4
群青との日々は、穏やかに過ぎていった。
群青は朝型らしく、僕が起きる頃には既にキャンバスに向かっていて、けれども朝食は(下手をすれば三食すべて)缶コーヒーで済まそうとしてしまうから、僕が作る食事を一緒に食べるのが日常になった。
晴れた日には、群青はスケッチブックを片手に写生に出かけることも多く、僕も同行させてもらった。
「君は退屈ではないか?」
「全然。……群青こそ、僕がいて迷惑じゃない?」
「いや、全く」
そんな会話を重ねて。
ひと月が過ぎて、街路樹に新芽が萌え、そろそろ初夏の足音が聞こえてきた頃、群青は僕に、珍しく買い出しを頼んだ。
群青との生活にもすっかり慣れて、僕は自分から家事の一切を引き受けていた。日当一万とはいうものの、モデルをするのは昼と夜に数時間ずつしかなく、やはり僕には過ぎた額に思えて落ち着かなかった。
それに、一緒に暮らして気付いたことだが、群青は、かなりの生活破綻者だった。食事はすぐに缶コーヒーで済まそうとするし、一度絵に集中すると、平気で夜を徹して二日も三日も没頭してしまう。洗濯はかろうじてするものの、掃除に至っては壊滅的で、部屋がモノで溢れずに済んでいるのは単に画材以外のモノ――生活雑貨自体が、極端に少ないからだ。
「私は君を使用人として雇った覚えはないが……」
「これくらいさせてもらわないと、僕の気持ちが休まらないんだ。……もちろん、余計なことでなければ、だけど」
「余計なことではない」
群青は即答した。
「私はどうにも家事というものが苦手だ。だから、とても助かっている」
素直な感謝の言葉を貰って、僕の頬は、自然と
「それじゃ、買い出し、行ってきます」
「ああ。……頼む」
アパートメントを出て、近くのグロッサリーストアへ向かう。陽射しは高く白く、そして明るい。街路樹の新緑と相まって、その眩しさに、僕は目を細めた。
群青に頼まれたものはすぐに買えて、僕はついでにその他の日用品も何点か揃えてから帰路についた。それでも、予定していた時間よりは、少し早い。
群青に頼まれたものは、ダースでパッケージされている缶コーヒーだった。群青はストック棚に、同じ銘柄の缶コーヒーを大量に買い置きしている。休憩時間には必ず一本か二本は開けているし、外出時には上着のポケットに二本か三本、入れていくのを忘れない。初めて出会った日に彼が未開封の缶コーヒーを僕に差し出したのは、いつでも持ち歩いているからだったのだ。
「ただいま、群――……うわっ!」
玄関を開けようとした丁度そのタイミングで内側から扉が引かれ、僕は勢い余って前によろけた。
「……っ、と」
家の中から出てきた硬い胸に、僕は正面からぶつかる格好になった。相手は少し驚いた声を上げたものの、危なげなく僕を受けとめてくれた。
僕より背の高い……僕よりいくつか年上だろう男の人だった。肩くらいまで伸ばした淡い色の髪を、後ろで無造作に束ねている。カラーレンズの眼鏡をかけ、高級そうな派手な色のジャケットを羽織っている。誰だろう……。
「あれ? 君、もしかして、渚・カナイくん?」
「……そうですけど」
初対面の人に軽い口調で確認され、僕は
「ふうん。君が、ね……」
僕の頭の天辺から足の先まで、彼は値踏みするように視線を往復させた。
「あの、貴方は……?」
居心地の悪さに、僕は思わず声を低くして問う。「あぁ、俺?」と、彼は軽薄に、へらりと笑った。
「俺は、
「サクマ……?」
思わず聞き返した僕に、彼――傑流・サクマは、三日月形に目を細めた。
「そう。群青先生を推している画廊の次期オーナーってこと」
ヨロシク、と彼はわざとらしく愛嬌たっぷりに小首を
「それじゃ。これからも
片目を
刹那、振り向きざまに、すっと僕に耳打ちをした。
「君は、気をつけて」
「群青先生に、
「えっ……?」
「あっ、そうだ」
僕の声を遮り、彼が口の端だけで笑う。
「手当てしてあげなよ、群青先生、けっこう、酷くしちゃったからさ」
「なに、言って……」
「じゃあね」
今度こそ、彼は僕に背を向け、振り返ることなく階段を降りていった。
「群青ッ……!」
最初に目に入ったのは、乱れたシーツと、散らばった紙幣。そして鼻腔を
「……群青……?」
ぐらり。視界が
缶コーヒーを片手に、群青はベッドの端に座っていた。ワークパンツは
「……早かったな」
群青が視線を上げる。乱れた髪。掠れた声。
「なに……して……」
「君には関係ない」
低い声で一言、答えて、群青は切れた唇の端を
「利き手は無事だ。彼は、私の手を絶対に傷つけはしない」
「そういう問題じゃないし、関係なくなんか……っ!」
ない、と言いかけて、口を
そんな僕を見て、群青が、小さく息をつく気配がした。
「……悪い」
何についての謝罪なのか。群青は悪くない。
「あの人は……貴方の恋人?」
「いや、違う」
「じゃあ、脅迫でもされているの?」
「違う」
「……なら、何かの見返り?」
「それも違う」
「これは、彼の願いの代償だ」
「……代償……?」
僕は思わず聞き返す。暴力的に抱かれることが、何の代償になるっていうんだ。体の横で、僕は両手を握りこむ。見慣れた紅い色に恐怖した。嗅ぎ慣れた白の臭いに嫌悪した。せせら
「すまない」
凛とした静かな声が、僕の耳を柔らかに打った。僕は、はっと顔を上げる。
群青が、深い青の瞳で、僕を見つめていた。
「私は……どれだけ金を積まれても、彼をモデルにすることはできなかった」
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