第43話 天国と地獄①
その日は朝からついていなかった。
まず、僕の嫌いな雨の日だったこと。
それから、お弁当を作っていたときに、良く使っていた小皿を割ってしまったこと。
部屋干しの洗濯物がなかなか乾かなかったこと。
ニンジンをと一緒に、左手の人差し指を軽く切ってしまったこと。
そんな細かい「なんかイヤだなあ」を繰り返し、僕は今日という日が何事もなく過ぎていくことを心から願うようになっていた。
気圧の影響で、則正さんの最近調子のいい耳が痛くなってしまったら。
もしもこの雨で、幸也さんがまた事故にでもあってしまったら。
祐介くんが派遣をクビになったら、ヒオが学校でケンカをしたら。
不安は尽きない。
全ての家事を終えた僕は、窓から降りやまない雨を見てずっとずっと願っていた。
「どうか皆が無事帰ってきますように」
それは、何の根拠もない不安に対しての切実な願いだった。
そして、その願いは一つずつ叶っていった。
則正さんの耳は今日も好調で、幸也さんも無事故で仕事を終え、祐介くんはクビになることなく派遣先から帰ってきた。
あと一人。
願いがすべて叶うまで、あとはヒオを残すのみだった。
「ヒオ、遅いな」
時計とにらめっこしている僕に、これまた心配気な祐介くんが声をかけてくる。
ヒオはいつも一番に帰ってくるのに、今日に限って18時を回っても帰ってこない。
遅くなる可能性があるなら朝のうちに言ってくれているはずだ。
ケンカをしたならたぶん川上さんか則正さんに連絡が入るだろうし、そのほかの要因であるならそれはそれで心配だ。
考えるうちに心臓がばくばくしてきた。
何もなければそれでいい。とにかくヒオが無事なのかどうかを知りたい。
「ヒオ、どうしたんだろうな」
幸也さんも心配そうに言う。
皆が皆、いつにない状況に不安になっていた。
そのとき。
ガチャリ、と玄関の戸が開く音がした。
「ヒオ!おかえり!」
リビングから飛び出して、玄関先に走る。そして、そこにいたのは。
「…ヒオ?」
びしょ濡れになったヒオが、うなだれたまま立ち尽くしていた。
「どうしたんだ?こんなに濡れて」
「あれ、傘持ってなかったのか?」
あとから来た祐介くんと則正さんが声をかけても、ヒオはそこから微動だにしない。
「とりあえずタオル持ってくるな」
幸也さんが洗面所に走ってくれた。
「ヒオ?」
どうにも様子のおかしいヒオを覗き込んでみれば、その顔は真っ青で血の気がない。
「大丈夫?」
「体調悪いのか?」
駆け寄って、肩に触れたとき。
「…わ、るな…」
か細い声でヒオが何か言ったようだった。
「ん?なんて?」
「触るな!」
触れた手を思いっきり振り払われ、僕は廊下に転んでしまった。
「おい!」
突然のことに皆が驚いた。その中でヒオをたしなめようと則正さんが近寄ると同時に、その体は静かに崩れ落ちていく。
「ヒオ!」
則正さんがとっさにヒオを抱きとめた。
濡れた体は寒さからか小刻みに震えていて、完全に意識はない。
「ヒオ!ヒオ!」
僕はもう名前を呼ぶことしかできなかった。
「とりあえず、リビングに運ぶぞ」
ヒオを抱きかかえた則正さんは、険しい表情で僕たちに告げる。
冷え切った体を温めるため幸也さんはタオルとお湯を用意し、祐介くんはヒオの着替えを用意しに走った。
「カイ」
ヒオをリビングに寝かせ、幸也さんにあとを任せた則正さんが、僕をしっかり抱きしめてくれた。
「大丈夫だ。ヒオは大丈夫だからな」
その声は動揺する僕を落ち着かせてくれたけれど、則正さんが自分自身に言い聞かせているようでもあった。
そうなんだ。皆、この非常事態にひどく怯えている。
それでも、ヒオを守るために傷つけないために、必死に自分を奮い立たせているんだ。
僕は僕のできることを。
「僕、川上さんに電話してきます」
「頼んだぞ」
頭をわしわし撫でてくれる手に勇気をもらい、僕は電話まで走った。
何がどうなっているのかなんてまったく分からないけれど、どうにかしなければならないんだ。
ヒオのため、そして僕たち皆のために。
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