心燃やして

かおる

心燃やして

 よく晴れた空に薄汚れた煙を吐きだす。白い煙は青空を一瞬埋め尽くして、まばらな雲の合間に消えていった。

「……先輩?」

 煙草の先をじっと見つめる。息を吸うのに合わせて赤く輝き、燃え尽きた端から白いカスになっていく。まるで、人間の一生のようだ。

「やっぱり先輩だ。校舎の屋上で煙草なんて、不良ですね」

 空に煙を吐いてから俺は声のした方を向いた。後輩の得意げな顔が映る。

七瀬ななせ。授業中だろ、教室に戻れよ」

「先輩こそ」

 両手をセーターの袖に隠しながら七瀬は俺の隣に座った。俺はポケットから携帯灰皿を取り出して、短くなった煙草を放り込んだ。

「寒くないんですか?」

 俺は七瀬のスカートをちらりと見た。

「お前ほどじゃない」

「部活で履く短パンよりはあったかいですよ」

 七瀬はトラックに引かれた白線を眺めながら答える。

「……先輩、陸上部には戻ってこないんですか?」

 俺は無言でポケットの中のオイルライターを握りしめた。

「なんで黙ってるんですか。なんで、そんな無表情なんですか」

 七瀬がからだごとこちらに向けた。俺は遠くの空を眺めてポケットの中でライターを弄ぶ。

「俺が煙草吸ってるところ、見たろ? 俺の肺は汚い。もう、昔みたいには走れない」

「でも……」

 目を逸らした七瀬の顔を俺は見つめる。

「たくさん煙草を吸った。煙草と同じ本数だけ心を燃やして、今では肺も心も真っ黒、燃え尽きちまった」

 今度は俺が視線を外す。その先で、七瀬の瞳がくらく光るのが見えた。

「……煙草、私にも一本ください」

「お前はタイム、まだ伸びてるんだろ? だったらダメだ」

「伸びなくなったって言ったら、くれるんですか」

「うそつきにはやらん」

 口の端を上げて、俺は隅に置いた煙草の箱をポケットに入れた。

 しばらく沈黙が続いてから、七瀬がいきなり立ち上がる。俺の目の前に立ち、覚悟を決めた顔をしていた。

「心、燃え尽きちゃったんですよね? だったら先輩、私の心を買ってくださいよ」

 七瀬は右手をセーラー服とセーターの上から左胸に当てた。

「今なら一時間八百円です。お買い得でしょ?」

 七瀬が無邪気な笑みでこちらを見つめる。

「俺のバイトの時給より安いな」

「それに、煙草二箱分です。ね、買いませんか?」

 すっとぼけた俺のセリフに、七瀬は食い気味に言葉を重ねた。正面に立つ彼女の握りしめた両手が小さく震えている。

「なんでそんなこと言うんだ」

「……なんで?」

「そうだ」

 予想外のことを言われて戸惑う七瀬に短い言葉を放つ。彼女はしばらく視線を巡らせてから、まっすぐにこちらを見た。

「だって、自分の心なんて、誰にもわからないじゃないですか。だったら、誰かに、先輩に使ってほしいんです……!」

 俺をしっかりと見つめて懇願する七瀬の姿をじっと観察する。短いスカートから伸びた筋肉質な細い足は細かく震え、セーターの袖から覗く小さな手はぎゅっと握りしめられている。小さく開いた口から白い息がもれ、瞳の奥は不安そうに揺れていた。

「学校、サボるか」

「…………え?」

 足下でチャイムが鳴った。少し遅れて椅子の引く音が聞こえてくる。

「そのままじゃ寒いだろうから、コートとバッグを持って裏門な」

 七瀬の答えを待たずに俺は背を向けた。


 学校を抜け出した俺たちは、カラオケで昼のフリータイムを満喫し、ハンバーガーショップで飯を食べた。七瀬はカラオケボックスのソファの上でぴょんぴょん飛び跳ねながら流行りのラブソングを歌い、新発売と書かれたハンバーガーを大きな口を開けて食べた。彼女が屋上で見せた危うさは磨りガラスの向こうに隠され、ただ無心でこの現実を楽しんでいるかのようだった。その笑顔が、俺にはとても痛々しく感じられた。

 思えば、俺が七瀬と学校外で会うのはこれが初めてだった。俺がそう訊ねると、七瀬は「楽しいからいいじゃないですか」とこちらを見ずに呟いた。


 駅前のファストフード店から出た七瀬は満足そうに背伸びをした。

「たまにはハンバーガーもいいですね。すぐお腹いっぱいになりますし」

 それは、過去、誰かが言ったであろうセリフ。何度も繰り返されたであろう言葉。七瀬はただ、それをなぞっていた。

「さあ、先輩。次はどこに行きますか?」

 雑踏のなかで七瀬が振り返った。俺を見ているはずなのに、彼女と目が合わない。思い返せば、学校の外に出てから一度も彼女は俺の顔を見ていなかった。それに気づいて、なんだか俺はこの茶番が馬鹿らしくなってしまった。

