時に評価は覆る ー蟹座の彼女



「めちゃくちゃかわいいじゃん!」

「大人っぽいよね」

「飽きられないようにしなさいよ」

「こんな素敵な子いないよねぇ」

「大事にしないと誰かに殺されんじゃね?」

「穏やかな素敵な人ねぇ・・・」


 これらが僕の知り合いや仲の良い友人まで、ほとんどの人が言う彼女への評価だ。


 玄関のドアを開けると見慣れたストラップシューズが目に入る。すぐに部屋の奥から夕飯のいい匂いがした。醤油の少し焦げた匂いと肉のいい香りがする。バイトの昼休憩にタイミングを図ったかのようにラインが来て、晩御飯は何がいいかと聞かれた。具体的なものは書かずに、肉が食べたいとだけ返信していた。多分付き合いたての頃に作ってくれた焦がし醤油のチキンソテーだろう。食欲を掻き立てられる香りだ。料理が上手で、初めて手料理を食べた時は、店員意外でこんなに美味しいご飯を作ってくれる人って本当にいたんだと思った。うちの母親は料理が下手で、晩御飯といえばほとんどが、カレーやチャーハンなどの簡単な料理だったから、家庭の味ってものがそもそもよくわからない。

 玄関からただいまと声をかけると、おかえりと返ってきた。玄関に迎えに来ないということは料理が佳境なのだろう。調理する音が聞こえてこないから、多分盛り付けをしているのだろう。料理の決め手は盛り付けだと彼女はいう。

 部屋に入る前に洗面台で手を洗う。俺は自分のことを『潔癖ではないがそれなりには綺麗好き』と分類していたが、一人暮らしの家に彼女がたびたび訪れるようになってから、気がつけば自分一人だけで生活していた時よりも家の中は綺麗になっていた。自分の家なのに自分の家じゃない感じがする。ただその感情は、不快感という訳ではなく疑問という感じだ。俺だったら、他人の部屋を掃除するなんてまっぴらだし、綺麗にしてよって言われるくらいが普通なんじゃないのかなって思う。

 ハンドソープは泡になって出てくるタイプだ。前は液状を使っていたが、彼女は泡で出てくるのが好きらしく、俺も特にこだわりがあったわけじゃないから彼女が買ってきたものに変えてから、泡立ても楽だしそのままだ。プシュッと心地よい音がして大きな泡が出てくる。確か少なくなってきたから買おうかと思っていたのだけど、いつの間にか彼女が新しいものに入れ替えてくれたらしい。そういうことを一切言わないから、いつも変わってから気づくのだ、俺は。

 うがいをして、汗をかいた顔を簡単に水で流した。日に日に夏に近づいている。時が経つのは早いな、なんて思いながら部屋に入った。


「お帰り」

「ただいま」

 狭い部屋の小さなテーブルには、やっぱりチキンソテーがあって、ご飯も揃いの器に盛ってあった。またしてもタイミングはバッチリだ。俺が帰ってからテーブルに着くまでの時間感覚が彼女に身についているようだ。ほんとすげぇな。

「お肉しか書いてないからチキンソテーにしちゃったけど大丈夫?」

「全然。ありがとう、腹へったわ」

「よし、じゃあご飯食べよ。 手洗いうがいした?」

「うん、した。」

「じゃあオッケ、食べよ」

手洗いの音も、うがいの音もきっと彼女には聞こえていたのだと思うけど、それは口にはしない。彼女なりの確認なのだ。

 ツヤツヤのチキンを切って口に運ぶ、相変わらず美味しくて今日の疲れが吹っ飛びそうだった。

「うまいっ」

「本当? よかったぁ」

 他愛もない話題で盛り上がって、あぁ穏やかなだなぁなんて思う。こんな時間がずっと続いたらいいな、一緒に笑っていられたならいいな。

 なんて願う時ほどその時間は長く続かない。そんなことは経験として痛いほどわかっているはずなのに願ってしまう。いつも忘れちゃうんだよな、俺。




「もういいっ!!」

 足元に置いていたトートバックを掴み、玄関のドアを勢いよく開けて出ていった。呼び止める間もなく風のように彼女は飛び出していってしまった。結構気をつけていたはずなのにうっかりしていた。いや、そもそも一体何がダメだったのか、何をうっかりしたのか全くわからない。いまだに彼女の沸点がどこなのか俺には見つけられない。穏やかに話が進んでいたはずなのに、いつの間にか空気が悪くなって、あれ、なんか空気が・・・?と思っていたら彼女の「もういいっ!!」が炸裂したのだった。俺が帰ってきてから飛び出していく前まで、何が彼女の琴線に触れたのか皆目検討がつかない。俺が鈍感なのか?デリカシーがないのか?考えても考えてもわからない。全く説明がないから反省するポイントすら不明だ。

