第57話 感情の色③
「あの日、学校帰りの道でアイツに会った。たぶん待ち伏せされてたんだろうな。家の近くのコンビニの横、細い道あるだろ?あそこから飛び出してきて、気が付けば羽交い絞めされてた」
僕たちが一番知りたくて、それでも聞けなかったあの日の真実。
淡々とした口調で話されるそれに、緊張が走る。
「一瞬何が何だか分からなかった。当然だよな、オッサンに捕まるなんて予想外の出来事すぎて。それでも、だんだん思い出してきたんだ。キツく抱きしめられてる感覚とか、温度とか。確かにこれをオレは知ってる、こいつをオレは知ってるって」
ヒオの口から話されるそれは、あまりにも重くて誰もが口を開くことができなかった。でも僕たちは、全てを受け止めるために今日ここへ来たんだ。
ヒオが闘おうとしている真実に、僕たちが逃げ出すわけにはいかない。
「後ろからオレを抱きしめているアイツが何か言っているのは分かったけれど、それどころじゃなかった。滝のように記憶が流れ込んできて、それに耐えるのに精一杯で。怖くて怖くて、またあんなことされるのか、絶対にそれだけは嫌だ、逃げたい、逃げたい、それだけ必死で思って」
爪が食い込むほどに握りしめられたヒオの手にそっと触れる。
今のヒオに触れるのがいいことなのかは分からなかったけれど、そうせざるを得なった。一人じゃない、それだけを伝えたくて。
ヒオは嫌がることなくほんの少し力を緩めてくれた。
「頭がぐちゃぐちゃでパニックの中、アイツがオレの服のボタンに手をかけてきたのが分かった。一個ずつ外されていって、段々手が下に下りていって。ついにズボンのボタンに触れられそうになったとき、咄嗟に手が出た。これまで震えてたのに、たぶん本能だろうな。思いっきり体をよじって距離を取って、アイツの腹にパンチぶちこんでた」
握った手が、震えているのが分かる。
僕はその手を両手で優しく包み込む。
頑張ったね、よく逃げ出せたね、と思いを込めて。
「そこから先は、ほとんど覚えていない。必死に走って玄関のドアを開けたらおかえりー、って聞こえて力が抜けて。あとはずっと暗闇だったんだ」
誰も、何も言えなかった。
ヒオの感じたであろう恐怖や絶望、その苦しみを、僕たちはどうしてあげられるだろうか。
「…ヒオ」
則正さんが落ち着いた声で呼び掛ける。
振り向いたヒオの目は、どこか怯えたように揺れている。
則正さんはそんなヒオに微笑みかけ、そっと抱きしめた。
「帰ってきてくれて、ありがとうな」
頭を撫で、ゆっくりと聞かせるように話す。
「怖かったな、辛かったな。でも、もう大丈夫だ。俺たちがいる。ヒオのこと、絶対に守れるように頑張るから」
「そうだぞ。ずっとずっと、待ってたんだからな」
幸也さんも背中を撫でながら言う。
祐介くんと僕は、もう何も言えなくて、ただ手を握って頷いていた。
「ありがと、ありがとう、みんな…」
ついにヒオの目から涙がこぼれ落ちた。
泣けばいいんだ。辛かった、怖かったって、大声で泣けばいい。
それなのにヒオはまだ声を出さないように歯を食いしばっている。
「…泣けよ。なんで我慢するんだよ。怖かった、苦しかったって、言えよ!」
祐介くんが自分も泣きながら叫ぶ。
それを聞いたヒオは、少しずつ声を上げはじめた。
胸を刺すような悲痛な叫びは、聞いているだけで苦しくなる。
でも、少しでもヒオの苦しみを溶かすことができるなら。泣くことで何か区切りをつけることができるなら。
僕たちはそばにいることしかできないけれど、全力で隣に立つ。
いつでも寄りかかってもらえるように。
苦しい記憶を少しずつ少しずつ吐き出せる場になれるように。
散々泣き続けたヒオの声はやがて微かなものとなり、止まった。
覗きこめば瞼を真っ赤に腫らして、それでも穏やかな表情をして、則正さんの胸で静かに眠っていた。
「泣き疲れたんだろうな」
則正さんが優しく髪をすく。
「…辛かったな。でも、泣けてよかった」
幸也さんも続ける。
僕たちは皆苦しくて、それでもすべてを分かち合えたという静かな喜びを感じていた。
「きっと、これからがまた闘いになると思う」
則正さんが決意をこめた表情で言った。
「思い出してしまったからこそ、余計にツラいことに直面せざるを得なくなったんだ、ヒオは」
確かにそうかもしれない。
自らの抱えてきたものと向き合って、苦しい現実を目の当たりにして、忘れていた方がよかった、と思う日が来るのかもしれない。
「でもオレたちがいる!」
決心したように祐介くんが叫んだ。
「もう、ヒオは独りじゃないんだ!」
「そうだな」
「絶対に、支えてみせます!」
ヒオが全ての過去を乗り越えて、今の僕たちと共にいられるように。
「よし、俺たち皆で頑張るぞ」
いつか皆で、屈託なく笑えるように。
僕たちは、立ち向かわなければならないんだ。
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