第47話 天国と地獄⑤


「ヒオは大変な難産の末に生まれたんだ。出生と同時に母親を失っている」

静かに語る川上さん。声を出せないまま、僕たちも静かに聞いている。

「残されたヒオは、父親に育てられることになったんだが…」

きっと、ここからだ。

ヒオの辛い歴史が始まるのは。


「父親は、自分の妻が死んだのはヒオのせいだと考えたらしい。愛する妻を失った苦しみの捌け口は、ヒオしかいなかった。物心ついたころには、そこには暴力しかなかったそうだ」

「そんなっ…」

生まれたてのヒオに、どんな非があるというのだろう。

それがどれほど辛くやり場のない苦しみだったとして、子どもにそれを向けるなんて。

「ひどすぎる…」

皆、あまりにも苦しかっただろうヒオの幼少期を思い、絶句している。


「ヒオが言うには、まだ暴力には耐えられたらしい。いいことだとは言えないけれど、成長するとともにいつか殺ってやる、という気持ちが大きくなっていったそうだ」

その反応はあまりにもヒオらしかった。

ヒオは、自分に降りかかった火の粉は自分の拳で振り払うタイプだから。

「そんなヒオの気持ちが折れたのは、小学5年になったころだ。父親は、ヒオに対し性的虐待を繰り返すようになったらしい」


リビングの気温が下がった。

その事実は僕たちに、目の前が真っ暗になるほどの衝撃を与えた。

まさかそこまでのことをヒオがされていたなんて。

暴力やネグレクトなど、僕たちは様々に虐待を受けてきた。

そんな僕たちでも想像を絶するほどの苦しみをヒオは受けてきたのだ。


「そこからの詳細は、きちんと聞き出せてはいない。なんと言っても、ヒオ自身が記憶に蓋をしてしまったからな。それでももしも思い出したくもないおぞましい記憶が甦ってしまったのなら、ヒオの今の状態にも説明がつく。正直、いつ目が覚めるかも分からないし、目が覚めたあとのヒオがどんな状態になるのかも想像がつかない。それでも…」

川上さんが僕たちの顔を見渡す。

「ヒオを、受け止めてやってほしい」

その言葉に、僕たちは強くうなずいたのだった。


その夜。

自分たちの部屋へと戻ってからも、僕はどうしても寝られなかった。

ずっと川上さんの話が頭から離れなかったのだ。

ヒオのこと、ヒオのこれまでのこと。

僕に何ができるのだろう。

苦しいことばかりだったヒオのこれまでを思う。


きっと僕は、ヒオを救いたいんだ。恐ろしい過去の記憶から。

できることなら解放してあげたい。本当の自由をあげたい。


傲慢な願いなのかもしれない。

こんな僕にできることなんて何もないのかもしれない。

それでもヒオが眠りから覚めたとき、怖れるものなんて何もないんだって抱きしめてあげたいんだ。

もう怯えることはないんだって、心の底から信じさせてあげたいんだ。

そのために出来ること。

僕がこの手で出来ること。


僕はそっと部屋を抜け出し、リビングへと降りた。

1階のリビングでは、お客さん用の布団を敷いて川上さんが眠っている。

昨日の夜からずっとヒオにつきっきりで、さらにはこんな重い話を僕たちに打ち明けて、川上さんも疲れ切っているだろう。


僕はそっと、川上さんの鞄に手をかけた。

ヒオの過去を話すとき、川上さんが時折資料を手にしているのを見ていたのだ。

父親と遭遇したことが今回のきっかけなのだとしたら、その情報を必ず川上さんは持っているはず。

きっと突き止めるつもりなのだ。昨日何があって何がなかったのか。

何がヒオをこんな状態にしたのか。

だって、僕たち同様川上さんは烈火のごとく怒っているはずだから。


僕は音を出さないようにその紙を探す。

川上さんが事を起こす前に、僕が始末をつけるために。


いくつかあるクリアファイルの中から目当てのものを見つけ出す。

本心では見たくもないその男の情報を頭に叩き込む。

地理はよく分からないし、何より外に出られるのかさえ分からない。

それでも僕は行かなければならないのだ。



ヒオを痛めつけた男を葬り去るために。


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