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次の日、モデルの仕事が始まるまでのあいだ、僕は前日に貰ったお金で、日用品を一通り
モデルの仕事は、午後二時からだった。まずは三時間ほど。今日は、毛布はなく、シャツにジーンズ姿で、僕は昨日の椅子に膝を抱えて座っていた。特別なポーズを指示されることはなく、まして服を脱ぐよう求められることもなかった。
ただ静かな、しずかな時間だった。
「絵のモデルっていうから、ヌードモデルも想像したんだけど」
「そうか。でも君は、脱がなくていい」
「このままでいいの?」
「ああ。そのままがいい」
それが彼の調子だった。
群青の画風の特徴のひとつが、人物の顔があまり見えない構図で描かれることだった。前髪で瞳が隠れていたり、後ろ姿だったり、顔が手で覆われていたり……だから僕は、絵のモデルは別に僕じゃなくてもいいのではないかと思った。名乗るまで僕の名前を訊かなかったのも、それが理由ではないかと。けれどそれを群青に問えば、彼は全く変わらない調子で「訊いていいものか迷っていた。私は君がいい」と答えるのだ。
自分の絵が描かれていくというのは、僕が今まで経験したことがない、不思議な感覚だった。群青という人間の
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美術雑誌の記事いわく、『写実と幻想の融和。具象主義の臨界点にして新たな俊英。すらりとした腕や脚、見る者に訴えかける華奢な背中、流麗な鎖骨に優美な肋骨、物語る爪先に指先の表情……顔が見えないことで、いっそう際立つ中性的な青年の美しさ。淡いコントラストに繊細なタッチで描き出される儚く匂い立つ美の境地を、存分に感じていただきたい――』等々。どうやら群青は画壇では期待の新鋭という評価を受けているらしい。
アトリエの片隅に積まれていた美術雑誌の中に、群青の記事が載っていた。
「世話になっている画廊から送られてきたものだ」
午前十時。歯磨きをしながら群青が僕の肩越しに雑誌の記事を
載っていたのは『羽化』――初めて世に出た、僕を描いた群青の絵だった。荒廃した教会、ステンドグラスの光の下、首の
「今日、その画廊に、少し、顔を出してくる」
君にも来てもらいたい、と群青は言った。
「オーナーに紹介したい。構わないか」
首を横に振る理由は、僕にはなかった。
画廊という場所に足を踏み入れたのは初めてだった。
新市街の中心部、文教地区の一角に、
「群青先生、お待ちしておりました」
受付の女性が、群青に気付くなり、会釈をして立ち上がった。そして小走りに奥のスタッフエリアへと消えていき、ほどなくして、年配のスーツ姿の男性を連れて戻ってきた。
「久しぶりだね。来てくれて嬉しいよ」
男性は、
「そうか、こちらが新しいモデルさんだね」
男性が僕に視線を移し、明るい笑顔を向けた。
「……あっ、初めまして。渚・カナイといいます」
男性の言葉が引っかかって、反応が遅れた。新しいモデル……僕の前にモデルをしていた人がいたんだ……。
考えてみれば、群青は画家なのだから、今までにモデルの一人や二人いたとしても何も不思議じゃない。
でも……。
何故だろう。胸の奥が、ずきんと痛んだ。
「カナイくんだね。私はこの画廊の三代目で、
「えっと……はい……よろしくお願いします」
早口に気圧されつつ、僕はぺこりと頭を下げた。
サクマ氏は満足そうに
「本当に良かった。これで、もう大丈夫だね」
影ひとつない笑顔で群青の背中を叩いた。これからも期待しているよ、と。
それから小一時間ほど、群青とふたりで、画廊をひとまわりした。
群青の絵は、二番目の部屋の、一番目立つ場所に飾られていた。
僕を描いた絵――『羽化』の下に、群青の名前と絵のタイトルを記したプレートがあり、余白に赤い文字で『売約済』と書かれていた。自分が描かれた絵が、他の画家の絵と並べて飾られているというのは、なんだか恥ずかしいような、誇らしいような、不思議な気持ちになる。
「……売れたんだ……」
思わずそっと呟いた。どんな人のもとへ行くのだろうと、少しそわそわした心地になったけれど、それはモデルである僕が興味を持つべきことではないのだろうと思い直して、無意識に前のめりになっていた姿勢を正した。隣で群青が何を思っていたのかは、分からない。
――これで、もう大丈夫だね。
さっきのオーナーの言葉を思い出す。
胸の奥に、水にインクが
僕の前のモデルは、どんな人だったのだろう。どうして、いなくなってしまったのだろう。
(……やめよう)
加速しはじめた思考にブレーキをかける。
今はただ、ここにいたいと思った。今のままでいさせてほしいと、世界に対して願っていた。
――君がいい。
生まれて初めて与えられた肯定の言葉が、今の僕の心を満たしていた。
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