第3話
男は怪物に寝台から引きずり出された。
そう書くと絶体絶命の窮地に思えるが、実際は安心安全の楽園だった。
何しろ床に引き倒されて、爪や牙を立てられているのではない。膝をついたハーピーの柔らかい羽毛に包まれ、豊満な体を密着させられているのだ。寝心地のいいベッドに身を沈ませているのと同じような安心感。背中の柔らかい腹部や、頭頂部に感じる南半球の感触も加味すれば、それ以上だ。
下半身は怪物のそれだが、上半身は骨太で大柄とはいえ美女のものだ。下半身に見られるような羽が、彼女の上半身にも生えている。生えているといっても腕の一部や、鎖骨辺りから北半球に掛かるように生えているなど、露出度を高めにした衣装に見えなくもない程度だ。見るだけでも目のやり場に困る豊満な肉体が、男を抱きしめているのだ。
「……むぅ」
「~♪」
男は、危機感とは別の意味で落ち着かなかった。
だが男を抱きしめるハーピーは、嬉しそうに男を腕の中に収めている。
ぐりぐりと南半球が押し付けられているのはスキンシップの一種かと、男は顔を赤くしながら考察していた。これで彼女の歓心が買えるならばと、されるがまましかできない男はスキンシップを受け入れた。
だが男は、ただただスキンシップを受けていただけではなかった。男が動けないのは変わらなかったが、少なくとも移動することは可能になった。相変わらず身体は動かない。だが彼が行きたい場所をじっと見ると、ハーピーは彼を抱きしめたまま運んでくれるのだ。彼女には男の視線は見えていないはずだが、じっと見た場所へと自然に移動してくれる。
男は頭頂部に押し付けられた南半球により、頭の角度等から自分の意思を汲んでいるのだろうと考えた。ハーピーは男の意思を敏感に悟り、彼はまるで自分の考えが読み取られているかのような錯覚すらする。以心伝心といった状態だが、それが乳房によって成し遂げられているのだと思うと、男は一層顔を赤く染めた。
「それにしても……うーん」
「?」
男は自分の身体によってではないが動けるようになり、ようやく部屋の内部を確認できた。そこはまるで卵の殻の内側のように、何もない白い壁で覆われていた。質感からして非常に無機質で、命ある者が休眠していた場所とは思えない内装だ。
ついでに男が目覚めた寝台。これが問題だった。
その見た目を例えるならば、まるで朝食におかれているエッグスタンド付きの卵だ。天辺の殻を綺麗に刳り貫かれて、中身が晒されている半熟卵。白いカルシウムの殻の代わりに、漆喰のような素材でできている奇妙な卵だ。
その中に白身を収めるように、銀の緩衝材が敷き詰められている。となると黄味は男自身だろうか。語彙のない彼には卵っぽいなとか、やっぱ近未来的なSFベッドだなといった発想しかできない。
ついでに『こういう未来的インテリアは心惹かれるが、実際使うとなるとすぐに飽きるんだよなァ』とどうでもいい事を考えた過去を思い出した。目の前にあるのはその時見たデザイン家具を超える代物だ。
「そもそもどうやって寝転んだんだ……?」
その奇妙なベッドは、なかなかの高さがある。外側はつるつるしていて、よじ登れるような構造でもない。ハーピーに抱えあげられなければ、四肢が動いても登ることすら難儀しただろう。登るための踏み台や、寝台自体が昇降する装置も見られない。それにどうやって寝たかなど、男は皆目見当も付かなかった。
「とりあえず、外に出るか。ここにいても何も判らないし」
男は部屋を出ようと決心した。ハーピーが入ってくるときに一度外と繋がったが、天井を見ていただけなので何があるかもわからない。男がハーピーの入ってきた方向をじっと見ると、ハーピーは意思を汲んでくれたように歩き始めた。
ハーピーが歩く先にあるのは、部屋全体を覆っているものと同じ白い壁だ。一見すると何もない壁の一角で、扉があるようには見えない。だが寝台の方向からすると、ここが開いたのは間違いない。
