アルナルド
「帝国の……婚約者、か」
「そう、婚約者様。いらっしゃるんでしょ?」
まあ、とアルナルドは顔をうなだれる。
彼は皇太子で、帝国の皇子だ。
政治的な婚姻に対して好き勝手にできないことは、あの、ロイズ以上に理解しているはずだった。
それでも僕が悪者になるよと言ってくれたその一言をサラは疎ましく思うことはない。
ただ、彼の優しさが行き過ぎた結果をもたらさないか。
それだけが心配だった。
「責める、かい? 考えが足らないと」
ふと顔を上げてそんな質問が飛び出して来たから、サラは驚いてしまった。
波間に揺れる月明かりが、たまに窓の向こうから差し込んでくる。
ランプの灯りと室内の暗さが奇妙なコントラストを彩って、アルナルドの赤毛をより一層、紅に染めていた。
闇間に光る黒い瞳が、意思の強さと弱さの混在する混沌のような感触をサラに与える。
サラはこの時までずっとしたいと思っていて忘れていたある質問を思い出した。
「ねえ、アルナルド?」
「なんだい、サラ?」
「どうして、あの時――パーティの時だけど。私を連れ帰ろうと思ったの? 同情? それとも愛があったから? 貴方は私を好きでいてくれたの?」
「……え?」
これにはアルナルドが驚いた。
船にやってきてくれたし、既に思いは通じているものだと思っていた。
もしかしたら、お互いに行き過ぎた別の感情を持ったのかもしれない。
それは兄とか妹とか。家族とか、そういう次元の助け合いの感情だったのかも、と。
「こんな言い方はしたくないんだけど、貴方にも婚約者様がいらして。私にはロイズがいたでしょう? だから、貴方を不名誉な男性にはしたくなかったの。それはいまでもそう」
「つまり、僕の帝国での評判を気にして――どこか僻地で、とそういうつもりだったのかい?」
「有り体に言えばそうなるわ。私は故国も仲間も裏切った女だもの。帝国でもし、陛下が処刑などをされるというなら、せめてあの二人――侍女たちだけは貴方が使ってやって欲しいの。子爵家に仕えてくれた、いい子たちなのよ」
「なるほど。サラ、君の言い分は分かった」
アルナルドはふうっと一息つくと、サラがそれまで気忙しくしていて気付くことなかった樫の木で作られた、長椅子に身体をうずめた。
飴色になるまで漆がかけられたそれは、ランプの灯りを煌々とまるでガラスのように反射していて、この部屋にある調度品そのものが、実家がまだ公爵家だッたころから伝わる家具と、品格の違わないものでしつらえられていることにサラは気づいた。
自室の壁を見れば、帝国旗に王国旗、そして、レンドール子爵家の旗までもが均等に飾られている。
これは国賓とはいかなくても、皇帝の客人としてこの部屋の主の身分が保証されていることを示している。
つまり――自分は望まれていない客ではないのだとサラは気づいた。
「あのね、僕はあまりなじみがないんだけど」
「ええ、なあに?」
「海外では魔法とかそういうものの文化がとても進んでいてね。それは王族間とか皇族間では、鏡を通じて話せるほどには帝国内にも浸透しているんだ」
「……つまり、今から皇帝陛下との謁見が始まる、とか……?」
「それはないよ。陛下に会えるなんて、僕みたいな皇太子でも年に数回あるかないか、だ。でも、婚約者様とはそうでもない……」
あ、彼はその鏡を通じて名も知らない婚約者と会話をしたんだ、とサラは理解する。
自分が大好きになった男性の本当の相手は――どんな女性なんだろう。
サラの亜麻色の髪の奥に隠れた、深い緑色の瞳に興味といくばくかの嫉妬の光が宿ったことにアルナルドは気づいた。
なるべく誤解を与えないように、事実だけを話そうと彼は口を開く。
「彼女――アリズンは悪い女性じゃないんだ」
「アリズンっていうのね、貴方の婚約者様は」
言いづらそうなアルナルドは、サラの何でも受け入れるわよ。そんな顔を見て、もっと言葉を失ってしまう。
誘い出したのは自分、王国と帝国に波紋を広げようとしているのも自分。
ある意味、皇帝陛下の意思とはいえ、そのための道具にするかのようにサラを扱ったのも、自分だ。
アルナルドの心は、久しぶりの罪悪感に揺れていた。
「西の大陸の帝国の皇女なんだ。それも、皇帝の直系の孫……」
「西? エルムド帝国のお姫様なのね、いいご縁じゃない。それがどうしたの?」
「……だから、僕の帝国は君の王国の――王政を変えようとしている。本家から分家に対して……大きく改変を迫っているんだ」
「……そうかもしれないとは、お父様たち。レンドール子爵やラグラージ侯爵と話していたわ」
「え……? どういうこと……?」
予期しなかった返事にアルナルドはああ、とため息をついて、外につながる窓に目をやった。
水平線には月が煌々と浮かび上がり、三連の月の一つ。青い月が満月となって見えていた。
サラは気にしないで、とアルナルドに微笑みかける。
貴方は良縁を手にするべきだわ、と。
その微笑みが、アルナルドにはとてつもなく辛いものだった。
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