「……七瀬。お前、もう帰れよ」

 七瀬は言葉を返さない。気に入らない現実から目を逸らすように、こちらを見ようともせずにただ黙っていた。

「もう学校も終わる時間だ。早く帰らないと、お前の親も心配する」

 まだ部活の時間だとか、バイトをサボるだとか、いくらでも言い返せた。理由はなんでもよかった。俺は七瀬が言い訳をして、この時間に意味を持たせることを期待していた。

「……そうですね」

 七瀬が表情だけ笑って見せた。抵抗もせず、ただ流されていく。七瀬は、煙草の先から空へとのぼる煙のようだった。

「だったら、あと一カ所だけ、付き合ってください」

 心細そうに、俺にだけ聞こえる声で七瀬は囁いた。


 おんぼろの路面電車で坂を登って、俺たちは展望台に辿り着く。

 そこは、小高い丘の上にある寂れた場所。錆びた双眼鏡と、塗装が剥き出しになった柵と、腐りかけのベンチがまばらに置かれていた。

 マフラーに顔をうずめた七瀬は柵に寄りかかって人差し指を伸ばす。

「あれが私たちの高校で、あそこがさっき行ったカラオケで、あっちにあるのが路面電車の車庫」

 眼下の風景に自分を重ねる七瀬の少し後ろで、俺はポケットに手を入れた。

「あのへんにあるのが私の家で、その奥の川を越えたら隣街となりまち。――なんだ、私たちの街ってこんなに狭いんですね」

 さして感慨もなさそうに言って、七瀬はオレンジ色の空を見上げた。

「先輩。私の心、買いませんか? 今なら百年分。値段は……そうですね、百万円でいいです」

 こちらを見ずに、冗談めかして七瀬は笑う。値段、口調、彼女の言葉、すべてがうろでできていた。

 俺は口を閉じたまま七瀬から目を逸らす。長く伸びた彼女の影が、ときおり震えるのがわかった。

「先輩が買ってくれないなら、私はここから飛んじゃおうかな。こんなに夕日が美しいんですもん、私の心も、綺麗に燃え尽きてくれますよね」

 冬の朝のような、あまりにも透きとおった七瀬の声が聞こえた。俺はゆっくりと口を開けて、彼女がずっと欲していた言葉を発する。

「……七瀬。なにがあったんだよ」

 七瀬の肩がびくりと揺れた。こちらに背を向けたまま、彼女はゆっくりと息を吐いた。

「べつに、どこにでもあるような話ですよ。父親が外で別の女をつくって家から出ていった。それだけです」

 なんでもないような調子で告げる。その声が、影が、躰が震えていた。

「あの人はよく煙草を吸っていたから。それで先輩のことを思い出して、こんなに連れ回しちゃいました。迷惑でしたよね。ごめんなさい」

 書かれた文字を読むように早口で言い訳をして、七瀬は振り返った。何を言おうか迷っている俺を見て悲しそうに笑う。

「さよなら、先輩」

「――七瀬!」

 俺の横を通り抜けようとする七瀬の手を掴んだ。握った手は凍えるように冷たい。

 地面にいくつかの水滴が落ちる。芯まで冷え切った手がこちらを握り返した。

「なんだ……、燃え尽きた先輩の手、こんなにあったかいじゃないですか……!」

 瞳に涙を溜めたまま、七瀬が絞り出すように呟いた。


「私にとって理想の父親だったんです。かっこよくて、ちょっとだけ不器用な」

「そうか」

 今にも崩れそうなベンチに二人で座っていた。七瀬の手元にはぐっしょりと濡れたハンカチ。すこしだけかすれた声で、彼女は言葉を紡いでいた。

「心って怖いですよね。どう動くのかもわからないし、動いた先が正しいかもわからない。だったらいらないなあって、私の心なんて。そう思ったんです」

 七瀬が遠くを見て笑う。その瞳に沈みかけの夕日が映っていた。

「――そうだ、先輩。やっぱり私の心、買いませんか? 今なら一時間千円です」

「なんだ、値段変わるのかよ」

「ふふ、これでも先輩のために大安売りしてるんですよ?」

 こちらを覗きこんだ七瀬の眩しさに俺は思わず視線を逸らす。ポケットの中の右手に煙草の箱が当たった。

「――だったらこれで、五分間ぶんと交換ってのはどうだ?」

 箱を振って、一本だけ煙草を取り出した。七瀬は伸ばした手を素早く引っ込め、笑みを浮かべながら俺の前に立った。

「やっぱり、やめときます」

 何かが吹っ切れたような笑顔を残して、彼女は夕日を見つめる。

「先輩、百メートルの自己ベって何秒でしたっけ」

「……一〇・九一」

「なんだ、私とたった一秒とちょっとしか違わないじゃないですか」

 その「一秒とちょっと」を縮めるのがどれだけ大変かを痛いほど知っている七瀬は軽い調子で笑った。

「燃え尽きた先輩なんて、すぐに追いついて、追い越しちゃいますから。――だから、そこでもうちょっとだけ待っててください。私もそこに、すぐ行きますから!」

 燃えるような夕日を真っ直ぐに捉えて、七瀬はもう一度心の火をおこす。決意を固めて深呼吸をすると、紫煙のような白い息がのぼって、消えた。




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