ハーピーは何もない壁の方へと歩き続ける。まるで通り抜けられると知っているように迷いない。すると先程聞いた警告音と共に、パシーッと空気が抜けるような音がして、白い壁の一角がうろこ状に浮かび上がる。それらの部品は螺旋状に移動し、白い花が開いたように開放された門ができた。まるで最初から開いていたかのように、立派な開口部ができていた。そんな内と外を隔てていた元壁を、男はハーピーに抱えられながら通り抜ける。
通路に出た男を迎えたのは、惨たらしい配線のカオスだった。
巨大な配管が何本も通り、無数の配線が織布のように絡み合っている。
保護膜が無く、伝導線がむき出しになっている箇所も珍しくない。
先程の部屋と一転して、見栄えを一切気にしていない機能のみを追及した構造だ。簡単な壁材で隠すなどすればいいのに、超技術を持っていればたやすい労力すら省いている。そんな外見を取り繕う必要すらないという、機能さえ維持できていれば良いという考えが透けて見える。あるいはそんな事さえ気にしないような人々が作ったのかもしれない。
「……いや」
そもそも造物主が、人のような姿をしているかすらも怪しい。高度な技術を持った生物が、二腕二脚で器用に五本の指を動かせる生物とは限らない。イカやタコの可能性もあるし、虫だったりするかもしれない。人間と似ていてもグレイのような宇宙人型の可能性もある。ひょっとすると、植物が能動的に動いていた可能性すらある。それがなんであれ、高度な知性をもった存在である事は疑いようがなかった。
だがその存在は、恐らくこの施設にはもういないのだろうと男は考える。なにせ男は不思議ベッドにほったらかしにされ、施設内をハーピーがうろついていた。管理者がいるなら、とっくに対処すべき案件だった筈だ。
仮にこの施設内を端から端まで徘徊したとしても、高度な意思疎通ができる存在には遭遇できないかもしれない。そうした危惧も持ちつつ、男は通路の先を見据えてハーピーに運ばれていく。男は、一刻も早く現状を把握したかった。
男が把握したいというのは、運んでくれているハーピーの事もだった。彼女は男を運んでくれているが、一向にその意図がわからない。落とさぬように男をしっかりと抱きしめ、まるで自分の子供のように扱ってくれている。大事にしようとしているのは男にも解るが、男はなぜその立場に自分がいるのかが分からない。
男は、まず刷り込みという言葉が浮かんだ。鳥といえば、刷り込みの習性が有名だからだ。だが刷り込みは生まれたばかりの子供が、傍にいるものを母親と認識する習性だ。しかしハーピーは雛というには余りにも育っており、それは母親のような振る舞いからもよくわかる。
それにもし刷り込みが発生するならば、ハーピーではなく男の方に変化が生じる筈だ。だが男はハーピーを母と思う事もなく、異種であり母でもないと認識している。
男はずしっと頭に重くのしかかる柔らかい母性の象徴や、抱えられて運ばれるという状態に居心地の悪さを感じている。少なくとも刷り込みに見られるような、無条件に全幅の信頼を捧げるといった意識は持っていない。
ただし、男がハーピーに安心感を抱いているのは否定できない。これが刷り込みのような現象によって与えられた感情なのか、単に人肌の温もりによって安堵しているのかはわからない。一つ男がいえるのは、ハーピーの腕の中は思いの外居心地がいい事だった。頭の柔らかい重みを抜きにしても。
寝心地の良い使い慣れた布団で微睡んでいるような、ぬるま湯につかっているかのような居心地のよさ。早急に抜け出すべきという理性は働かず、いつまでも身を委ねていたいという欲望に男は溺れそうだった。移動を指示出来た事自体、男の精一杯の抵抗だった。
しかし単に我欲のみで、男は彼女に身を委ねているのではない。少しずつだが、男の手足に力が入り始めている。寝ている時には全く変化が無かったのに、まるでハーピーの体温が凍った身体を溶かしているかのようだった。
ひょっとすると、このままでいれば完全に手足が動かせるようになるかもしれない。そう考えたが故に、男はハーピーに身を委ねるのが合理的だと判断したのだ。その説を検証する時間も無駄にせず、ハーピーに頼んで移動してもらっていた。
