ディア・ピグマリオン
ソラノリル
1
春の空は、一年のなかでいちばん淡く、やわらかな色をしている。
世界を塗り潰すような鮮烈な夏の青さでもなく、果てしなく高く吸いこまれそうな秋の青でもなく、あらゆる
だから僕は春の空を選んだ。跡形も残さず、淡くとけて消えてゆけたなら、と、望みつづけた日々の果てだった。
分かっている。実際には、この体はとけて消えることなんてできない。ただ醜く潰れ、腐敗していくだけだ。
それでも。
雲ひとつない晴天。世界から逃れるには最適な空だった。
新市街と旧市街の境に
さよなら、世界。
不自由に埋め尽くされた世界で、ただひとつ残された自由を、僕は行使する。
屋上に柵はなかった。再び風が吹いた。追い風だ。これに
「飛び降りるなら、しばし待ってくれないか」
背中の向こうで声がした。振り返ると、缶コーヒーを片手にこちらへ歩いてくる長身の男の人が見えた。吹き抜ける風。ゆれる漆黒の前髪。視線が上がる。瞳が、かちあう。
深い、ふかい、一対の
誰? いや、そんなことは、どうでもいい。
誰だっていいから、邪魔するなよ。
最後まで世界は、僕の望みを踏み潰す気なのか。
どっか行けよ。僕なんか見なかったことにして立ち去れよ。この国の人間なら、見えないふり、知らないふりは、得意だろう。こんなこと、日常茶飯事で、新聞にさえ載らない。それとも、なに、善い人にでもなりたいの。だったら不運だったね。目の前に僕がいて。
僕は再び前へと向き直る。誰だか知らないけど、貴方の意向を、僕は
なのに、
「聞こえているだろう。しばし待ってくれないかと頼んでいる」
声は続いた。いささかも揺れない、ひららかな声だった。
風に乗ったコーヒーの香りが、僕に
「聞く気がないなら、言い方を変えよう」
「私に、君の時間を、しばし分けてもらいたい」
風が止んだ。つまさきから
「どういう意味?」
疑問をそのまま口にする。本気で答えを知りたかったわけじゃない。半ば反射に近かった。ただ、面倒だと思った。適当に話して追い払ってしまおう。
そう思っていたのに、
「もちろん、
僕から数歩離れたところで立ち止まり、彼は古びたチャコールグレイのコートのポケットに手を入れた。
「今ここでなら、新しいものが、一缶ある」
そう言って、彼が取り出したのは、未開封の缶コーヒーだった。
「これでいいなら、三分は延ばせるだろう」
あるいは、と彼は、ゆっくりと、けれど
「私とともに下に降り、三十分、延ばすことを承諾してもらえるならば、もう少し値の張るものを馳走しよう」
「……なに、言って……」
不可解だった。けれど、もっと不可解なのは、自分自身だった。僕の足は、彼に向かって踏み出していた。一歩、二歩、三歩……無言で歩いて、彼の前に立った。
「……なら」
「三時間なら、何が貰えるの?」
挑むように、
けれど僕を見下ろす彼の瞳の中で、僕は何故だろう、
+
「……ここって……?」
新市街の中心部に程近い東側の地区、三度目の植民地時代に整えられたエリアの一角に、その店はあった。平屋と庭を囲む土塀が、外の喧騒を遮っている。庭には水が引かれ、せせらぎが涼やかに耳を揺らす。きらきらと光を弾く水面の上には、大きく長く枝を垂らした桜の蕾が膨らんでいる。くたびれたコートを着た彼と、薄汚れたシャツにジーンズ姿の僕……今のいでたちは、この場にあまりにも
案内されたのは、
「希望はあるか?」
広げられたお品書きには、僕には難しくて読めない文字が並んでいる。料理の下に小さく説明が添えられていたけど、
だから僕は、端的に返答した。
「……別に」
「なら、私が適当に頼もう」
彼もまた、眉ひとつ動かすことなく、さらりと返した。
そして運ばれてきたのは、艶やかな椀に、色とりどりの小鉢、そこに繊細に盛りつけられた箱庭のような品々だった。食わないのか、と彼に声をかけられるまで、僕は半ば呆けたように、その
「……いただき、ます」
崩さないようにそろそろと箸で摘まんで、口に運ぶ。淡く、まろやかな、見た目どおりの繊細な味がした。美味しい。おいしい。目の奥が熱くなった。作法なんて知らない。夢中で箸を運んだ。頬張って、味わって、次々に僕は、お腹におさめた。
