが出る仕草をしたり。

 眉を寄せて見ていたンゾジヅだが、はっと何かに気付いた顔をした。


 そしてンゾジヅは、ヅヱノの股間に顔を近づける。

 ギョッとするヅヱノの前で、更に彼女がすんすん鼻を鳴らした。


 かがないで。


 そう頭に思い浮かべるのが、ヅヱノの精一杯だった。だがンゾジヅは止まらない。そのまま、耳をペタッとヅヱノのお腹に当てる。お腹の軽い圧迫感で、お尻側の栓がすぽんと抜けそうになった。彼の一握りの理性が、決壊を抑えた。だが大腸は、ぎゅるぎゅるごぎゅるんととんでもない悲鳴を上げている。もう出ますと、無慈悲にヅヱノに伝えていた。


 ヅヱノは、限界を感じていた。

 ヘリウムガスをパンパンに詰めた風船。

 その紐が切れて、ふわふわと飛んでいくような幻覚を見た。

 そしてヅヱノの身体も、物理的に浮かび上がった。


 ンゾジヅが彼を抱えていた。

 いつものぬいぐるみ抱っこではなく、お姫様抱っこだった。

 ヅヱノは括約筋に全神経を注いでおり、今の姿を気にする余裕も無かった。


 慌てて移動するンゾジヅが止まったのは、部屋の一角。壁を蹴りつけたンゾジヅの前で、シュッと壁が左右に開く。そして出てきたのは、少し大きめなシャワーボックスといった感じの個室だった。個室の上部に、監視カメラの様なレンズがある。だがそれだけだ。ヅヱノ待望の便器らしき物は無く、少なくとも便所でない事だけは確かだった。


 ここで漏らせばいいのかなと、最早文明人の誇りを放棄しかけているヅヱノ。

 その彼を抱き抱えたまま、ンゾジヅは個室内の一角を蹴り上げた。

 すると個室上部のレンズから、扇状の光線が放たれた。


 光の扇は上から下へ、煽ぐように降りて消えた。

 そしてヅヱノの便意は吹き飛んだ。

 すっきり爽やかであった。


「えっ」


 ヅヱノは思わず声が出る。お腹の圧迫感も、括約筋の限界感も消滅している。まるで全て夢だったかのように、便意の不快感が消え去っていた。ひょっとして限界を超えて、全部出したのかと思わず尻に手を這わす。だが何かが漏れている感じも無い。服の上からの確認ではあるが、彼の指先が『粗相』と出会う事は無かった。


「あ、ありがとう……下ろしてもらっていいか?」

「うー」


 お姫様抱っこにようやく気付き、理性が再稼働したヅヱノは下ろしてもらう。一仕事終えたというようなンゾジヅに離して貰い、改めて謎の個室を観察する。自室と同じように、殺風景な内装の個室だ。だがンゾジヅが蹴った辺りに、簡素なボタンが並んでいる事にヅヱノは気付く。その傍に印字された、謎象形文字にも目が行った。


「……浄化、光線? 体の汚染物質や、老廃物を除去するのか」


 ボタンを押してみると、再び扇状の光がヅヱノを通過する。只光を浴びただけのはずだが、これでヅヱノは便意が消えたのだ。実際に利用したヅヱノでさえ、未だ半信半疑である。その疑問を、謎象形文字が解消してくれた。


「つまりこの光線が、腸内の排泄物を消したって訳か……いや、排泄物だけじゃないな。身体も、妙にスッキリしてる。垢とか汗とか皮脂とか、そういった物も除去してるのか」


 つまりワンタッチで、便所と風呂を済ませられるのだ。ボタン一つで便意が消え、体が風呂上りの様に綺麗になる。界宙戦艦の内外で不可思議な物を見てきたが、これはとびきりだ。より身近な生理現象に纏わる事だからこそ、彼は特にそう感じた。


 一説によると、生涯で人は平均して半年から一年近く便所で過ごすという。人によっては、年単位で便所にこもる人もいる。仮に時間は短くとも、毎日関わりがあるのが便所だ。人が動物である以上、排泄行為とは縁を切れない。そんな一生について回る問題が、指でボタンを押す僅かな時間で終わる。革命だ。


 そして風呂は、便所以上に時間がかかる。軽くシャワーを浴びて、烏の行水で済ませる者もいる。だが逆に長時間入浴する者もいれば、日に何度も風呂で汗を流す人もいる。それもボタン一つで終わりだ。入浴自体が趣味でない限り、誰もが歓迎する技術だ。


 手洗いうがいも、これがあれば必要ない。洗い残しなどなく、体内から危険な物質を除去してくれる。風邪をひいても、この浄化光線を浴びれば即健康体だ。風邪の特効薬は、ノーベル賞ものの発明とまで言われる。だがこれは、感染症全体への特効薬だ。もし地球で浄化光線を発明できたら、間違いなくノーベル賞を貰えるだろう。


「なんというか、風呂嫌いの夢みたいな装置だな。風呂と便所の合体か……そういえば、外国じゃ風呂場に便器があるんだっけ? それが進化したような物か? ……ん?」


 ふとヅヱノは『シャワーを浴びながら排泄している事になるのか?』と考えたが、酷く嫌な気分になったので考えるのを止めた。ボタン一つで快適に暮らせる、まさしく未来の技術――それでいいじゃないかと。もう一度浄化光線を浴びて、余計な考えを消し去った。


 ンゾジヅはヅヱノの背後で、カチカチボタンを押すヅヱノを見守る。

 まるで電化製品のボタンを押して遊ぶ、我が子を見る母親のような目だった。

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