2

 部屋の掃除は、思いのほか、すぐに終わった。ほこりかぶっていた以外は、部屋はかびねずみかじった穴もなく清潔で、僕が元いた住処すみかに比べれば、間違いなく格段に良い部屋だった。備え付けのベッドの上に仰向あおむけに寝転んで、僕は、ぼんやりと、染みのない白い天井を見上げた。


――私は君を描きたい。だから生きることにした。


 彼の言葉が、耳によみがえる。


――君を描けないなら、生きる理由はない。


 ころんと寝返りを打って、思う。

 彼は、どうして、あの場所に来たんだろう。





 夜八時。群青は、時間通りに、僕を呼びに来た。

「それで、絵のモデルって、具体的に何をすればいいんですか?」

 服はこれでいいのか、ポーズはどうすればいいんだろう。初めてのことに、僕は緊張して尋ねた。

「そうだな……とりあえず、これにくるまって、そこの椅子に座って、楽にしてくれ」

「はい」

 彼が差し出した毛布をシャツの上から羽織って、僕は示された椅子に浅く腰掛け、どきどきと手を膝に置いた。脈が、速い。落ち着かない。

「……楽にしてくれと、言ったはずだが」

 イーゼルと木造りの丸椅子をこちらに運びながら、群青がわずかに渋い顔をした。

「ごめんなさい……緊張して……」

 楽な姿勢というものが分からなくなってどぎまぎする僕を一瞥いちべつして、彼は静かにイーゼルを置くと、僕のほうへと歩いてきた。

 ぽん、と、両肩に加わる、微かな重み。

 温かい、彼のてのひらだった。

 そのまま、ぽん、ぽん、と二度ほど肩を軽く叩いて、彼はすっと身を引いた。

 僕は、ぼうっと、呆けたように彼を見上げていた。一瞬、何をされたのか分からなかった。まるで、あやされたみたいな……けれど、不思議と、さざなみを打っていた心がいでいく。

「落ち着いたか?」

「えっ……あっ……はい」

「なら、いい」

 群青は、イーゼルにクロッキーブックをばさりと広げた。鉛筆をまっすぐ立てて持ち、構図でも決めているのか、その手を空中で上下左右に動かしていく。前髪の陰の向こうに、ほのかに輝く灰簾石ゾイサイトの光が見えて、僕はとっさに視線をらした。

 開け放たれた窓から、ひんやりとした夜風が穏やかに吹き込んできて、僕の頬に集まる熱をなだめていった。毛布にくるまっているから寒くない。

 アトリエの窓は大きく、夜の闇に沈んだ海がよく見えた。彗星のように走る燈台の光と、恒星のように灯るマリンランプが、チカチカと深黒の海にきらめいている。僕はしばらく、ぼんやりと、それを眺めていた。

 ふと視線を戻すと、群青が手を止め、こちらをじっと見つめている。

「あっ、ごめんなさい。余所見よそみして……」

「いや、そのままでいてくれ。今の君がいい」

「今の……?」

 伸ばしかけた背中から、そろそろと力を抜いて、僕はもう一度、黒い海を眺めた。


――今の君がいい。


 また、肯定の言葉をくれた。

 だめだ、また、調子が狂う。目の奥が熱くなる。

「……どうして、かないんですか?」

 視線を海に向けたまま、僕はせわしなく瞬きをして雫をおさめ、彼に尋ねた。

「僕が、どうして、あの場所にいたのか」

「聴いてほしいなら話すといい。言いたくなければ、言わなくていい」

 彼は静かに返答した。

「普通は訊くものじゃないの?」

「そうなのか」

「そうだよ」

 普通は、知りたがって……。

 その場だけ、神妙な顔で、親身に同情したふりをして。

 心の中では、にやにや笑って。

 その程度じゃ大したことはないと、辛苦を品評して。

 もっと苦しんでいる人がいるよなんて諭して、口を封じて。

 もっと、もっと、つらいほうへと追いやって。

 物言わぬ死体になったら、話の種にするんだろう。

 楽しそうに。

 たのしそうに。

「ああ」

 彼は、静かにうなずいた。

「私にも覚えがある。踏み込むべきでないだろうと思ったから、私は訊かなかった」

「え……?」

 思わず振り返ると、僕を見つめる青い瞳とかち合った。

「あの場所に立つほどのことが、君の身に起こった。その事実だけで充分だ」

 それだけ言って、彼の視線は、再びクロッキーブックに戻った。宛先をなくした僕の視線もまた、光の灯る海へと注ぐ。

 ほどよい緊張が奇妙な高揚感を生み、心地良く脈を速めている。僕は軽く椅子に座り直し、そっと深呼吸をして、体の力を抜いた。



 途中、何度か休憩を挟み、およそ二時間後、群青はクロッキーブックに数枚ラフを描いたところで、「今日は以上だ」と鉛筆を置いた。席を立ち、彼は提示した一万の紙幣を持って戻ってくる。僕は慌てて、受け取れないと手を後ろにまわした。

「今日は、ご馳走にもなっているし……」

 たった二時間、ぼんやりと椅子に座っていただけで一万なんて、僕にはもったいなさすぎる。

「何故だ?」

 彼は困惑したように眉根を寄せた。

「私の指定した時間、君は私に、生きる時間を提供しただろう」

 その対価だ、と彼がなおも紙幣を差し出すので、僕はおそるおそる、その紙幣を受け取った。彼は、こころなしか安心したように息をついた。

「明日も頼みたい。少し長くなるが、構わないか」

「もちろん。僕で良ければ」

「ああ。君がいい」


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