第46話 天国と地獄④

「目が覚めないって、どういうことですか!?」

珍しく幸也さんが声を荒げる。

祐介くんは呆然としているし、僕も何をどう理解すればいいのか分からずに立ち尽くしている。

「もしかして、どこか脳にダメージとか、」

夜の間中熱が高かったヒオの様子を思い出して恐怖が襲う。

「いや、そういうことはない」

川上さんははっきりと断言する。

「朝のうちに、身体的に危険な状況からは脱している。それは、ドクターもきちんと検査をしたうえでそうおっしゃっている」

でも、それならどうして…


「目が覚めないのは、精神的な問題だそうだ」

これまで一切口を開かなかった則正さんが、何かを決意したように顔を上げて言った。

「もちろん、熱も高く過呼吸も起こしていたヒオの体調は一番心配だった。それでもずっと引っ掛かっていたのは、なぜヒオがあんな状態になって帰ってきたのか、ということだ」

確かに則正さんの言う通りだ。

あまりにも目まぐるしく動いた事態に忘れかけていたけれど、「何かがあったから」こそ、ヒオがびしょ濡れで家に帰ってくる、ということになったのだから。


「今までお前たちに伝えていなかったことがあるんだ」

静かに話し始めた川上さんに、緊張が走る。

則正さんは事前に聞かされていたのか、落ち着いた表情で、しかし目だけは強く川上さんの方を見ている。

「ヒオが目覚めなくなったのは、これが初めてじゃない。この家に来る前にも、一度こうなったことがある」

それは正に初耳の出来事だった。

幸也さんも祐介くんも、驚いたような顔をしている。


「お前たちの過去については、皆それぞれ何となく知っていたと思う。それでもヒオに関しては、誰も詳しくは知らないと思うんだ」

確かに、ヒオは自分の過去のことは一切話さなかった。聞いたことがあるのはヒオという名前の話と、「ろくでもない大人のもとに生まれたらしい」というヒオの言葉だけだった。

「本人にとって、口にも出したくない過去だったんだろう。口止めをされたことはないが、積極的に話すことも望んではいなかったはずだ。というよりは、自身の記憶自体を消してしまっていたのかもしれない」

能天気なヒオの顔を思い出す。

大食いでガサツで、それでも、めちゃくちゃ優しいヒオ。


「前の施設に引き取られたとき、アイツは誰とも口を聞かず、自分の殻に閉じ籠っていた。職員も皆どうしてやればいいのか考えあぐねていた。そんなとき、アイツに虐待を繰り返していた父親が、施設まで奪い返しに来たんだ」

聞いているだけで、心が痛む。

「精神的に支配されていたんだろう、抵抗さえできずにいるアイツをなんとか父親から引き離し、職員たちは必死に守った。やっとのことで父親が警察に引き渡され誰もがほっとしたところで、アイツは意識を失って倒れた。それから二週間近く眠り続けたんだ」


そんなことがあったなんて。

確かに普段のヒオは、そんな過去の欠片さえ見せない。

それでもきっと、ひどく大きくて苦しいモノを背負っているような気はしていた。

この家の皆はきっとそうだと思う。

学校とかそういう知り合いは決して気づかない程度の揺らぎ。ヒオは常に、誰にも見えない不穏な揺らぎの中にいたから。


「目覚めたあとのヒオは、それまでの記憶をなくしているようだった。もちろんうっすらとは覚えているし、ひどいことをされたという事実は理解してるようだったが、アイツが記憶を失くしてでも消したかったことに関しては何も残っていなかった。わざわざ記憶を呼び戻してまで辛い思いをさせなくても、とあえて触れずにはきたんだが…」

川上さんは、痛そうな表情で唇を嚙みしめた。

「今回のことは、そんな過去の記憶を無理矢理に引きずり出されるような出来事が起こったんじゃないか、と俺は思っている。だからこそヒオは正気を失い、雨に濡れて帰ってきた」


痛切に、知りたいと思った。

ヒオのことを。そしてヒオを苦しめる何かについて。

正気を失ってまでたどりついたこの家で、もう一度ヒオをしっかりと抱きしめるために。



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