「科学的な文学」と「非科学的な文学」

 すごい似非論文みたいなタイトル!

 はい、期待しないでください。所詮雑記です。


 前回の話と関係するんですが、文学って「科学的なもの」と「非科学なもの」に分別できる気がします。科学とはそもそも…とか厳密な意味ではないのでその辺りはご了承を。

 私のいう「科学的な文学」は、「なんらかの意図を持って、伏線や計画を練り、それらによって齎される読者の情動変化(要は感動とか)を目指す」ものです。噛み砕けば「全て計算された書き物」のことですね。これ、出来る人尊敬します。私ほんとこれ無理。やろうとしても出来ない。

 ではもう一方、私の属する(と思う)「非科学的な文学」ですが、「なんら意図を持たず、無計画に、読者の反応まで一切を定義しない」ものを指します。前述の噛み砕きに倣えば、「計算することはできるが、方程式を著者が指定しない書き物」とも言えるでしょう。拙作の大半はこれです。読み手にどんな情動が起こるか、感想は、効果は、それらは完全にここでは度外視されます。ただ、「計算することはできる」は重要なポイントですね。言い方を変えれば「含み、言外の意味」みたいなものですが、これの解釈は何通りでもあっていいんです。というか著者(私を例にあげますけど)ですら何通りあるか想定すらしてない。ちなみにこれ、もし「計算することができない」だとしたら、私にとっては文学である意味がないです。それはただの文字列に過ぎません。それなら記号の方がよっぽど有能です。…

 私小説(またはそれに近似する)と称されるものは、個人的には後者に属すことが多いかな、と。例を挙げれば芥川の『歯車』とかです。私が端くれとして属して、目指す文学もそこにあります。

 そとそも私は、私の芸術(大それた言い方ですけど)に関して、「表現された無意識、前意識の欠片」と今のところ考えているので、それをストレートに物として書くと後者になるわけです。「意識的に無意識を引っ張り出す、表現する」ことに関しては、人間である以上私は限界があると感じます。無意識はそもそも意識上に出てこない(またはほぼ表出しない)ことを前提として私は捉えているので、例えば意識的に自分の無意識を書こうとしたら、どう頑張って深掘りしても前意識までといったところでしょう。

 ここまで書いたところで、なら後者は何で物書きするの?って話になるわけなんですが。とりあえず一つ挙げておきます。

「著者にも捉えられない無意識層の欠片を表現することで、著者本人、及び読者に一種のカタルシス(精神分析的な意味の)を齎す」です。私が意図的に何かを書くとすれば、その意図はほぼこれに当てはまります。あ、といっても読者を癒したい!とか私が癒やされたい!とかそういう善意ではないです。「ただその方が性に合ってて面白いから」です。故に、私の物書きは、解釈も計算式も「著者を含めて無限にあることが理想」なのです。


 真面目なようで説得力があるようでよくわからない雑記になりました。うん。ふわっとしてるね。ふわっと生きてるからね。仕方ないね。

 では、また。

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