「……あの」
しばらく無言で箸を進め、次の大皿が出てくるまでのあいだ、僕は耐えきれずに口火を切った。
「
「何を?」
「何を、って……」
名前とか……と僕が口ごもると、彼は一瞬、視線を上げて、そしてすぐに伏せて、言った。
「君が名乗りたくないなら、名乗らなくていい。私の名を知りたいなら、尋ねればいい」
そこでちょうど次の料理が運ばれてきて、彼は食事を再開した。僕は何か言おうとして、けれど次の言葉が見つからなくて、結局、何も言わずに料理に戻った。彼が誰なのか、どうして食事を……あまつさえこんな高級な料理を、ご馳走してくれているのか、気にならないわけがなかった。しかし彼の様子は、そんなことは至極些末だと言わんばかりで、僕はただただ戸惑うほかなかった。
やがて、最後のお菓子まで全て平らげたところで、僕は彼に続いて箸を置いた。空腹を満たしたのは、いつ振りだろう。
「ごちそうさまでした……」
食後の棒茶を飲む彼を、そっと
「口に合ったか?」
「はい。とても。こんな美味しい料理……初めて食べました」
ありがとうございます、と僕が頭を下げると、彼は表情を変えることなく、ただ棒茶を飲み干して、「礼はいらない」と短く返した。
「それで……僕はこれから、貴方に何をすればいいのですか?」
「何も」
「えっ?」
「何もする必要はない」
「何も……?」
僕は戸惑った。
「どうして、ご馳走してくださったんですか?」
「言っただろう。君の時間を、しばし分けてもらいたい、と」
この食事は、君の時間の代価だ。
「そんな……」
何故。どうして。疑問が頭を駆け
「この食事は……僕の時間に見合うものというには、値が張りすぎるでしょう」
「私は見合うと判断した。不足ならともかく、足りるなら何も問題がない」
そう言って、彼は湯呑を置いた。
「そろそろ時間だな」
店を出ると、空は早くも暮れかけていて、青の端に茜が滲みはじめていた。
彼の後ろに続いてメインストリートに出る。北に上がれば新市街の中心部へ、南へ下りれば僕がいた旧市街へ繋がる。彼は北側に、僕は南側に立って、それぞれ足を止めた。
「貴方は……誰にでも、こういうことをしているのですか?」
金持ちの道楽、慈善事業のつもりですか、とは、さすがにもう言えなかった。
「いや、君が初めてだ」
彼はさらりと返答した。胸の中で混乱が渦を巻き、足もとから飲み込まれていくような心地だった。
「どうして、貴方は……」
つまさきに力を込め、体の横で両手を握りしめる。
「僕に、声を掛けたんですか?」
ざあっ、と風が吹き抜けた。街路樹の
「……君を」
長い前髪が落とす影の下で、彼の青い瞳が淡い光を宿す。
「あの場で失うのは、あまりにも惜しかったからだ」
カツン、と、彼のブーツが石畳を踏んだ。一歩、距離が縮まる。ふわりと、微かに塗料のような、溶剤のような、不思議な匂いが鼻を
「私は、君を、世界に奪われたくなかった」
静かに、ただ、静かに、彼は答えた。
「どうして」
僕はさらに問いかけた。彼は僕より長身で、自然と僕は彼を見上げる格好になる。
「どうして、僕を……?」
彼は、ふっと目を伏せ、
無表情だった彼の面持ちに、ほのかに色が宿った気がした。
「私は、画家をしている」
「画家?」
「そして、君を描きたいと思った」
「僕を?」
「ああ。だから、必死で、言葉が出た」
「必死で?」
「言っただろう。君を世界に奪われたくなかった、と」
つまり彼は……と考えて、僕の頬は思わず緩んだ。
「必死で、僕を食事に誘ったの?」
「そうなるな……まわりくどかったか」
「わけが分からないよ」
くすくすと笑う。飛び降りたいと張り詰めていた気持ちは、いつのまにか、ゆるゆるとほどけていた。
「日当、一万で、どうだろうか」
彼は切り出した。
「私の絵のモデルとして、引き続き私に、君の時間を提供してもらいたい」
「一万……?」
僕は瞠目した。
「足りないか?」
彼が不安そうに――実際は無表情だったが、僕には不思議とそう見えた――小首を
「逆だよ!」