通路にはどこまでも静寂な空間が広がっている。最初から誰もいなかった、この施設を作った者達すらそもそも存在していなかった――そんな、馬鹿げた考えすら男の頭に浮かぶ。地殻変動や風雨で成形された奇岩のように、この複雑な機械構造が自然発生するはずなどないのに。
ありもしない想像を掻き立てる通路から、男は少しでも情報を読み取ろうと四方八方に目を動かす。だがわかるのは、無数に絡み合った毛細血管のような配線や、何本も通されている配管の用途が全くわからない事だ。
他にもぶら下がっている炭鉱ランプの様な照明だが、古めかしい見た目に反してLEDのように明るい。更には直視しても眩しくない上に、眼に残像が生じない。明らかに、男の知る照明とは根本から違っている。技術面で理解できないという事実だけが、夏休みの宿題のように積みあがっていく。
しかし漸く、不明を打開しうるものを見つけた。窓だ。通路の途中に、船舶の通路に設けるような窓が設置されている。普通、窓といえば外を視認できるように設置されている筈だ。この施設が何なのかはわからずとも、少なくともここがどこにあるかぐらいの予想はできるはず。
男の意思を汲み、男を窓際へと運ぶハーピー。完全にはしゃぐ子供と、世話する母親の構図である。男はそれを自覚しつつも目を背け、念願の外の風景を覗き込んだ。
「……??」
男は頭をハーピーの母性に押さえつけられながら、精一杯首をかしげた。
窓の外にはもう一枚の壁があっただとか、遊園地にある鏡面だらけの謎万華鏡だったりした訳じゃない。それは紛れも無く『外』の風景だったが、男の脳みそは理解を拒んでいた。
まず見えたのは、巨大な脚だ。
人や哺乳動物とは違う、節足動物か爬虫類のような脚。それがゆっくりとだが、絶え間なく滑らかに動き続けている。その脚が歩いている所は、大地ではなく雲海だった。
まるで雲海と雲海で上下を挟んだような空間だった。『雲の中』というような表現をしなかったのは、曇天を二つ揃えて上下から挟んだような空間だったからだ。まるで絨毯を敷き詰めたような、黒々とした雲の海。それがどこまでも広がる面が、下と上の両方に存在している。まるで鏡写しのように、上下に同じものがどこまでも広がっているのだ。
巨大な脚が踏んでいるのは、その片方の面だけだ。
広大な黒い雲の絨毯を、巨大な機械の脚が踏み締めて進んでいる。
実際に、進んでいるのかはわからない。風景なんて変わらないし、ただ動かしているだけかもしれない。この脚がどんな機能を持っているのかさえ、男には判らないからだ。
上下の雲海の間には、鋭敏に蛇行して進む黒い雷としかいいようのない物が行き来している。雷のように奔っているのに、それは闇夜のごとく深く黒いのだ。だが雷にしては速度が少し遅く、機敏に動く蛇のようにも見える。雲の中には無数の黒い雷がのたうっており、まるで蛇の巣だ。
そんな黒い雷の巣に降ろされる足に、黒い雷はぶつかっていく。雲の中で衝突するものもあれば、わざわざ雲から飛び出して噛み付くものまである。だがそれらは、脚を傷付けたりする事なく散って消える。
上下に雲海が広がり、黒い雷が暴れまわるだけの世界。
そんな空間を、巨大な脚――恐らく男のいる施設が移動している。
男は窓があったからといって、正確に場所が判るとは思っていなかった。何しろ覗き込めるサイズに切り取られた風景を見ただけで、そこがどこかが判れば苦労しない。
だが海や山や森や砂漠など、見覚えのある風景を男は期待していたのだ。施設は異常であっても、外の空間はマトモであるという固定概念が男にはあった。
だが施設以上に外はおかしい。無数の黒い雷が行き交う雲海など、地球上のどんな場所でも見られない。物分りが悪い男の頭にも、そこが男の世界と縁も所縁も無い場所であると理解させられた。
「……どこここ」
誰かに訊ねるような男の声に、ハーピーはこてりと首を傾けた。
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