 友人たちの総評は合っている。ただ一部まるっきり外れているところもある。彼女の感情は俺にとっては火山みたいだ。実はお腹の中は赤々としたマグマがあって、外側からは全く気づかないのだけど、たびたびグツグツと沸騰している。そして、気を抜いた隙に爆発する。

 とりあえず一呼吸。まずはそれから。

 窓を開けてタバコを吸い、じめっとした風を顔に浴びる。タバコの値段も年々高くなっていてやめた方がいいかなと思うけど、こういう時の一番の親友なのでやめられずにいる。ゆっくりと一本深く深く吸ってから、携帯と財布を持って玄関に行く。彼女のストラップシューズは玄関にきちんと揃えられたまま置いてあった。俺が履いていこうと思ったサンダルは彼女によって履いて持ち去られていた。あんな大きくてゆるいサンダルであの子はどこまで行くつもりなのだろうか。ぱたぱたと音を立てながら懸命に走っている彼女を思うとちょっと笑えてしまう。実はこういうことは一度ではない。

 くたびれた古いサンダルを靴箱から出す。ほぼ使っていないが、こいつの使用頻度は月に一、二回程度。たまーに連日使うこともあるけれど。実際、サンダルからしたらこんな感じで履かれるよりは捨てられる方がいいのかもしれない。どう思っているのかサンダルに聞いてみたい。

 外に出るとじめじめとしているものの時折強く吹く風は気持ちいい。

 家からほど近いコンビニに寄る。今日はいつも読んでる週刊誌の発売日だ。雑誌はまず巻末の目次から見る。お目当ての漫画は運悪く本日休載だった。ちょっとがっかり。そのまま最初からゆっくり読んでいく。どこかの本で読んだけれど、漫画にはストレス発散効果があるらしい。登場人物の体験を擬似体験しているような感覚になり、小説よりも目で楽しむことができるため、より感情移入できるのだそうだ。おすすめは効果音まで読むことだったはず。実践するチャンスだな。

 コンビニ店員は俺が存在していないかのように自分の仕事をしている。日中に来るとお仕事熱心な店員さんに思い切り邪魔だという視線を送られるが、夜のコンビニ店員はこちらには関心がないらしい。読み終えた俺はせめてもと、雑誌を元の場所に戻し、その周りを整えてみた。

 缶コーヒーを買う。昔はブラックが苦手だったけれど、最近美味しく感じる。夜には特に。


 コンビニを出て右に曲がる。コンビニの裏手を通ってまた右に曲がるとコンビニの表通りと同じ道に出る。それならばコンビニを出たら左に曲がれば?って感じかもしれないけれど、俺にとってのこの時間は意味があるのだ。右に曲がってまたコンビニを通り過ぎ、そのまま進む。

 信号をいくつか越すと左手に小さな公園が見えてくる。遊具はブランコと滑り台とベンチ。それくらい小さな公園だ。横幅はあまりないのだけれど、奥行きが結構ある。公園に入るとすぐ右手に手洗い場があって、その隣にブランコがある。真ん中の大きな時計は二十二時を指していた。いつも通り。いい時間である。緑の匂いがこの前よりも濃い気がした。

 そのまま奥に進むと滑り台がある。公園の規模にしては豪華な滑り台だ。昼間には子供達が日が暮れるまで滑ってやると言わんばかりに、滑っては並び、滑っては並びを繰り返している。子供ってなんであんなに飽きないんだろうか。もしかして子供の頃に滑りまくったせいで大人になってやっと飽きて滑らなくなるんだろうか。

 その滑り台に人影がある。少し遠い場所から眺めていれば、日中の子供みたいに何度も何度も滑り台を滑っている。階段を登るたび、ひらひらと揺れる洋服の裾が見える。さっき買ったコーヒーを飲み干してから奥へと進んでいく。ぶかぶかのサンダルがカパカパと鳴っている。ワンピースの裾が滑り台にくっついているが全く気にしていないようだった。確か今日は黒いワンピースだった。まぁいいのか。


 彼女がもう一度滑り台に登ったとき、ふと動きが止まった。どうやら俺に気づいたらしい。そのまま全く動く気配がない。彼女の顔は月明かりの逆光で全く見えないがなんとなく想像はつく。全然動かないなぁと思っていると、おもむろに滑り台を一気に滑り降りた。伸びてきた髪の毛がザァっと揺れて肩に落ちる。彼女は立ち上がって、ワンピースをぱんぱんと叩いた。

