5
翌日。僕は独りで、サクマ氏の画廊を訪れた。そこに
彼は僕を、画廊の奥の応接室へと招き入れた。
「やぁ。来ると思っていたよ」
彼は昨日と同じ軽薄な調子で、カラーレンズの眼鏡を掛け直しながら僕を見下ろした。
「何を
「味方?」
「そう。大切な群青先生専用のモデルだからね、君は」
どこか棘を含んだ声色だった。僕は唇を引き結び、努めて静かに、口をひらいた。
「……どうして、群青を抱いたの?」
恋人でもないのに、という言葉は、喉の奥で
「なんだ、そっちか」
彼は口を
「俺をモデルにしてよって頼んだら、断られた。それなら抱かせてって言ったら、抱かせてくれた。それだけ」
「貴方は、群青のこと……」
「好きだよ。抱きたいほどに、ね」
ふっと、彼は目を細めた。微笑みのかたちをした、寂しげな色だった。
「でも、先生は愛さない。たとえ
「だから、前のモデルは死んだ」
「えっ……」
死んだ? 僕は瞠目して、傑流を見つめる。
傑流は静かな笑みで、僕のまなざしを受けとめる。
「そうだよ。自殺したんだ。先生に愛されないことを悲観して」
傲慢だよねぇ、と傑流は笑った。先生に選ばれた唯一のモデルになれただけじゃ満足できないなんて、と。
「君の前にモデルになった……先生が最初にモデルに選んだのは、
湊……告げられた名前を、胸の中で呟く。
「先生は、誰ひとり愛さないんだ」
「先生が愛するのは、自分が描いた絵の中にいる理想像だけ。それを描くために、君や湊というモデルを必要としているに過ぎないんだ」
「生きたデッサン人形に過ぎないんだよ、君も、湊も」
「だから、君に忠告してあげたんだ。先生に
傑流の言葉が、僕の胸の底に、ぽたり、ぽたりと
「先生に、愛してほしい、なんて、求めないことだね」
「
「君は、湊と同じ
胸の底に溜まったインクのような泥濘が、ぐるりと渦を巻いていく。
「……湊さんは」
「うん?」
「僕の前に、あの部屋に住んでいたんだね」
「そうだよ。それで、ある日、突然、部屋の私物、全部、処分して、飛び降りた」
「……飛び降りた……?」
「そうだよ」
彼は軽薄に笑った。
「半年前だったかな。雪の日だった。いなくなったことに気付いて探したんだけど、投身したのが旧市街のビルだったから、しばらく通報もされなくて、発見された時には死後四日が経っていたかな」
そこで傑流は話を切り、狭い応接室に沈黙が満ちた。僕の反応を
「……ご忠告、どうも」
僕は静かに返答した。
「僕は、群青……先生に愛されたいなんて、思ってないから」
「それは良かった」
傑流は悪びれた風もなく微笑んだ。
「君が大事なモデルであることは、まぎれもない事実で、本当のことだよ」
「だから、これからもよろしくね、モデルさん」
アパートメントへ続く帰路を、小走りで歩いた。
――君がいい。
群青の言葉が、心の中で反響する。
――私は君を描きたい。だから生きることにした。
あの言葉も。
――君を描けないなら、生きる理由はない。
この言葉も。
すべて、僕を〝モデルとして〟という意味だったのだ。
でも……。
だから、なんだというのだろう。
優しくされるのも、大切にされるのも、〝モデルとして〟で僕は一向に構わない。群青のモデルであること、それが今の僕を支えていた。僕の矜持であり、僕自身の肯定だった。だって今まで、僕は何者でもなかったのだから。
(僕は、湊とは違う)
僕とよく似た容姿をして、同じように群青のモデルとなり、同じ死に方を選んだ、同じ海の名前をもつ青年。でも、彼は死に、僕は生きた。群青に生かされた。それだけで充分だった。
生きたデッサン人形だというなら、それでもいい。
僕は、これからもモデルとして、群青の前に立ちつづける。
僕を描けば、群青は、キャンバス越しに、愛しい相手に会えるのだろう。
群青が愛するのは、キャンバスの中にいる顔の見えない理想像。
群青がどれだけ愛しても、絵の中の彼が群青を見ることはない。
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