第35話 心の音③


早朝に目が覚めた。

だいたい一番に起きている僕の、いつもの起床時間よりも早い午前4時。

あたりはまだ薄暗くて、自分の手のひらさえはっきりと見えないくらいだ。


いつもならそのまま二度寝してしまうのに、なんとなくそんな気にもなれなくて、僕はそっと起き出した。

誰も起こさないように静かに階段を下りると、リビングに灯りがついているのが見える。誰かいるのか?と近づいてみれば、聞こえるのは少し抑えた話し声。

「なあ、則正さん」

呼び掛けているのは幸也さんだ。

「そろそろ、自由になってもいいんじゃないか?」

則正さんのものらしい背中の影が、ぴくりと動いたのが分かった。


「俺たちは皆、とんでもない過去を経てここに来た。それは誰にも完全には理解できないし、自分自身でも理解なんてできない出来事だ」

淡々と言葉をつなぐ幸也さん。

則正さんは、静かに耳を傾けているようだ。


「それでも、俺たちは知ってる。皆そんな過去を必死にくぐり抜けて今を生きているってこと。それがどんなに大変でツラいことだったのか、理解は出来なくてもちゃんと知ってる」

幸也さんの声は落ち着いていて温かい。どれほど則正さんのことを思っているのか、聞いているだけで伝わってくる。

「だからさ、もう、そんな大変でツラい時代から解き放たれていいんだよ。則正さんがどれほど耳のことで苦労してきたか、俺が一番近くで見てきた。誰が許さなくても俺が許す。もう過去のことにしていいんだよ。その重石から解放された、自由な則正さんが俺は見たいよ」


熱いわけでも冷めているわけでもない。いつも通り穏やかな、淡々としたトーンなのに、幸也さんの言葉が僕の心のど真ん中に降ってきた。

そうなんだ、もう僕たちは、自由に生きていいはずなんだ。


皆、いまだ過去に囚われている。

僕だってそうだ。もう二年も経つのに、今もまだ外に出られないでいる。

相続の問題を抱えていた幸也さん、自分のおばあちゃんを仕事先のおばあちゃんに重ねていた祐介くん、将来のことを考えられずに悩んでいたヒオ、皆みんなそうだ。


それを分かったうえで、幸也さんは則正さんに「自由になれ」と言う。

自分自身の経験もあるだろうが、それより何より二人の信頼関係がそうさせるのだろう。

幸也さんと則正さんは、この家の中で一番長い時間を共に過ごしている。だからこそ、お互いの思いを最も理解しあえているのは、この二人だと思う。

則正さんの枷を外すことができるとすれば、それは幸也さんだ。幸也さんしかいない。


知らないうちに、僕の目から涙がこぼれ落ちていた。

哀しみでもない喜びでもない。自分のためでも他人のためでもない。

それでもこの涙は、僕たちの自由への願いなのだと思う。


「…幸也」

穏やかな声。

「ありがとう。幸也の言う通りだ」

昨日の、どこか強ばった表情の則正さんではない。いつもの優しくて力強い、則正さんの声だ。

「俺、手術受けてみるよ」


則正さんの決意を聞いて、僕は心底ほっとした。これで則正さんが、ほんの少し自由になれるんだ。

それを思うと、なんだか急に眠くなってきた。まだ5時にもなっていない早朝だ。

僕はそのまま、静かに自分の部屋のベッドへと戻って眠ったのだった。


その日の朝ごはんの場で、則正さんから皆に手術を受けることにしたと報告があった。

皆はとても喜んで、手術にむかう則正さんにエールを送っていた。

二人の話を聞いてしまったのは僕だけだったけれど、昨日の幸也さんの言葉もあって、皆なんとなく則正さんの心の動きを理解していたんじゃないかな、なんて思う。


今の僕たちは、則正さんの両側をなにも気にせず陣取って、たくさん話ができる日を心から待っている。

そしてそれは、遠い夢ではなく必ず実現する近い未来の話なのだ。




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