第26話 はじまりの話③
その日からさらに数週間がたった日曜日の朝10時。俺は入所する施設の前に立っていた。
ほんの少しの荷物と、抱えきれない思いを密かに抱きながら。
その施設は、元々住んでいた家から結構な距離があり、学校は転校せざるを得なかった。
そのことを顧問の先生に告げたとき、
「いつでも、何でも相談しに来いよ」
先生はまた男泣きしながら両手でしっかり手を握ってくれた。
部活の仲間たちは、先輩も後輩も含め皆が別れを惜しんでくれた。泣いてくれた奴らもいた。
この時期の俺には彼らの存在が唯一の温度のある記憶だ。あれから30年以上の月日が経った今でも、このぬくもりを忘れたことはない。
それとは対照的に、施設に入った日のことはもうほとんど覚えていない。
かすかに残る記憶は、叔母に連れられて来た施設の玄関が妙に寒々しく見えたことと、どこかほっとしたような叔母の表情だけだ。
あまりにも目まぐるしく変化する日々に、たまりかねた心が蓋をしてしまったんだろうと思う。
そしてそれは、もう二度と帰れない過去と決別するためには必要不可欠のことだったのたろう。
その日から、大きくてほんの少し寂れた灰色の建物が俺の家となり、そのうちの四人部屋の窓側の場所が俺の居場所となった。
備え付けられた小さな机に置いてあるのは、前の家から持ってきた家族写真と野球ボール。
毎日毎日、何があってもなくてもそれらを眺めるのが日課となっていた。
それだけが、これまで俺が「川上一」として生きてきた証明となり、俺自身を支えてくれるものだったから。
思いの外、施設での暮らしは順調だった。
部屋のメンバーとは当たらずさわらずの距離感で無理なく付き合うことができたし、施設のスタッフたちは皆穏やかで冷静だった。
それぞれ喪失体験を身近に感じているから、そういう面でのさりげない気遣いが身についているようだった。
それと比べて苦痛だったのは、転校先の学校だった。
ワケありの転校生、というだけで、興味本位の目に晒される。
それがたとえ悪気のないものだったとしても、多感な頃にその経験は重かった。
教師からの気遣わしげな目も、勝手に回っていく噂話も、遠巻きに眺めてくるクラスメートの視線も。それらのすべてが俺には苦痛で、俺はどんどん自分の殻に閉じこもり、クラスメートと交わることを自ら避けるようになっていった。
一言も発することなく学校を終え、なんとなく互いに気遣いあいながら食事や入浴を終え、夜ベッドで一人になると家族のことを思い出しては哀しくなり、様々な思いにとらわれる。
俺の心の奥底を流れる怒りの感情は決して消えることはなく、それどころかどんどんその熱を増していく。
毎晩毎晩、俺はその熱を持て余し、眠れぬ日々を過ごしていた。
どこにも交われない自分。
やんわりとした、それでも確実に逃れられない他者からの支配。
全力で生きることも、逃げるために死ぬことも、今の自分には選ぶことはできない。
それならば、晴れて自由を手に入れてから
ひっそり死ぬのはどうだろう。
あるとき、不意に浮かんだアイディアだった。
伯父と叔母が言うには、俺は高校を卒業するまでの間この施設で暮らすことになっているらしい。
それなら、高校の卒業式の翌日、誰の目に触れることのない場所で命を絶てばいい。
それまでの約4年半、目立たず騒がずひたすらこの命を浪費して、いつか会える家族を思って過ごせばいいんだ。
そう決意してしまえば、俺を苛んでいた怒りの感情は波が引いていくようにスーッと鎮まっていった。
先の見えない毎日は苦痛だ。
でもその先に望むべき結末があるのなら、その苦痛にも耐えられる。
こうして、非常に歪んだ形ではあるものの、俺の精神はある程度の安定を得た。
意図的にピントをずらしてしまえば、何も見ることはないし感じることはない。
表面上、淡々と日々は過ぎていった。
伯父や叔母とは徐々に連絡も取れなくなっていったけれど、施設にいる以上生活に困ることはなかったし、それを俺は当然のこととして受け止めた。
何もかもが意識から薄らいでいくような感覚。それがその頃の俺の全てだったのだ。
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