ベルが鳴ったら ー牡牛座のわたし
ふわふわしているものが好き。
ふわふわに触れていると、そのままぐっすり眠れるような気がする。お腹の真ん中あたりから体全体に甘い穏やかさが広がって、おおきなおおきな欠伸が出る。白色のふわふわが一番好き。この前は真っ白なクマのぬいぐるみを買った。
肌触りが良いものが好き。タフタとかブロードよりもスムースニット派だ。この場合色合いは関係なくて、頬を滑る感触が重要だ。
買う家具の色もバラバラ。テーブルは茶色でソファーは深緑。カーテンは濃い夏の空みたいな群青色。
初めてあの人がきた時は、カラフルでチグハグな部屋にかなり驚いていた。
喫茶店で働き始めた頃、あの人は店にやってきた。その頃のことは余裕がなくてほとんど覚えていないけれど、オーナーに、
「君と同じような年代の子が来るのは珍しいよ」
と言われたのはよく覚えている。気がつけばあの人は、わたしよりも先に、気難しい常連のお客様ともお友達になっていた。
喫茶店で働き始めたのは、勿論コーヒーが好きだったから。
いわゆる純喫茶と呼ばれる系統の店で、悠々とした雰囲気をまといながら、都会の路地裏にひっそりと建っていた。
引っ越ししたばかりで、周辺の地理もあんまり把握していなかったから、家からそこまで遠くなくて、かつ人が多そうな街を散策していた。人の多い街がわたしは嫌いではない。人にぶつからずに歩くのは下手くそだけれど、抜け道や裏道を見つけるのが好きなのだ。
お祭りの出店より、お囃子の音が遠く聴こえる場所が好き。そういう好きとおんなじだ。
大通りには人が溢れかえっていた。すれ違う人たちの、洋服や鞄や靴をキョロキョロと眺める。当たり前のことだけれど、本当にいろんな人がいる。東京はなんて面白い場所なのだろう。
いくつかのお店でお気に入りを見つけた。とりあえず、さっきのお店のかわいいワンピースでも買おうか。それともアンティークを扱う雑貨屋の店先に置いてあった、ノームの置物を買ってしまおうか。玄関先でわたしを出迎えてくれる子を探していたのだ。
そんなことを考えていたら、頭に水滴が落ちてきた。空はすっきりと晴れていて目が眩みそうだった。
突然の天気雨で楽しい気持ちになって、一人クスクス笑いながら街を走った。アニメの主人公になったみたい。強い雨が体を濡らす。全く冷たくも寒くもなくて、どんどん心が浮き立っていった。
細い路地に駆け込んだ。
路地には小さなお店が軒を連ねていて、一つの街が形成されているようだった。雨粒がよりその光景の美しさを際立たせていて、踊るような足取りで適当にまた路地を曲がった。
そこに喫茶店はあったのだ。
太陽の光を帯びた雨の雫が美しく線を描き、ステンドグラスを流れていく。その光景に思わず立ち止まって見惚れてしまった。どんどん身体は濡れていくが、全く気にならなかった。さっきまでの浮き立った心が穏やかに温まって、じんわりと体の隅々に広がった。
そのまま誘われるようにお店へと入った。わたしはこのお店に呼ばれていたんだと思う。
重そうな扉に手を掛けて引くと、意外とすんなりと開いてベルが鳴る。甲高い音ではなく、身体の大きな奏者が手に収まるほどの小さなカウベルを、申し訳なさそうに鳴らしたみたいな音だった。思わずため息を吐いた。
その音がやむと、店内に細々と流れていたピアノ曲が聴こえた。扉から差し込んだ光に空気中の埃が瞬く。広くも狭くもなくて、すぐに全体が見渡せるのもよかった。幼い頃遊んだドールハウスの中みたいに。
カウンターにいたオーナーらしき老人が小さくわたしに会釈をする。そのまますぐに手元の作業に戻ったので、勝手に進んで一番右奥の席に座った。入った瞬間に絶対にそこにしか座りたくないと思ったのだ。
わたしが死んで、天国にこのお店があったなら、自分がそこに座るのだと容易に想像出来たからだ。
地獄でもいいや、いっそのこと。
先ほどより少し小さめだが、ステンドグラスの窓があって、ブリキのロボットがちょこんと座っている。シュガーポットはテーブルごとに違うようで、その席のものが一番可愛かった。黒猫の砂糖入れ。
その日のうちに雇って欲しいと伝え即採用されてからお客様じゃなくなって、その席に座ることもなくなった。そのかわり掃除はいつも念入りにした。そしていつもあの席ばかり眺めていた。そのせいかわからないが、働き始めてからお客様がそこに座ることはなかった。
お気に入りの席だから座って欲しい。あの席の素晴らしさを自慢したい。でも座って欲しくない。でも座って欲しい・・・と、なんとも言えない気持ちで仕事をしていた。
なのに、あの人がいつからその席に座っていたのか思い出せない。あの人はいつの間にかその席に座るようになっていた。初めからあの人だけの席みたいに。
あの人はよく本を読んでいた。本のカバーは紙ではなく、布製のカバーをつけていた。読む本によって変えていたらしく、かなりの数のブックカバーを持っていた。わたしが知る限り、同じカバーをつけているのを見たことがない。
