第20話 海にあこがれて③

かすかに明かりを感じる。

さっきまで真っ暗だったはずの瞼の外が、やわらかな光に包まれているのが分かった。

急速に戻っていく意識の中、右手だけが何かに捕まえられているように動かない。

何が起こっているのか確かめたくなって、僕はそっと目を開けた。


「カイ!」

すぐ近くにあったのは、覗き込んでいる幸也さんの顔。

「…ゆ、きや、さん?」

「よかった。目が覚めたんだな」

いつものように柔らかく微笑んで、幸也さんが頭を撫でてくれる。

それが気持ちよくて、つい微睡みそうになってしまうけれど、気になるのは動かない右手。

ゆっくり振り返って右手のほうを見てみると。

「…ヒオ?」

僕の右手を握りしめたまま、ヒオが眠っていた。

「ヒオ、オレのせいだって泣いてカイから離れなくてな。カイの手を握りしめたまま寝ちゃったんだ。右手、痺れてないか?」

「それは、だいじょうぶ」

固く握られた手はほんの少し違和感があるけれど、それよりなにより温かくてやさしくて、うれしい。


与えられるぬくもりにだんだん瞼が閉じていく。

「寝られるんなら寝ちゃいな」

幸也さんが手をそっと瞼の上に置いてくれる。もう声を出すのも億劫で、こくりと頷いてそのまままた眠りについた。


次の覚醒は突然だった。

なんの前触れもなく目が覚めて、まばたきを繰り返す。

もう体のだるさも残っていない。本格的に目覚めたらしい。

「おはよう」

今度は則正さんが覗きこんでいた。

「おはよ、ございます」

喉がカラカラで声がかすれる。

「もし起きられそうなら、水分取ろうか」

ゆっくり抱き起してくれるときに、繋がれていた右手が離れているのを知った。

「ヒオなら学校に行かせたよ。ずっと行かないって駄々こねてたけど」

僕にスポーツドリンクを飲ませてくれながら、則正さんがいたずらっぽく笑う。

そこで気づいた。もう学校に行く時間を過ぎていたなんて。

「…あれ、いま、何時ですか?」

「今はもう11時前だな」

「僕そんなに寝てて…」

「過呼吸起こして、体力全部持っていかれたんだろう。もう大丈夫そうかな?」

よしよしと頭を撫でながら、にこやかに則正さんが言う。

「はい。なんだか体がすっきりしてます」

たくさん眠ったせいか、妙に体が軽い。

これならどこへでも行けそうだ。


どこへでも?


そこで全てを思い出した。

ヒオを傷つけたこと。やっぱり外に出られなかったこと。

「…ああ、僕、やっぱり出られなくて…」

俯いた僕の顔を則正さんは覗きこむ。

「カイ、」

目を合わせるのがなんとなく申し訳なくて、そっと視線をそらす。

「カイは、よく頑張ってるよ」

則正さんは頭を撫でながらそんなことを言う。

「…全然、全然頑張れてなんかいません。ずっと昔のこと引きずって、結局ヒオを傷つけて…」

外に出たいのも、海を見たいのも本心なのに、どうしても体がついてきてくれない。きっとこれは僕の弱さだ。

「カイ、聞いて」

則正さんは優しい口調で話し始める。

「ヒオから聞いたよ。ちょっと、ヒオが急がせ過ぎたね。ごめんな」

「則正さんが謝ることなんて」

「カイも、謝る必要はないよ」

「でも…」

「分かってるよ、皆。カイが本当は外に出たいと思っていて、本当に海を見たいと思ってること。それでもどうしても体が怖がってしまうこと」

こういうときの則正さんの声は、なんでこんなに優しいんだろう。

頑なだった心がするするとほどけていってしまいそうだ。

「…行きたいのに…ヒオと一緒に、海を見たいのに…」

涙で言葉が遮られてしまう。

「焦らなくていいんだよ。怖くて当然なんだ。今までの人生のほとんどをこうして生きてきたんたから。だから、カイのペースでチャレンジしていけばいい」

「でも、僕が今のこの状況に甘えているから…」

「甘えればいいんだよ。ここに、皆に甘えろよ。やっとカイ自身の人生を肯定できる場所に来たんだ。目一杯甘えてくれよ」


もう、頷くしかできなかった。

たくさん泣いて、慰められて。

今の僕のままでいいんだ。僕のペースで進んで行けばいいんだ。

これで僕はやっと、僕自身を少しは認めてあげられるような気がする。

なんだか心まですっきりして、泣き止んだ僕は則正さんと一緒に、お昼ごはんの暖かいうどんをお腹いっぱい食べたのだった。


「カイ!本当にごめん!!」

夕方、扉が開く音と同時にヒオが叫びながら入ってきて、泣きながら僕を抱きしめて謝ってくるから、僕はその頭を不器用に撫でてやるのだった。


いつかヒオと、皆と、海を見に行けますように。そう願いながら。


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