第33話 心の音①

「よお。則正いるか?」

ある日の夜、久しぶりに川上さんがやってきた。

皆が食事を終えて、リビングやダイニングで思い思いのことをしている時間。

どうやらお目当ては則正さんのようだ。

「則正さん、今日遅番なんです。たぶん9時過ぎくらいになると思います」

冷えた麦茶を差し出しながら答える。

「さんきゅ」

グラスを受け取り、壁の時計を見上げる。今は8時50分。すぐに帰ってくるだろう。

「じゃあ、ちょっと待たせてもらうか」

テーブルの前に座った川上さんに、祐介くんが話しかける。

「則正さん、どうかしたの?それとも、誰かに何か問題?」

川上さんと則正さんの間でプチ会議が開かれることはよくある。

僕らの保護者である川上さんと、長男の役割を完全に担ってくれている則正さん。

皆のことで、二人の間の意思疎通は完璧だ。

「ああ、いや。今日は則正に用事」

「ふーん」


自分のことでなかったからか、少しほっとした様子の祐介くんはそのままリビングに戻っていった。

遠目で見ると、ヒオもすこし安心したような顔をしている。

二人とも、自分のことで何か言われることに対して少し怯えているらしい。

そんな様子がなんとなく面白くて、つい笑ってしまう。

「あ!カイ、今笑っただろ!」

「…ううん、笑ってないよ」

「なんだよその間は!絶対笑った!」

「ほらほら、そのへんにしとけよー。このリアクションで祐介もヒオも思い当たる節がたーくさんあるってことが分かっただけでも収穫だ」

ニヤニヤと川上さんが笑う。

二人のことなんて、全てお見通しのようだ。

「まあまあ、今日は何事もないんだし、二人とも安心して眠れるよな」

幸也さんもニコニコ顔で入ってくる。

皆、二人をいじるのが楽しいらしい。


「ただいまー」

皆で二人をいじっていると、則正さんが帰ってきた。

「おかえりなさい!」

「よお、則正。邪魔してるよ」

「ああ、川上さん。誰か何かありましたか?」

則正さんも、今日の要件が自分のこととは思っていないようだ。

「ひどいよ則正さん、絶対オレたちのどっちかと思ってるだろ~」

祐介くんとヒオが必死になっている。

「そんなこと…少しは思ってるけど」

「みんなひどいな~。今日は則正さんのことらしいのに」

「え、俺?」

心底びっくりした顔をした則正さんに、川上さんはまず座るように促した。

「飯まだだろ?食べながらでいいよ」

「はい」


一人分とっておいた夕食を則正さんの前に並べる。

今日の夕飯は、豚の生姜焼きとニンジンと大根のお味噌汁、ほうれん草のお浸し。

皆が大好きで、今となれば僕の得意料理の一つだ。

温めなおしたそれはほわほわと湯気が立っていて、則正さんの表情もやわらかくなる。

「いただきます」

丁寧に手を合わせ、食べ始めた。

「うまい。カイ、ありがとな」

数口食べたところで、やさしくこちらを見てくれる。

ご飯の時に皆はいつもお礼を言ってくれて、それだけで僕は作ってよかった、と心から思えるのだ。


「それで、どうしたんですか?」

しばらく食べて、少しおなかが落ち着いただろうところで則正さんが問いかけた。

川上さんの話が気になっているようだ。

「ああ。なあ則正、おまえの耳のことなんだけど。この際、手術してみないか?」

「えっ!?」

思いもかけない話に、則正さんは絶句する。

僕たちも、まさかそんな話だとは思ってもみなかったから、どう反応していいのか分からなかった。

「お前と出会った頃からずーっと、治療法を探してたんだ。なかなか手術の適応とならなかった症例らしいんだが、最近編み出された術式で可能になったらしい」

「耳を、手術…」

「完全に治癒する可能性は50%程度らしい。完全とは言えなくてもよくなる可能性は85%だそうだ。それでも、今より格段に聴力は上がるらしい。どうだ、やってみないか?」

「…少し、考えさせてもらえませんか」

「お前にとって大切なことだ。じっくり考えればいいさ。ただ、お前自身のことではあるけれど、皆にとっても大事なことだと思う。だから今、ここで話させてもらった」

「…分かりました」

「じゃ、今日はこれで」

川上さんは言うだけ言ってこの家を出て行った。

残されたのは時間を刻む秒針の音と、妙な静けさだけだった。


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