 今更だけど彼女の背は低い。暗い闇に溶けていつもよりも小さく見える。俯いている頭も小さくて、うなじが弱々しく光っている。

「暗いから危ないよ」

 そう言って洋服を叩いていた手をとって俺は歩き出した。彼女は何も言わないでついてくる。小さな手がしっとりと湿っていた。


 公園を出て右に曲がりコンビニの向かいの道を歩く。二つ目の角を右に曲がると程なくしてレンタルビデオ屋が現れた。個人店だから大きくないけれど、品揃えが意外と豊富で他のお店では見ないような作品とかビデオテープが置いてあったりする。最近はサブスク動画サイトにお世話になっているが、ネットにすらない掘り出し物もあったりする。映画好きな俺はこの辺りに住もうと決めた時、この店を一つの決め手にしたのだった。光から少しの間遠のいていた彼女は眩しそうに顔を顰める。

「好きなもの選んで。」

 俺がそういうと彼女は手を離して棚の奥に消えていった。俺も彼女とは反対の棚へ入っていく。店員はいつも同じ髭を生やした親父って感じの人で愛想は良くないが、いつも映画雑誌をカウンターで読んでいる。結構棚の並び替えをしているし、映画好きなのがうかがえる。俺はこの店の週替わりコーナーをほぼ毎週覗いている。かなり古い年代から最新のものまで面白い特集が組まれている。それがとても楽しみなのだ。コーナーを眺めていると彼女が戻ってきた。黙ったまま一本のDVDを差し出す。彼女が持ってきたのは5、6年前のアニメーション映画だ。彼女のDVDと週替わりコーナーから引き抜いた二本のDVDをカウンターへ持っていった。



 彼女は家に着くと、黙ったまま手洗いとうがいを済ませ、汚れた洋服を脱いで洗濯機に入れると、キャミソールと部屋着のスウェットパンツ姿でテーブルの上を片付け始めた。出しっぱなしにしていた皿を洗い場に置いて水につけてから、夏用に出していたタオルケットを体に巻きつけて、二つ並んだ座椅子に座り電気を消した。

俺も彼女に続いて手洗いとうがいを済ませ、部屋着に着替えてからDVDをセットして隣の座椅子に座った。


 彼女が選んだアニメーション映画を見るのはこれで何度目だろう。好きなものを選んでというと決まってこのDVDを持ってくるのだ。それが数回続いた時、別のものじゃなくていいのかと聞くと、何も選んでくれなくなったので聞くのはやめた。これも彼女にとっての必要事項なのだ。きっと。

 クライマックスは、雨の中の非常階段で男が泣きながら女に向けて感情を爆発させた後、男に呼応して女も抱き合って泣く。そして二人に光が差す。音楽の融合も最高で何度見ても確かにこのシーンは素晴らしい。

 音楽が流れた時から、啜り泣きが聞こえていた。それが次第に大きくなっていく。俺は画面を見たままその声を聞く。わぁわぁ泣く。本当に子供みたいにしゃくりあげて泣く。その声に釣られて俺も泣きそうになってきた。

 彼女はこの映画でしか泣かないのだ。彼女のマグマはどうやら自分自身でもうまく扱えないみたいで、こうやって時折大好きな映画を借りてわぁわぁ泣く。

 時折鼻を啜りながらもあふれる涙を拭きもせず、泣き続ける。エンドロールと音楽に彼女の泣き声がないとこの映画は俺にとってはもう完成しなくなってしまった。

 視線は画面に向けたまま、座椅子の端っこを握りしめていた彼女の手を取る。その手を握ればちゃんと握り返してくれる。ぎゅうっと強く。わんわん泣きながら。


 多分彼女はまだ俺の前でうまく泣けないのだ。

 誰に対しても面倒見が良くて、愛に溢れていて、人のことを気遣って、そうやって感じた痛みも表に出さないで。

 だからせめていつか、俺の前では映画に頼らなくても、気兼ねなく泣いて笑えるように、泣かせてあげられるようになりたい。

 お互い説明不足で言葉足らずな俺たちには、合わないサイズのサンダルで飛び出すことも、タバコを吸う時間も、コンビニの寄り道も、週刊誌を最初から最後まで読むことも、公園への周り道も、滑り台も、全部が必要な道のりなのだ。

 そんな彼女がなんだかんだ心の底から愛しいのだと、俺は気づく。彼女はまだ声をあげて泣き続けている。俺の目にも涙が少し浮かんでいる。彼女の顔を盗み見て、俺は少しだけ笑ってしまう。自分の目の端に浮かんだ涙を拭った。

 もちろんちゃんと、彼女に気づかれないように。


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