小ぶりの黒い革製のバックを持っていて、猫のストラップをつけていた。似合わないのかもしれないけれど、とても可愛かった。しかもわたしが一番好きな猫種のラパーマだ。すっきりとした目とくるくるの巻毛が愛らしい。
どういう風にわたしたちの関係が始まったのか思い出せないけれど、そういう些細なことばかり、つい最近の出来事みたいに鮮明に覚えている。
「本を読んで」
あの人は眠る前にいつもそう言った。シーツと掛け布団の色が違うことに文句をつけていたのに、ちゃっかりわたしよりも先にベットに潜るようになっていた。
「今日はなんのお話?」
「星が落ちてくる話」
「最近そればっかりじゃない? まだまだ読んでないお話沢山あるよ。っていうか、毎日違うお話が読みたいからって買った本なのに」
「いいんだよ、あの話が聞きたい」
「・・・まぁ、いいけど」
瞳の奥が透き通る。子供みたいだ。
あの人の瞳の奥は、心模様によってころころと変化した。その輝きだけを集めた画集があったら、是非欲しい。
わたしがその瞳が好きだったように、あの人はわたしの声が好きらしかった。夜毎あの人が望む話を読んで聞かせた。『星が落ちてくる話』はちょっと悲しいお話だったのだけれど、それを読むわたしの声が一番好きなのだと、いつだったか教えてくれた。わたしの声はあの人に言わせてみれば、埋もれてしまいそうなのに決して埋もれない声らしい。その声を逃さないように、耳を澄ませて聴くのが好きなんだそうだ。それについてはあの時も、今になってもよくわからないけれど。
わたしはあまり環境が変わることを好まない。一度見つけたお気に入りは、自分自身の役目を終えるまで、そばに置いておきたい。
柄も色も質感もバラバラのものが集まっているわたしの部屋みたいに。
わたしが何かを終わらせることはなくて、いつもわたしじゃない誰かが、全て終わらせて変えていくのだった。
あの人の特技の『いつの間にか』は、2人の関係にも発揮され、いつの間にかわたしたちは終わっていた。決定的な何かがあったわけじゃない。
あの人が家に来なくなって、お店にも来なくなって、連絡が少しずつ途絶えていった。共通の友達がいるわけでもなかった私たちは、互いに何をしているのかわからなくなった。やりとりしていた携帯の中身を見返しても、終わりに向かうきっかけも、終わったと思われるタイミングも、そこから見つけることはできなかった。
多分そういう時は、途中で何か気づいたり、懸命に追いかけたりするんだと思う。普通のみんなは、連絡の少なさとかそっけなさとかに、ちゃんと気づくのだろう。
それか心の底から、こんなやつ、もうどうでもいい、と思い、もしかしたらすごーく怒るのかもしれない。
でもわたしは、あの人について不快な気持ちになっていないのだ。
聖人君子じゃないからさみしさはそれは感じるけれど、それよりもあの人らしいと微笑ましくすら感じる。
怒りとか虚しさとか苛立ちとかそういうのは全くない。
友人に変わっている、と言われるのはこういうところかもしれないなぁ、と他人事のように思う。
わたしは今日もお店に立つ。あの人が来なくても、あの席はわたしの大事な席に変わりないし、チグハグな色のテーブルで食事をして、家を出るときはふわふわのくまを抱きしめて、行ってきますをする。家に帰れば、あの人と何度も一緒に眠ったベットで、ぐっすりと眠るだろう。何度も読んでもう空で言えるようになった『星が落ちてくる話』を読むのも忘れずに。何度も読むうちにわたしにとっても大切なものになったのだ。
ステンドグラスの窓からは晴れた太陽の光が差し込む。ブリキのロボットは変わらぬ表情で、窓の枠に座っている。黒猫のシュガーポットはさっき磨いたばかりでピカピカだ。
あの席には最近白髪のご婦人がよく座っている。ご婦人の隣にはあの人がいて、穏やかに笑い合っているのが見えた気がして、ワクワクした。あの人は高齢の女性にとても好かれる人だったから、きっと素敵な画になっただろう。うん、あの席はご婦人にお似合いだ。
あの人がいなくてもわたしが好きなものはちゃんとわたしの好きなものだ。
だってわたしは一度大切だと思ったら結構しつこいのだ。
戻らなくてもそれはそれで幸福なのだ。その中にはあの人自身もちゃんといる。
わたしたちの人生がこのまま一度も交わらなくても、あの人への愛しい思いはなくなることはないと、わたしは確信している。
昼下がり。
穏やかな眠りと現実の狭間の刻。
もうすぐあの人がよくきていた時間だ。
今、お店の扉が開かれて、あの人が何事もなかったかのように「久しぶりだね」と微笑んだなら、わたしは何事もなかったかのように「久しぶりだね」と笑うだろう。そのままわたしはきっと、空白の時間を軽々と飛び越えて、一緒に過ごした時間となんら変わらない時間を過ごすだろう。
そしてまた、あの人のことを熱心に愛してしまうのだ。
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