第2話

 数十分か数時間か。

 彼は未だじっとしていた。正確には動けないというのが正しい。

 できる事といえば、『なぜこうなったか』という答えにたどり着けない難問に挑むくらいだ。全く状況が好転していない事だけは確かだった。


 良い方向には全く進んでいないが、状況は進んでいた。部屋の傍を頻繁に足音が行き来するようになっていたのだ。理由はわからないが、明らかに彼がいる部屋の近辺で何かを探している。あるいは、彼自身をか。


 わかった事は一つ。

 それは同じ種類の生き物、それも同一個体の足音という事だ。

 それが同じ足音だと判るぐらいに、彼は何度も何度も聞いたのだから間違いない。


 特に彼は、今現在命の危機を感じている。

 喫緊の事態に男の全細胞は叩き起こされ、ベッドタウン暮らしとは思えない野生の感覚が呼び起こされた。そうして研ぎ澄まされた感覚が、足音で個体を識別する能力を与えたのだ。


 とはいえそれがわかったからと言って、何かが解決する訳もない。 

 何しろ肝心な男のボディが、未だに動こうとしないのだ。正体不明の存在に対する考察を深めても、男の体が動かねば、情報を得たとて何の価値もない。


 誰か助けに来てくれというのが男の本音だった。

 ここに運んだのは間違いないのだから、なら運び出すくらいしてくれと。

 訳の判らない生き物が闊歩する状況では、そんなサービスが受けられないのは解っている。そもそも誰かに運び込まれたとして、人間じゃないものがうろついている時点で『生き残った誰か』も無事ではあるまい。


 それがわかっていても、誰かどうにかしてくんねーかなというのが彼の本音だ。

 体が動いたなら、どうにかして状況打開のために頑張ったり、万策尽きたと諦めたりもできる。だがそもそも動かなければ、天から蜘蛛の糸が降りてくるのを待つしかないのだ。


 また足音が近づいた。

 もう男は息を止めるなどというような、小心者の小動物のような真似はしない。そんな無駄をせずとも、足音が離れていくのはわかっているからだ。向こうから見えもしなければ聞こえもしないはず。音を伝えてくる壁が、頼もしい城壁にすら見えていた。


 だが男の目算は早々に崩れた。

 足音は離れるどころか、張り付くように部屋の周りをぐるぐる移動し続けている。まるでなにもない壁を調べ周り、仕掛けでも探すように。


 外にいる奴は、探し物が部屋の中にあると確信したのだ。

 明らかに部屋の中を探ろうとするノックが聞こえ、少し落ち着き始めていた心臓が震えはじめる。だが大丈夫だと、男は自分に言い聞かせる。外の何かがわざわざ探しているという事は、現段階でそれと分かる入り口がないという事だ。


 いかにして部屋があると確信したのかはわからないが、この何もない空間を目的にしている。いや、何もないというのは正しくない。何しろ、部屋のど真ん中にわざわざ『大事であります』と言わんばかりに台座が作られ、その上に彼がいる。


 別の何かを探していて、たまたま探り当てたという可能性はある。だが部屋にあるものを理解したうえで、この部屋を探しているとしたら。つまりは男自体が目当てだとしたら。


 見つかった際にどんな目に遭うか、一々考えるまでもなかった。

 知性があれば交渉の余地はあるし、ひょっとすると助けてもらえるかもしれない。だが足音通りの巨躯を持ったそいつが、万が一言葉すら通じない怪物だったなら。


 そんなヤツと遭遇して、生き残れる自信など男にはない。

 普段だってそんな怪物への備えなんてないのに、身体が動かない今は輪をかけて対処不可能だ。まな板の上の鯉である。まな板の上の鯉だって、跳ねるぐらいの抵抗はできるというのに。


 だがアレだけ探しているのに、全く侵入口が見つけられないのだ。

 これまでも大丈夫だったのなら、まだまだ大丈夫なのではないか。

 男が甘い予想をしていると、ビーッと鋭い警報音が頭上から聞こえた。


(えっ)


 男は脳が凍るという、未知の感覚に襲われた。

 思考が停止した男の頭上で、パシーッと空気が抜けるような音がする。

 明らかに壁が開放されて、外の通路と繋がったとわかる。これまで無音無風だったのに、微かに外の音が聞こえ、空気の流れが生まれていた。


 そして、ガヅンと床を殴る音が聞こえた。

 ガヅン、ガヅン、ガヅン、固い床に鉄塊を叩きつけるような音を立てて、何かが近付いてくる。音が迫ってくる程に、彼の思考が鈍くなっていく。あまりの事態に、彼の脳はフリーズしかけていた。


 もし怪物の顔が男の目前に現れたら、心臓が止まるかもしれない。

 いっそ食われるなら、気絶して意識がない内に殺して欲しいとすら男は思う。男は目を背けることもできず、天井を見続ける。その真っ白な景色を遮る何かをじっと待っていた。

 

