第58話 柔らかな夢を①


全てを思い出したと僕たちに告げてくれたあの日から、ヒオの新たな闘いは始まっていた。

眠り続けていたことにより機能が低下してしまった身体に対してのリハビリは、順調に進んでいて、もう日常生活に戻っても大丈夫なほどの回復を見せていた。


それでも、心はそういうわけにはいかない。


突然見知らぬ人に襲われた、というだけでも充分トラウマ案件であるのに、その犯人は過去にヒオに対して虐待を加えていた実の父親であり、この事件をきっかけとして辛すぎて閉じ込めていた過去の記憶がすべて甦ってしまったのだ。

それらの現実は、確実にヒオの心に深い傷をつけていた。


僕たちの誰かが一緒にいるときはそういうそぶりを見せないヒオだったが、一人で過ごす夜はどうしても不安に苛まれるらしく、なかなか眠ることができないのだという。

主治医や担当の看護師など、頻繁に顔を合わせる相手に対しては大丈夫でも、初めての相手に少し触れられるだけでもパニックを起こしてしまう。

特に男性の職員などは恐怖の対象となるらしく、過呼吸発作を起こして倒れてしまうこともしばしばだった。


それでもヒオは、皆で笑うために帰って来たのだ。苦しくてどうしようもなくても、その先には僕たち皆で明るく暮らす未来が待っている。それだけを信じて。

それならば、僕たちも諦めるわけにはいかない。僕たちだって、ヒオと共に在りたい。家族として、仲間として、一緒にいたいのだ。


「なあ、則正さん」

ある日の夕食の席で祐介くんが話し始めた。

「なんだ?」

「実はオレ、勉強したいことが出来たんだけど…」

介護の道に進むことを止めてから、ひたすらバイト生活だった祐介くんからの言葉に、皆が驚いた。

「そうなのか?何をやりたいんだ?」

「実はオレ、本気でお菓子を作ってみたくなって」

「お菓子!?」

料理が本当に苦手で、お皿洗いですら腰が引けているような祐介くんからのまさかの言葉に、さすがの則正さんも唖然としている。

僕も、幸也さんも同じようなものだった。

まさか、祐介くんがお菓子?

「初めてカイとクッキー作って、あのときもゆきばあちゃんとか皆に喜んでもらってすごく嬉しかったけど」

しっちゃかめっちゃかになったあの日のキッチンを思い出す。

至るところが粉だらけになって、ひたすら甘い香りが立ち込めていたあの日。

「この前、ヒオにクッキー持っていったとき、本当にほっとしたような柔らかい笑顔見せてくれて」

確かに、祐介くんがクッキーを渡したとき、ヒオはとても優しい顔をしていた。

「オレ、ヒオにずっとああやって笑っててほしい。あんな下手くそなクッキーで、あんなに喜んでくれて。オレ、もっと上手に作れるようになりたい。ヒオももっと笑わせてやりたいし、ヒオだけじゃなくいろんな人を笑顔にしたいんだ」


祐介くんがそんなことを考えていたなんて、思ってもみなかった。

それでもそれは、もともと介護を志していたときの祐介くんの思いと同じような気がして。

「祐介くん、すごいね」

僕はつい口にしてしまった。

「すごい?」

「うん、すごい。ヒオのこともゆきばあちゃんとのことも、全部前向きにとらえてて自分のできること探してる。ほんとすごいよ」

「そうだな。祐介、苦しい中で、よくそれを昇華できたな。えらいよ」

幸也さんも優しい眼差しで祐介くんを見つめている。

「…ありがと」

少し照れてしまったのか、祐介くんは俯いてしまった。


「祐介」

則正さんが真剣なトーンで呼び掛ける。

「はい」

「不器用なお前が進むには、なかなか難しい道だと思うぞ」

則正さんは冷静だ。確かに気持ちだけではうまくいくとは限らない。

「分かってる」

「それでも頑張るんだな」

「うん、頑張りたい。たくさん勉強も練習もしたいんだ」

「よし。決意が固まってるなら、俺は何も反対しない。川上さんにも伝えて、祐介がしっかり学べるように考えていこう」

「ありがと、則正さん。皆」

ほっとしたように笑顔を見せる祐介くん。

そんな祐介くんが、僕にはなぜかものすごく大人に見えたのだ。


そして僕も、ふんわり描いていた僕の夢がしっかり形になっていくのを感じていた。




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