第34話 心の音②
「則正さん、すごいじゃん!耳、治せるんだろ」
静かな空間に、ヒオの声が響く。
手術の話をされたあと、喜ぶでも悲しむでもない則正さんに何と声を掛けようか考えあぐねていたときだ。
たぶん皆そうだったのだろう、この空気を変えようとヒオが本能的に言葉を発したのだと思う。
「…そうだな。すごいことだな」
感情の伝わってこない則正さんの言葉に、僕はさらに混乱する。
喜ばしいことのように思うのだが、どうにもそれだけではなさそうだ。
「…なあ則正さん、嬉しくないのか?」
祐介くんが不思議そうに尋ねる。
則正さんの気持ちを知りたいのに、どうにも伝わってこないのだ。
「…」
それでも則正さんは無言だ。
皆がみんな、どうしたらいいのか分からない空気になっていた。
「ま、ゆっくり考えたらいいんじゃないか?」
穏やかに、幸也さんが久口を開く。
「急に言われたら、いくら則正さんだってびっくりするよ」
労るような優しい口調に、なぜか救われたような気がした。
「則正さん、食べたら風呂入りなよ」
あくまでいつもの調子の幸也さんに、僕たちも当たり前を取り戻す。
「そうですよ。皆もう入っちゃったからあとは則正さんだけなんで。ゆっくり入ってきてください」
食器を片付けようとする則正さんを止めて、お風呂へと促した。ここは少し、間をとった方がいいのかもしれない。
「ありがとな。じゃあ、そうさせてもらうよ」
則正さんは反対することなく風呂場へと向かった。
「なあ幸也さん、則正さんどうしちゃったんだ?」
風呂場の水音が聞こえるようになってから、祐介くんが切り出した。
「今まで苦労してきた耳がせっかく良くなるっていうのに、なんかあんまり嬉しそうじゃなかったよな」
問いかける祐介くんは、ひどく心配そうな顔をしている。
それを聞いているヒオも、そしてたぶん僕も、同じような表情をしているに違いない。あまりにも則正さんのリアクションが予想外すぎたから。
「うーん、ちゃんとは分からないけど…」
幸也さんは考えながら言葉を絞り出す。
「たぶん則正さんの耳は、則正さんの過去の象徴だ。すごく辛くて苦しくて、忘れてしまいたいようなそれを、それでも忘れないように、忘れて許してしまわないように生きてきたんじゃないかな、則正さんは」
幸也さんの言葉は、少しショックだった。
あの則正さんが…という思いと、それはそうだろうという思いと。
幸也さんの語る則正さんの思いは、あまりにも馴染みのある感情だったから。
「…そっか」
「恨みや怒り、悲しみをなかったことにはできないけれど、感情って薄れていくものだからさ。忘れたい思いと忘れたくない思いがずっと交差してる。本当は囚われずに生きていければいいんだけどな…」
「そんなもんじゃねーよな。忘れたら負け、みたいに思ってるとこ、オレもあるよ」
「僕もです…」
「気長に待とう。則正さんが気持ちに折り合いつけてちゃんと納得して、そこからでいいと思うよ。結論を出すのはさ」
幸也さんはやっぱり則正さんのことを、そして僕たち皆が持っているなんとも言い難い微妙な感情を、とても良く分かってくれている。
幸也さん自身もそうであったように、これまでの自分の苦しさをなかったことにはできないし、したくないのだ。
過去にされたことを許したくない思いが、則正さんの聞こえない耳という形で残っている分、複雑な気持ちを持ってしまうのはとてもよく分かる。
だからきっと、僕たちがこの件に対して言えることは何もないのだ。
ただ則正さんの下す決断を受け入れること。
それが僕たちにとっての最善の道だ。
それでも。
そうは分かっていても、僕は則正さんに手術を受けてほしい。
これ以上耳のことでツラい思いをしないでほしい。
僕のワガママなのだけれど、そう思うのだ。
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