 男が横になった寝台も揺れ始めており、振動の主はすぐ傍まで近づいている。

 そしてついに、男の真上ともいえる場所に足音は到着した。

 男の顔に、大きすぎる影が落ちる。


 男の目に、緑色の宇宙が見えた。

 無数の小さな光がちりばめられ、小さくもはっきりと輝いている。

 緑色の空に浮かんだ、無数の光が彼を見下ろしていた。


「あ」


 否、それは宇宙ではなく人だった。

 南国の浅瀬のように鮮やかな緑色の瞳と、鼻先まで伸びた同色の髪でそう見えたのだ。だが宇宙と誤認した男の目も正しかった。どういう原理なのか、彼女の瞳や髪の中には気泡のような小さな光が流れている。まるでエメラルドを溶いた海中で、光を孕んだ泡沫が揺れながら昇るようだった。異常なのは髪や瞳で、肌は何の変哲もなく透き通るように白いだけだった。


 改めて、男は彼女の容姿を観察する。切れ長な眼は冷ややかな印象を受けるが、しかし慈しみに細められた優しい眼差しだ。その目から感じられる愛情の深さを反映したように、その顔立ちは女性として完成された魅力を持っている。


 成熟した女性のようでありながら、同時に青春をかける少女のような稚気もある。髪は鼻先まで伸びている通り、手を加えられておらず伸び放題だ。しかしその整えていない髪形が、人が本来あるべき美しさを象っているようにも見える。


 不思議な髪の色を除けば、ただの人だった。

 なんだ、怯える必要なんてこれっぽっちもなかったんじゃないか。

 そう安易に答えを出した男の前に、女の首から下が現れた。


 細く白い首筋に、しっかりした鎖骨に支えられた肩。

 破裂しそうなほど母性が蓄えられた大きな乳房と、引き締まったくびれ。

 左右へ大きく張り出した骨盤に――野太い太腿から続く、大きく強靭な逆脚。


 そう、逆脚だ。

 鳥のような、あるいは大きさから恐竜のような脚。

 太腿辺りは多少羽毛で覆われているが、関節辺りからは完全に禍々しい脚が露出されている。しかも腰というかお尻の辺りには、翼のようなものも生えている。彼女の髪の色と同じ、緑色の羽毛で覆われた翼だ。明らかに人間とは構造の異なる下半身が、彼女の骨盤辺りから生えていた。


 ハーピー。

 男の脳裏に、半人半鳥の怪物が思い浮かんだ。

 男は目の前に現れたこれが、自分を探し回っていた存在だとも理解した。

 その瞳ははっきりと男を捉えていて、明らかに容姿や状態を視覚で確かめている。

 餌になるかどうかを、ためつすがめつ確認する大鷲のようにも見えた。


 駄目だ食われる、そう男は覚悟する。

 皮が破られ、肉が引き裂かれ、血を噴きだす。男は自分が解体され口に運ばれる様が、容易に想像ができてしまった。人間らしい顔が、猛獣のように自分の血肉を啄ばむ姿を簡単に思い浮かべられてしまった。


 だが、男は怪物の前から逃げられない。

 逃げ出そうと力むことすら、力の入らない身体では不可能だ。

 ハーピーの手が持ち上がり、男の方へと伸ばされる。もうだめだ、お終いだと、男は固く目を瞑る。これから起こる一切合切から、男は目を背けようとした。


 せめて楽に殺してくれ、苦しみなく殺してくれ。

 男は暗闇の世界で、そんな届くかも怪しい願いを必死に捧げた。

 そんな闇の中から、深い絶望から、掬い上げるように優しい力が男を持ち上げた。


「え」


 思わず目を開くと、男の目の前にはハーピーがいた。

 そのハーピーは男へ我が子のように微笑みかけ、男を抱きしめていた。混乱する男に羽毛と乳房の柔らかさが、しみこむように全身へ伝わっていく。警戒心や焦燥が、彼女の体温に溶かされ消えていく。


 男は抱きしめられて、改めて彼女の大きさを感じた。

 男は小柄ではあるが、成人として認められる程度の丈はある。その身体をまるで子供のように、ハーピーは軽々と抱きかかえている。脚部のみならず、人体の部分も非常に大柄であった。男の体が、すっぽりとハーピーの腕の中に納まっている。


 男は、まるで母親に抱きしめられているかのように錯覚した。

 ただでさえ身体が動かずされるがままというのに、自分を大きく上回る体格の女性に抱かれるという異常事態。脳が混乱していても、肉体は遥か記憶の彼方にある母の抱擁を思い出していた。

 男は確かに、ハーピーの温もりに安らぎを感じていた。


 男が見上げると、ハーピーの見つめる目とぶつかる。

 そして今更ながら、自分が何に抱きしめられているかを思い出す。

 人間とかけ離れた形状を持った、おぞましい怪物に抱擁されている事を。


 だが男に恐怖は湧き起こらなかった。その人間離れした肉体すら、彼女の持つ規格外な優しさの発露に思えたからだ。人の身体に収まりきらなかった彼女の母性が、親鳥のような鳥の肉体を生み出したのだと。


「えっと……アナタは、誰ですか?」

「?」


 男が子供のように尋ねる。

 その姿にハーピーは小首をかしげ、男の反応を面白そうに見守っていた。

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