僕は思わずつまさき立ちになって彼を見上げる。モデルの仕事の相場は知らないけど、一万というのは破格の高値ではないだろうか。少なくとも僕は、そんな大金、一度たりとも稼いだことはないし、持ったことすらない。
「僕でいいの?」
「君がいい」
彼は即答した。僕の心臓が、小さく跳ねる。
体が熱くて、目の奥がじんじんとして、僕は顔を伏せ、瞳を、ぎゅっと
僕がいい、と、言ってくれた。
僕でいい、ではなく。
どうして。
どうして、僕、なんか……僕は両手を握りしめ、彼の言葉に
「君、帰るところは?」
「ないから、あの場所にいたんです」
「ならば、私のアトリエに来るといい。余っている部屋がある」
+
彼のアトリエは、新市街の南端、対岸に旧市街を臨む湾岸地区の一角にあった。元は植民地時代に貴族のゲストハウスとして建てられ、今は家具付きのアパートメントとして運用されているらしい。エントランスには幾何学模様を描いた黒い鉄製の柵。ドアノブにはひとつひとつ異なる花をモチーフにした凝った装飾が
ドアが開けられるなり全身を包み込んだ匂いに、僕は彼のまとう不思議な香りが油絵具の匂いだと知った。
「お邪魔します」
「これから君も住む部屋だ。遠慮はいらない」
彼は、玄関のすぐ右側にある部屋のドアノブに手を掛けた。
「掃除は自分でしてもらえると助かる」
十分すぎるくらいだと、僕は思った。
それから彼は、バスルームとキッチンを通って、軽く使い方の説明をしてくれた。
アトリエはキッチンと隣接していて、描き終えた絵だろうか、壁の端から端まで立てかけられた幾枚ものキャンバスと、使い込まれたイーゼルが並び、床には鉛筆で何かをスケッチしたらしい紙が何枚も、丸められたり破かれたり折られたりして散らばっている。アトリエの奥には色褪せたダークブラウンの木の扉があり、そこが彼の私室らしい。
本当に画家なんだ……。
僕は小さく息をついた。画家だと言った彼の言葉を、全く疑わなかったと言えば噓になる。連れられた先で酷い目に遭わされる可能性を、少しも考えなかったわけじゃない。それでも、もう、いいと思った。今日の昼間にはなくなっていたはずの命だ。いざとなったら、同じことをするだけ。
そう、頭の隅で
不思議な人だ……。
改めて、彼の横顔を見上げる。
絵のモデルになってほしい、なんて、名前も訊かずに僕を家に連れてきて……あぁ、でも、彼も名乗っていないのだから、同じか。
「危ないですよ」
「何がだ?」
「不用意に他人を家に入れて……僕が、もし悪いことを考えていて、家に入るなり貴方を襲って、金を奪って逃げる可能性だって、あったかもしれないのに」
「君は、悪いことを考えていたのか?」
「えっ?」
「そうだとしても、別段、問題はないが……」
「いや、すごく、問題があると思いますけど」
「何故だ? 君に襲われて惜しい命ではないぞ」
「ええ?」
「私は君を描きたい。だから生きることにした。君を描けないなら、生きる理由はない」
前言撤回。この人、不思議な人じゃない。変な人だ。
「……
「うん……?」
「僕の名前です。渚・カナイ」
これから彼に雇われるのだし、まして間借りして住まわせてもらうのだ。今更だけれど、名乗るのが礼儀だろう。
「……渚……」
彼は呟くように……どこか噛みしめるように、僕の名前を口にして確かめると、
「私は、
聴き取りやすい発音で、ゆっくりと、その名前を告げた。
「群青さん」
「群青がいい」
「えっ、でも……」
「群青と呼んでくれ」
有無を言わさず返されてしまい、僕は思わず
群青でいい、ではなく、群青がいい、のか……。
群青……
「それで……群青、貴方のモデルとして、僕は何をすればいいの?」
「そうだな……今夜は八時からにしよう。二時間ほどで構わない。呼んだら、このアトリエまで来てくれ」
「分かりました」
それまでは部屋の掃除をしよう、と僕は頭の片隅でプランを立てた。
「それじゃ……よろしくお願いします」
「ああ。……よろしく」
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