第18話 海にあこがれて①

僕の名前が「海」だと知ったのは、ここへ来てからだった。


「初めまして、カイです」

川上さんの陰に隠れながらそう言った僕に、「カイは、海って書くんだな。いい名前だ」

川上さんから渡された書類を見ながら、則正さんはそう言って笑った。


その日から僕の憧れは海だった。

青くて透明で、波が打ち寄せてくる海。

たくさんの生き物がいて、生命の源である海。

いつか本物の海を見てみたい、僕はひそかにそんなことを思っていた。


「聞いてんのか?」

不機嫌そうな声でヒオは言う。

そうだった。さっきから、僕はヒオに怒られていたんだ。

つい現実逃避してしまったのを、ヒオは目敏く察知したらしい。より不機嫌そうな顔でこちらを見てくる。

「…聞いてるよ」

「じゃあ、なんでなのか理由を言えよ」

「なんでって…」


事の発端は、ヒオに海へと誘われたことだった。

すごくうれしかったけれど、外に出ることへの抵抗が強く、断ってしまったのだ。

「なあ、カイも一緒に行こうよ」

「いや、僕はいいよ」

「なんでだよ、海見たいって言ってたじゃん」

「見たいけど、僕には無理だから」

そう言ったとき、カイの顔色がさっと変わったのが分かった。

「無理無理って、カイいつもそればっかじゃん」

「だって…」

「何が無理なんだよ、やってみればいいだけだろ」

「そんなこと言われても…」


僕は今まで外に出たことがない。

厳密に言えば、僕の生まれ育った家から施設へ、そして施設からこの家へと渡り歩いてはいるから、そのときは外に出ているのだろう。

でもそのどちらも、気を失っていたり寝ている間だったりと、自分の意識下では出ていないのだ。


外に出るのは恐ろしいことだと、記憶の奥底に刻み込まれている。

外に出ようなんて考えるな。

外の世界におまえの居場所なんかなくて、薄汚れた部屋の片隅にしかおまえの存在できる場所はない。

おまえなんかが外に出たら、世間様に迷惑がかかる。

生まれてからずっとそう言われてきた僕に、外に出るという発想はなかった。


両親の虐待がますます激しくなり、行政の介入により強制的に施設へと引き渡された僕に残ったのは、「カイ」という名前と「僕が外に出ようとすれば殴られる」という強迫観念だけだったのだ。


「ベランダには出られるようになっただろ」

「そうだけど…」

「ベランダも外も変わらないだろ」

「それは…」


この家に来て、最低限の知識を身につけた。

誰でも自由に外に出てもいいということ、僕だって外に出られるということ。

そのほかにも、国語も算数も、簡単な英語も、自分の名前も、全部川上さんと則正さん、そして幸也さんが教えてくれた。

家事もこなすようになり、なんとか洗濯物をベランダに干すことはできるようになった。


でもそれは、「この家の」ベランダであり、「皆の」洗濯物だったからだ。


この家から離れた「外」は、いまだに恐怖でしかない。

大丈夫なことは分かっている。

だって、皆元気に外へ出て、元気に外から帰ってくるから。

それでも幼児期から刷り込まれた恐怖は、そう簡単に拭えるものではない。

靴を履いて玄関の扉を開く、それだけで体が震えてしまう。僕にとって外の世界というものは、それほどまでに「怖いもの」なのだ。


「もういいよ」

恐ろしく醒めた声でヒオは言う。

「カイなんか、一生家の中で引きこもってりゃいいんだ!」

ドタドタと、階段を上る音。

それでも僕は、ヒオを追いかけることができなかった。


海を見てみたい、なんて、そんな希望を抱くんじゃなかった。

そんなことさえ思わなければ、一緒に海を見に行こうと誘ってくれたヒオを傷つけることもなかったし、何事もなく暮らしていけたんだ。

やっぱり僕は、外になんて出てはいけない。

これまで通り、家の片隅でおとなしく、息を殺して生きていけばいい。


そう思おうとするのに、なぜか苦しくて泣きそうなのはなぜなんだろう。


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